ビルの合間の空(5)




 降り立った駅は、偶然にも麻柚夏が毎日利用している駅の隣の駅だった。
「引っ越すときに、色々候補はあったんだけど、君の写真と似た場所があったから、ここに決めた」
 それもそのはず、あの写真の中にはこの辺りを撮った場所もあるはずだった。だが、麻柚夏はそれを口にしなかった。西山文彦の行動の、意味が理解できなかった。ただ、麻柚夏の抱える大き目の紙袋を自然と手にとって代わりに持つという慣れた様子から、相変わらず女性の出入りが絶えないのだろうと考えて、彼女の心の中には少し憂鬱な気分が過ぎった。
 麻柚夏の予想に反し、案内された場所は五階建てのワンルームマンションだった。以前彼が住んでいたのは二部屋にリビングが付いた広いマンションだったため、麻柚夏は部屋に入ってからその狭さに驚いた。今麻柚夏が住んでいる部屋よりも狭かった。ベットやデスクは以前彼が使っていたものと同じものが窮屈そうに部屋に収まっている。隅のほうには以前見られなかったカラーボックスが置かれ、中には工業デザイン系の専門書が詰め込まれていた。整理されているものの雑多な雰囲気。そこで麻柚夏は彼も転職したのかもしれないと認識した。
「狭くてすまない」
 秋の肌寒い日だったが、日当たりが良い部屋で寒さは感じなかった。窓から見える空は高く青く、この空もあの銀座の空と繋がっているんだなあとそんな見当違いなことを考えながら、麻柚夏はうずくまるようにソファに座りコーヒーメーカーの音を聞いていた。彼はコーヒーにこだわる人だったとその後姿を見ていた麻柚夏は、初めて彼の洋服にあの頃ほど違和感を覚えない事に気付いた。以前のようにガラスの中に閉じ込められた服という印象を受けない。洗濯を繰り返したのか、多少くたびれたシャツの折り目。
「以前ほどいい豆ではないけど」
 そう言われて口にしたコーヒーの味は、ごく普通の美味しいコーヒーだった。そういえば彼の部屋に居るときはいつもどこか落ち着かずコーヒーの味すら良く分からなかったと、麻柚夏は次々に記憶をよみがえらせていた。
「不味い?」
尋ねられて、麻柚夏は首を横に振った。
「美味しい」
 きっとあの後彼にも色々あったのだろうと考えている麻柚夏の口調は和らいでいた。
「あの頃は、いつも残していたね。コーヒー」
 麻柚夏は首をかしげた。記憶になかったが、そうだったかもしれないと思った。
「あの部屋は、落ち着かなかったから。いつも誰か他の女性の気配が残ってました」
「君はやっぱり、全然、気づいていなかったのか?」
 麻柚夏は首をかしげて、首を横に振った。
「分からない。何に、ですか?」
「僕が……不能気味、って事に」
 麻柚夏は眉をひそめた。記憶を引っ張り出すと、確かに自分だけで彼がとり残されてしまうということは何度もあった。けれどそれは自分の身体が早すぎたのかと思っていた。
「だって…繋がれない、っていうことは、一度も…なかったと…」
 言葉にしやすい内容ではなかったため、声が尻すぼみとなった。彼のほうも言い辛いのか、麻柚夏からは目を逸らしコーヒーを見つめていた。
「…僕は男ばかりの理系の大学にいて、彼女なんてできたためしがなかった。就職活動のときは何十社と受けて、たまたま運よく理系の人材を欲しがっていた広告業界の大企業に就職した。何にも知らない僕が最初に配属された部署が、若いんだから女くらい何人か居て当然みたいな、そんな考えの人間が多いところだった。右も左も分からなくて、先輩に合コンに連れて行かれて、先輩達と同じように振舞った。服装に気を使ったこともなかったから、言われるがまま雑誌の通販でモデルが着ているものと同じ値の張るセットを買い続けた。確かに仕事は考えていたより厳しくて忙しくて、女性にもてはやされるのは嬉しくて息抜きになった。でも、どういうわけか段々と身体ができなくなっていった。曖昧にはぐらかして体の接触を避け続けても限界があった。向こうもこっちがどこか落ち着かない、楽しんでいない様子に気づく。だから、すぐに振られるようになった」
 麻柚夏の理解が追いついていない表情を見た彼は、苦笑して言葉を続けた。
「君は、大学の研究室に居た頃の先輩の院生に似てた。聡明な女性で、憧れてたんだ。君は誘った時から積極性のかけらもなかったし、逆に僕には好都合だった。身体を求められることなんてないだろうと思ってた。だから驚いたよ、ああいう映像を見たら、自分の身体が反応したから。もう隠したって仕方がないから正直に言うと、他の女性でも試そうとした。でもたいていの女性は嫌がったし、嫌がらない女性でも上手く行かなかった。向こうが楽しんでいないのを無意識に感じてしまうからなのか、それとも君ではないからなのか、分からなかったけど」
 そんなことを「試す」だなんてなんてと麻柚夏が多分に呆れを含んだ表情で彼を見ると、なぜか西山文彦は頷いた。
「殴っていいよ。自分の身体に焦って、君にはひどいことばかりをした。ただ、僕は君が半ば気づいていると思っていた。気づいていて、だからどこか冷めた態度で僕に接するのかと思っていた」
 そう言われてしまっては、逆に責められなかった。麻柚夏は目をつぶって、コーヒーを飲んだ。
「貴方は、どこか自分とは違う、遠い人のように思えたから。そういうことで悩んでいるとは思わなかった」
「……実は、君と連絡がつかなくなってからは、全くできなくなった。だから、恥を忍んで病院に行ってみた。仕事のストレスと残業の多さと不規則な生活が原因だと言われた。最近そういう男が増えているらしい。『結局、君はどういう風に生活したいのか?』って最後に質問されて、今自分がしている事に果たして意味があるのかどうか分からなくなった。ちょうど、大学の頃少しかじった工業デザインに興味を持った時期でもあった。『デザインだなんて専門でもないのに、今更仕事を辞めてそんなこと』って、周りにも親にも馬鹿だと言われ続けたけど、結局仕事は辞めた。今は、専門学校に通ってる。貯金を食い潰す生活だから、学校に通いやすい範囲で家賃の安いここに引っ越した。洋服も新しく買わなくなったし、物もあまり買わなくなった。もちろん女性には見向きもされなくなったし、その代わりそれまでの悩みは全てどうでもいい事柄になった。ただ、君には…一度だけでも、会いたいと、思ってた。だから、時々意味もなく銀座をふらふらしていた」
 それまで黙って彼の言葉を聞いていた麻柚夏だったが、最後の言葉にはもう一度首をかしげずにいられなかった。
「どうして?こんな地味な女なんて、今更別に興味もないでしょう?」
 彼はその言葉に身を堅くして困ったような表情をした。
「大学時代憧れていた女性も、服装は地味だったよ。そもそも、洋服になんてそんなに興味があるわけじゃないんだ。興味があったら多分カタログ通りに服を買ったりなんてしない。工業デザインに興味を持ったのは、君の持っていた文房具とか鞄がきっかけの一つだった。女性にも機能美って通用するんだなあと、気づいたから。もちろん、それ以外にも色々あったけど」
 あの頃彼の服装に抱いた違和感の理由が理解できた麻柚夏は、喉に引っかかっていたものが取れたような気分になっていた。
「そう…でも、本当に今更だから、正直に言っていいのに…罪悪感はあっても、堂々とああいう言葉が出てくるくらいに、私には飽きてたって」
 それは麻柚夏の心の奥からこぼれた本音だった。傷ついたことをきちんと自分の中で消化したかった。今なら許せると、思っていた。
「前々から薄々気づいてはいたけど、君って男心に疎いよね。鈍いって言うのかな?」
「…それはもう一回引っ叩かれたいという意思表示として受け取ってもいい?」
「男にとって『君としかできなかった』だなんて清水の舞台を飛び降りる覚悟がなかったら言えないような告白だという理解を求めるのは間違ってるんだろうか?」
「それはストレスと不規則な生活が原因なんでしょう?」
「でも、君とだけはできた」
「…さあ、偶然だと思うけど」
「偶然にしては確率が違いすぎる。君ならそういうことを軽蔑しないとは思っていたけど、そこまで冷静になられると逆に凹むよ」
「勝手に凹んでてください」
 麻柚夏は、彼の頬を手で挟むと、額にそっと唇を押し付けた。どんなに否定しても、西山文彦を好きだったことは事実だと、彼女はやっと素直に認められた。彼の感情が自分と同じ類のものだったのか、ましてや恋愛感情だったのかすら麻柚夏には良く分からなかったけれど、それでも彼の中で自分がどこか特別な存在であったことが分かり嬉しかった。
「身体だけの関係だと分かっていても、私は救われてた。はしたないと思ってはいても、欲求不満だったみたいだったから」
「知ってる」
「一言余計」
「ちなみに、今は?」
「…転職してからは、落ち着いたから」
「僕と逆だな」
「相性が悪いんじゃない?きっと」
 離れようとした麻柚夏の頭を引き寄せ、西山文彦は額と額を合わせた。
「もう一度、付き合ってもらえないかな。この歳で定職にも付いていないし、もしかしたらまだ身体のほうも駄目かもしれないし、真面目な話本当にどうしようもない男だけど、君が欲求不満になったらちゃんと奉仕するから」
 以前一緒に見た映像を思い出し、麻柚夏は思わず吹き出してしまった。『奉仕』というのはあるDVDで年上の人妻に指と舌で尽くす年若い男性が使っていた言葉だった。それを見てからの彼は、何故か頻繁に『奉仕』の言葉を持ち出すようになった。あの時は理解できなかったけれど、あれは彼自身の身体への不安からせめて私だけでも、という彼なりの気遣いだったのかもしれないと、麻柚夏は思い至った。
「そうね、傷つけられた分、償ってもらわないと」
 西山文彦の話を全て信じきったわけではなかった。けれど、今は彼を遠い人には感じなかった。麻柚夏は西山文彦と指を絡めた。





(Fin)



COPYRIGHT (C) 2006 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.