アルコールドロップ






 委織は職場の同僚の中でも比較的歳の近い二人の男女と、馴染みの居酒屋に来ていた。この手の店を意識的に避けるようにしていたため、久しぶりのざわめきと串焼きの匂いに委織は浮き足立つような、それでいてどこか寂しいような気持ちでカウンター席に座っていた。隣には同い年の同僚女性が、その隣には二つ年上の同僚男性が居る。
 二人は黒豚の串焼きを肴にビールを飲みながら、理想の女性像について意見を戦わせていた。面白い事に『女性は気立てが良い方が結局得をする』という主張を同僚女性が、『気立てだけの女性はたいてい使えないし女性としても魅力がない』という主張を同僚男性がするという、どちらかと言えば世間の傾向と逆の立場で話が盛り上がっている。委織は求められない限り口を挟まず、二人の時折極端になる主張を聞いて笑っていた。この同僚二人は普段からよく二人で話しているため、職場でも二人セットで語られることが多かった。
 あまりにタイミングの良い言葉の応酬に、悪気なく委織が「二人は付き合ってるの?」と尋ねてみると、眉毛を吊り上げた二人に声を同じくして「冗談じゃない」と言われそれにも委織は笑ってしまった。付き合えばいいのに、という言葉は心の中にしまっておいた。
 以前の自分と住屋も、この居酒屋でこんなふうに見えたのだろうか、と考えた委織はこんな場で彼を思い出してしまった事にひっそりと落ち込んだ。相変わらず楽しそうに(と表現すると怒られるが)言い合う二人は気付いてないようだったので幸いだった。こういう場は暗くならないほうがいい。

 委織が三杯目に頼んだグレープフルーツサワーは空になっていた。隣の二人はまだ『無駄に愛想が良くて丁寧な女なんて近寄りがたい』『そんな事言う人少数派もいいところです、私なんて愛想が足りないばかりにどれだけ損をしたか』などと言い張り続けている。そこそこに酔った委織はその様子を見ながら「いいなあ、二人は」とつぶやいてしまった。
「八木沢さん私たちの何がいいんですか?」
 振り返り不思議そうな表情をする同僚女性に、『異性の友人』と言おうとした委織は視界の端に見知った背広とネクタイの組み合わせを捉えて固まった。怪訝そうな表情をする同僚二人に何も言うことができないままに視線を彷徨わせると、そこには以前の『異性の友人』が居た。隣には、白い腕に華奢なブレスレットを巻く女性。気付かれないうちに目を逸らさなければと委織が我に返った瞬間、ブレスレットを巻いた手は、コップに入った透明な液体を男の頭の上でひっくり返した。
 委織の視線の先に気付いた同僚二人も、周りのテーブル席の客達も、一瞬シンと静まり返った。
 ブレスレットの女性が白いコートと鞄ををつかんで表情一つ変えずに居酒屋を出て行き、住屋遼一がやはり無表情のままハンカチで自分の顔と眼鏡を拭い始めると、客も興味をそがれたのか静寂は喧騒に取って代わられた。
 ハンカチをポケットに仕舞った住屋が立ち上がって伝票を手に支払いを済ませる段になっても視線が定まらないままの委織に、同僚二人は委織の肩を叩き「知り合いですか?」と尋ねてきた。委織がようやく二人を振り返り困惑の表情を隠せずに頷くと、再び反対側から肩を叩かれた。渋々とそちらを見上げると、いつから委織に気付いていたのか住屋がこちらを見下ろしている。
「八木沢さん、ちょっと出られないかな?」
 さも当然のように店の入り口を指差す住屋は、先ほどかけられた液体が日本酒だったのか強いアルコールの匂いがした。呆然と見上げたまま動くことのできないでいる委織に痺れを切らしたのか、住屋は委織の腕をつかんで立たせた。「待ってください」と背中に声をかける同僚を振り返った委織は「ちょっとだけ、ごめん」と首をひねって謝りながら住屋に腕を引かれて店を出た。
 店に残された同僚女性が、「残念でした」と小さくねぎらいながら同僚男性の背中を叩いていることには、気付かずに。


 店から出た住屋は「どこか、二人で話せるところを…」と話を続けようとしてくしゃみをした。黒い髪から、アルコールの匂いのする雫が滴ってコートの肩口を濡らしている。委織が仕方なくハンカチを取り出して住屋の頭全体を拭っている間にも、もう一度くしゃみをした。委織は店の中の二人に心の中で謝りながら、「どこかでちゃんと温まったほうがいいよ」と告げた。


 ビジネスホテルで住屋がシャワーを浴びている間に、委織は同僚の女性に事情があって店に戻れなくなった旨と、謝罪の言葉をメールした。送信し終えた委織は商談用に置かれているのであろう目の前の小さな丸テーブルへと携帯電話を滑らせる。二人に後でしっかり責められ何があったか問い詰められるであろうと思うと、少々気が重かった。住屋が委織に何を話そうとしているのか予想がつかないことも、その気持ちに拍車をかけていた。この部屋に来る最中の住屋の固い表情で、何か期待できるような話ではないことだけは予測できていた。
 バスルームから出てきた住屋は相変わらずの無表情のまま髪をタオルでごしごしと擦り委織の目の前に腰を下ろした。片手に持っていたミネラルウォーターを委織の携帯電話の隣に置く。バスローブから覗く肌を目に留めて触ればきっと湿っていて温かいのだろうと思った委織は、こんな時に女の部分を覗かせる自分を嫌悪した。
「転職したんだって?職場に電話して聞いた。資格取れたんだな」
 前の職場には、自分に問い合わせがあれば新しい職場の名前だけは出しても構わないと伝えてあった。ペットボトルのキャップをひねる住屋に対して、委織は静かに頷いた。
「試験に受かって資格が取れたから、転職したの。今の職場は、できるだけ長く続けたいと思ってる」
 住屋は水を口に含んで委織から目を逸らし窓の外を見詰めた。
「八木沢さんが真面目に生きてるのに、みっともないところ見られちゃったな」
「みっともないとは思わないけど。ただ、住屋君がお酒をかけられるような事を女性にしたっていうのが驚きかもしれない。それとも、今の彼女はエキセントリックな性格なの?」
「エキセントリックってすごい表現だな。まあ、ある意味合ってるかもしれない。他にも男が居るし、彼氏候補もたくさん居るみたいだから」
 委織は驚きを隠し、胸の痛みも隠すべく、住屋の今の彼女を傷つけないように言葉を選んだ。
「わお…それはまた…確かに美人だけど、すごい彼女ね」
「もう、彼女じゃないけどな。別れるって言ったらすげえ剣幕で『私を振るなんて許されると思うの』とか言い出して、他に男が居るだろうがって言い返したら酒引っかけられた」
 委織は自身が経験したことのない修羅場に半ば感心していた。委織は振られても、相手を貶めることはできなかった。父を一度も責めなかった母の血を、受け継いでしまっているのかもしれないと思うこともあった。
「その強さは、ちょっと羨ましいかもしれない」
 さっぱり同情してもらえないのが不満なのか、住屋は項垂れ溜息をついた。「でも住屋君は災難ね」とフォローすると顔を上げて苦笑した。
「ああ、八木沢さんはあの図々しさをちょっとは見習ったほうがいいかもな。俺、あの時八木沢さんに振り回されっぱなしだと思ってたけど、振り回されるってああいうことじゃなかったわ。すげえ我侭なの。しかもその我侭に目的すらないから意味が分からない」
 『でも、』と言おうとして委織は一度口をつぐんだ。続く一つの質問を、委織は住屋に悟られないよう密かに息を吸い込んで覚悟を決めてから口を開いた。
「でも、好きだったんでしょう?」
「いや、大して好きでもなかったな。男に人気のある女ってどんなもんかと興味があっただけだし。そもそもあの女、暗い男って何考えてるのか知りたいから付き合ってみたいって言って誘ってきたんだよ、失礼にも。だけど俺、八木沢さんに振られて落ち込んでた時だったから、頷いておいた」
 そんな理由で一緒に居た男女に少なからず傷つけられたという事実にショックを受けつつ、それでも委織は『彼女』が住屋にたとえわずかながらも魅かれていたのではないだろうかと憶測していた。あの白い華奢な手が、委織の記憶が確かならば、酒を注ぐ瞬間震えていた。
「八木沢さんさあ、俺と彼女が歩いてるの、見ただろ」
 彼も気付いていたのかと少々きまりの悪さを感じつつ委織は頷いた。
「あの時は、わざと八木沢さんの職場の近くに行ったんだ。傷つけたとしても、俺のこと忘れて欲しくなかったから」
「…住屋君って、そんなに自己主張強かったっけ?」
「あの女に毒されたかも…ていうのは冗談だけど、もっと強引に色々やっておけば良かったとあれから何度も後悔したからな」
「結構強引だった気がするんだけど」
「いや、全然。すごい我慢してたけど?」
「…うわ、なんか住屋君本当は怖い人なんだね」
「怖くはないと思うけどなあ。まあ、いいや。とにかくこうやってめでたく会えたんだし。しつこく八木沢さんの行きつけに通っておいて良かったよ。いきなり家に行っても入れてもらえないだろうと思ってたから」
「そ、んなことは、ないよ」
「目が泳いでるぞ、八木沢さん」
「本当だよ。住屋君みたいな友人は、なかなかいないから」
 住屋は派手に溜息をつきペットボトルを手に取った。一口を飲み下し、挑むような目線で委織を見る。
「この水かけてやろうか?ボーイフレンドは友人じゃないだろうが」
「だって、今は彼女がいるでしょう?」
「もう彼女じゃない」
「でも、また縒りが戻るかも」
「戻らない。何で逃げようとするんだよ?父親に似てるのが怖いのか?」
 立ち上がり目の前まで来て腰を屈め覗き込んでくる住屋に対し、委織は思わず椅子ごと後ずさった。
「そうじゃなくて」
「裏切ったら、それこそ俺に酒でもかければいい。気が済むまで、何でもやればいいよ」
 自分の手が住屋の黒い髪にアルコールを浴びせるシーンを想像した委織は、確かにそれはすっきりしそうだと考えていた。他に女性ができたら、黙ったまま涙するのではなく、気の済むまでアルコールを滴らせてやることができる。そう思うと、重荷を課せられたかのような未来に対しての感情が、ふと軽くなった。
「…ブレスレット」
 突然そんな言葉を発した委織に、住屋は怪訝な表情をした。
「え?」
「あの人がしてたみたいなブレスレット買ってくれるなら、またガールフレンドになってあげてもいいよ」
 委織は住屋の髪に手を伸ばし髪を指に巻きつけた。すっかり洗い流されてしまったきれいな髪を、次にアルコールの匂いにするにはきっと自分だろう。
「できればガールフレンドじゃなくて恋人で手を打っていただきたいんですがね、八木沢さん」
 彼は委織の手に自分の手を重ねた。彼の手は想像していた通り温かく湿っていた。
「まだ、結婚なんて考えられないもの」
「結婚を前提にしない恋人、でいいよ」
「ブレスレット、買ってくれるの?」
 住屋は、ひどく上機嫌な様子で笑って答えた。
「もちろん」
 もし彼が自分の元を去る日が来てしまったら、その時にはきっとブレスレットを巻いて彼に日本酒をかけてやろうと、そう心に決めて委織は住屋の首に抱きついた。






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