誰が何という負うと同類だなんて認めない(後)




 マラソン同好会などという日本の中で見てマイナーと思われる組織がこの大学でそれなりの人数を集めている理由は、おそらく大学の立地条件によるところが大きいのだろう。都内にありながら一キロ走れば広大な公園にたどり着ける大学は、おそらくそれほど多くない。
 マラソンという競技はとりあえずシューズさえあれば参加できるスポーツの中では比較的お金のかからない競技だが、ウエアを揃えればそれなりに出費がある。自動販売機でペットボトルを買うからと離れていった同好会の女性陣を見送って、薄めに作って家から持参したスポーツドリンクをボディバッグから取り出した。口をつけて飲もうとして、むせ返る。苦しさにしばらく咳を繰り返していると、背中をさすられた。いつの間に現れたのか、蛭間が背後に立っている。咳の合間に「大丈夫、です」と片手を上げて距離を取ると、「警戒しすぎ」と笑われた。だがつくりものじみた笑顔に警戒心は募る。
「ランニングボトルじゃない水筒だと、飲むんじゃなくて吸う感じで、少しずつ口に入れないとむせる。特に走ってる最中は」
 走っている最中に給水が必要な長距離に挑戦するつもりはないのであまり気にはしていなかったが、現実休憩中の給水でむせているのだから彼の指摘もごもっともと受け取るしかない。
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
 一歩距離を取って頭を下げる。早く戻ってきてください住田先輩に高ちゃん、と女性陣へ心の中で叫ぶ。気付くと無意識にランニングスカートの裾を指先でつまんでいた。
「俺よりちょっと繕うの上手いくらいで、そんなに優越感抱かなくても、ねえ」
 イケメンかイケメンでないかと問われれば二枚目と三枚目の間くらいと答えたくなる顔と爽やかすぎる笑顔で核心を突かれて思わずスカートを握りしめてしまった。
「何を、言ってるんですか?」
 確かに私は卒業式に女子で一人泣いていないような人間だった。でもそういう人間でも勉強ができれば集団の輪から外されたりしないものだ。あとは精一杯人当たりに気を使えばいい。第一、今この状況で先輩である住田と同い年の高岡を頼りにしている気持ちは嘘じゃない。
「あれ、蛭間も休憩? 随分早いじゃん」
 救いはすぐに現れた。住田先輩はペットボトルを片手に私と蛭間の間に立った。
「中町さんがむせてたから、びっくりして立ち止まっただけ。じゃ、俺はお役御免みたいだから行くわ」
 走り出す蛭間の後ろ姿に、視線を向けてしまう。彼の走る姿は綺麗だ。日本人にしてはやや黒い褐色を混ぜたような肌の色と細く長い手足が少し特徴のあるフォームを描く。
「大丈夫?」
 覗き込んでくれる高ちゃんに笑顔でもう全然大丈夫、と答える。
「そっちじゃなくて、蛭間の方は?」
 まさか会話を聞かれていたのだろうかと何も言えずにいた私の背中を住田先輩は軽く叩いた。
「アイツ別に悪いヤツじゃないんだけど、たまに妙なこと言ったりするからねえ。男には好かれるけど女の子に怯えられたりするんだよね」
 同好会内での彼の位置づけを知ると共に、なれるものなら住田先輩のようになりたいと思った。こんな風に蛭間を端的に表現できて、私と彼の間に立ってくれるような女性に。

 八キロを走り終え、十キロ走るという住田先輩と高ちゃんと手を振って別れた。ダウンとストレッチを済ませてベンチに座り、腕時計で時間を確認する。十分経ったら大学へ向けて軽いリズムで走り出すつもりだった。水筒を取り出し、今度は失敗しないと吸うように一口飲み込む。
 顔を上げると、そこには蛭間が立っていた。何となく、この人と向き合うことからは逃げられないのだろうと覚悟のようなものが私の中に定まった。
「私と同じくらいに上がるなんて、随分短いんですね、距離」
「俺四限授業無かったから。距離はいつもより長いくらい」
 ああ、そうか先輩は私たちより授業少ないに決まってるんだわ、といきなり揺れた覚悟に畳みかけるように蛭間は私の隣に座った。これ見よがしに隅へずれて距離を取る。
「ランニングタイツってさあ、破きたくなるよね」
「変態宣言ですか」
 反射神経で切り返したが、「男なんてそんなもんだよ、知ってる癖にさあ」とつくりものでない笑顔を向けてくる。どこか突き放すような、でも目を背けられない笑顔。
「あと女の子が汗をかいたばっかりの熱っぽさっていいよね」
「そうやって色んな女の子に声をかけては気持ち悪がられてるんですね」
「色んな女の子だなんて人聞きが悪いなあ。中町さんだから素直になってるのに」
 嘘ばっかり、と吐かない代わりに「素直にならなくていいです」と告げた。いつの間にかベンチの端に追い詰められている。この人に見つからないようにやや隠れた場所にあるベンチに腰掛けたのが失敗だった。人目があればきっとこんな事はできないのに。夕暮れが私たちの姿をぼやけさせている。
「歓迎会の時はずっとこっちを見てた癖にさあ、もう好きって認めればいいのに」
 陸上部時代も経験がある。走った後の自分に近付かれたくないのは、結局のところ、意識しているからなのだ。彼の手が伸びてくる。額に貼り付いた髪を指で耳にかけられて、私は目を閉じた。
「否定はしませんよ。好きです。でも蛭間先輩の場合は、私に対して好きとかそういうのじゃないでしょう?」
 重なる唇も差し入れられた舌も熱かった。運動の後の熱っぽい気配は確かにその手の行為を彷彿とさせると思った。
「大概の女の子に気持ち悪がられてるのは否定しないよ。別に気持ち悪がられても構わないからこうしてるんだし。マラソンってさ、一人なんだよ。どんなに支えてくれる人がたくさんいても、やっぱ最後は一人なんだよ。そういう人間ばかりが集まってる集団って面白くない? 俺は面白いよ。だからここにいる。君もそうでしょ」
「言いたいことは分からないでもないですが、その内容と今私にキスをした行動との結びつきが全く理解できません」
 まるで鬼ごっこの鬼が誰かをつかまえたみたいな顔をして、蛭間は笑った。
「要するに、やっと見つけたってことだねえ」
 やっぱり逃げられはしないようだった。



(Fin)




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