ガラス戸を揺らして(2)




 本棚の半分のスペースを使って並べられたプラモデルをじっと眺めるルミに「触るのはやめてね」と声をかけると「当たり前じゃん」と返された。女性にその感覚を理解してもらうのは難しいというのが致の認識だったため、やや拍子抜けすると共に安易とも思える信頼を彼女に感じた。大事なものが大事なものであると理解してもらえる、しかも女性に。いやいや単純すぎるでしょう、と自分を諫めながら致は冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを二つのカップに注いだ。本棚の前で腰を屈めているルミに「ジュース飲む?」と声をかけてダイニングテーブルにカップを置く。彼女は「気を使わなくていいのに」と言って手に持っていた黒いシンプルなバッグを本棚に立てかけた。言葉とは裏腹に嬉しそうな様子でテーブルの前に腰掛け、カップを手に取る。彼女のバッグはごく一般的なデザインだった。規定の鞄はないのだろう。制服に校章は見あたらない。思えば自分の高校時代も校章は存在しなかった。
「幽霊ってジュース飲むっけ?」
 カップに口をつけごくごくと中身を一気に飲み干した彼女にそう言ってみると「さあ、飲むんじゃない」と受け流された。致もカップに口をつける。
「さて、君は何者なの?」
 手を組み、余裕をもって尋ねようとしたつもりだったが出た声の響きにはあまり余裕がなかった。
「幽霊でしょ?」
「いや、冗談抜きで答えてよ」
「うーん、じゃあ女子高生幽霊で」
「どこの高校? 死因は?」
「思い出せない」
 答える気がないならこちらも趣旨を変えた質問を、と試してはみたけれど、まるでこちらの質問を読んでいるかのように即答する。致は片手でこめかみを押さえた。すると彼女は楽しそうに立ち上がり、致の横に立つと腰を屈めてキスをした。初対面の相手とするキスとしては、かなり深くて長いキスだった。
「ね、シャワー借りてもいい?」
 致は緩んだリボンの襟元から目が離せなくなった。
「君、本当はサキュバスでしょう?」
「ふーん、私の見た目はお兄さんの理想なんだ」
 なるほどねー、などとつぶやきながらルミは背を見せ迷い無く脱衣所の扉を開いた。お兄さん、という声にどこか懐かしさを覚えたが、その感覚はシャワーの水音と共に掻き消された。

 「お借りしました」という声に致が顔を上げると、ルミは制服を畳んで手に持ち、キャミソールにスパッツを履いただけの姿だった。致が出しておいたタオルを肩に掛けている。想像より肉感的な脚から目を逸らしつつ、「じゃあ俺も風呂入るから」と入れ違いに脱衣所へ入った。風呂から出たらいなくなっていないだろうかと望みつつ期待している自分もいる。髪をタオルでガシガシと拭き取りながら脱衣所を出ると、ルミはベッドに座って本を読んでいた。「何を読んでるの」と尋ねると「秘密」と答えて文庫本をバッグにしまった。
 冷蔵庫から水を出してコップに注いでから「飲む?」と尋ねると立ち上がって近付いて来た。何かを差し出す度に嬉しそうな顔をされるとまるで餌付けでもしているかのような錯覚に陥る。
「俺は床に布団敷いて寝るから、ベッド使っていいよ」
 初対面の女子高生とどうこうなるのはいくらなんでもマズイという理性を総動員して提案すると、ルミは水を飲んだ後で致の腰に抱きついてきた。致はごく平均的な身長だが彼女は女性にしてはやや高めの身長だろう、少し低いくらいの位置にある彼女の目に至近距離で見上げられてこれは拒否できない、と思った。
「サキュバスが、そんなこと許すと思う?」
「いや、君は女子高生でしょうが」
「ううん、違う」
「じゃあ何者?」
「だから、サキュバス」
 んなわけあるか、という言葉を出そうとして、唇を塞がれた。唇を離して顔を上げると、カーテンを閉め忘れた窓ガラスにルミの長い髪と艶めかしい後ろ姿が映っていた。堪えていたものがあふれ出し、致は彼女の体を抱きしめた。

 以来ルミは週に一度程度の頻度で致の部屋にやって来るようになった。出会った時こそ致の部屋に泊まっていったが、それ以降は週末の昼間に訪れ、夕方には帰って行く。ただし、ベッドには必ず入った。自身でサキュバスと言うだけあって、致はまんまとルミの体に溺れた。服を着ている時には細く見えるが直接抱きしめれば柔らかく質量を感じられる体だった。
 休日でも必ず制服を着てやって来る彼女が後ろ暗い何かを抱えていることは感じられたし、もしかしたらこの先騙されるのかもしれないと思うこともあった。しかし致の家で過ごすルミは常に控えめで、食事や飲み物を出されれば嬉しそうな顔をするけれど、自分からは水以外のものを欲しいと言い出したことはなかった。仕事の話を打ち明けると、「時間はかかってもお兄さんにしかできなことがあるんじゃないかと思う」と目を合わせないままでつぶやかれた。そんな言葉に舞いあがり、致もルミの体を腕の中に入れている間は確かにその通りかもしれないと思えるのだった。






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