ガラス戸を揺らして(3)




 駅改札脇にあるチェーンのカフェで、致はガラス越しに歩いていく人を眺めながら彼女の隣に座っていた。ブレンドコーヒーを半分ほど飲んだところで横を窺うと、彼女も通り過ぎていく人々をぼんやりと見ながらミルクティーを口につけている。スカートは紺を基調にしたチェック柄、紺のハイソックスを履いてはいるが、上はTシャツなので制服という印象はない。一時間前まで彼女はブラウスを着てリボンをつけていた。ここに着いてまずトイレに入った彼女が、次に隣に座ったときにはTシャツ姿にに変わっていたのだ。シャツをバッグに入れて持ち歩いていたのだろう。
 部屋の外へ連れ出したのが間違いだったのだろうか、と考えたがそんなことは無いと致は自分の考えを否定した。
「がっかりした?」
 ルミ…本名浅川晴海あさかわはるみである彼女は、前を向いたままでそう尋ねた。一瞬何に対してがっかりなのかを疑問に思った致だったが、少なくとも何に対してもそういう感情はなかったので「いいや」と答えた。
 いつものように週末やってきた彼女に、奢るから外で食べないかと提案してみた。致としてはデートに誘ったつもりだったが、彼女は「何か材料買って来てくれれば作るけど」と言って最初外に出ようとしなかった。致は作ってくれるのも嬉しいが今日はもう夕飯時だから何かいいものを食べよう、と彼女の手を握って連れ出した。舞いあがっていた、という表現が適切だったかもしれない。
 何が食べたいか尋ねると、彼女は笑って「ハンバーグ」と答えたので、ああ年相応にまだ幼いところもあるのだと少しほっとして、駅の向こう側にあるハンバーグの専門店へ連れて行った。
 そこまではデートと表現して何の問題もなかった。だが、店から駅へ彼女を送る途中で、パトロールと記された腕章をした男に「ちょっといいですか」と声をかけられてしまった。男は話し始めてからの前置きが長かったが、結論的にはどうやら援助交際と疑われたようだった。彼女はバッグから定期入れを取り出すと、そこから出したカードを目の前にかざして男の話を遮った。
「私は二十歳を過ぎてますし、高校生ではなくて大学生です。お金の受け渡しはありませんし、デートの邪魔しないでください」
 そのひと言で、男はすぐに離れていった。致が彼女の手にあるカードを見ていると、彼女はそれを致にも差し出した。都内にある有名な大学の学生証だった。生年月日を計算すると、確かに今の彼女の年齢は二十歳だった。
 致の記憶の中の彼女とも、年齢が一致する。そうかあれから十年近くが経っているのか、と認識したところで、彼女がカップをテーブルに置いて致の方を見ないままに顔を上げた。
「高校時代、私の第一志望だった大学は、母も入りたくて入れなかったところだったの」
 彼女は小さな声でぽつりぽつりと語り始めた。
「だから二人の目標になっちゃって。最初第一志望に落ちたとき、私は諦めようと思ってた。だけど第二志望の大学の入学手続きが終わった後に、母親が突然やっぱり諦めないでって言い始めて」
 ありきたりな悩みだった。だが、そのありきたりな悩みを致は彼女に打ち明けてきたけれど、彼女からは一度も無かったのだと今更気がついた。
「仮面浪人することにしたの。大学の授業に出て、単位もちゃんと取りつつ、予備校の授業受けて受験勉強もしてた。でも、次の年もやっぱり落ちちゃって。私はもうちゃんと大学の勉強がしたいからって、諦めるって決めたの。だけど母親は時々思い出したようにやっぱりもう一回、なんて言うから、喧嘩になって。公園にいた日は、派手に喧嘩したから家に帰りたくなかったの。でもどうしたらいいか良く分からなくて、昔住んでた家の近くの公園を思い出したから」
 遠い記憶の女の子と結びついた今となっては、あの日早々に関係を持ったことが間違いだったと感じてしまう。でももう取り戻すことなど出来ないし、それなら今からでも誠意を見せるしかない。
「じゃああの後、家に帰って怒られなかった?」
「母親は拗ねて黙ってた。母親って…ずっと育ててくれる存在で、大人なんだって思い込んでたけど、私が思うよりあの人は子どもなんだって分かった。父親は心配したんだぞって、部屋に閉じこもってもいいから外で一晩はやめろって、言ってた」
「そうか。やっぱり無理にでも君を追い出すべきだったね」
「いいのよ。私もう二十歳だもん」
「大学生で制服から離れられない内は、まだ大人とは言えないよ」
 彼女は恨めしそうに致を見上げた。
「だって…これ着てる間は、周りからも高校生だって思ってもらえて、まだ私大学に落ちる前の高校生なんだって、夢を見ていられるから。大学生としてちゃんと勉強したいのに、家に帰れば母親から受験に失敗したことを突きつけられるの、嫌で、逃げたくて」
「君のお母さんは贅沢過ぎるし、結果はどうあれ勉強した君はお母さんにそう言う権利がある。ちなみに君の今通ってる大学、俺落ちたところだから。何なら昔の近所のよしみで、言いに行こうか」
「やだ、やめて!」
 想像より強い拒否の声に、致は苦笑した。どうして最初から気付かなかったのだろう、と自分を小突きたくなる。致が学生時代、まだ小学生だった彼女は隣に住んでいた。隣同士だった期間は五年ほどだろうか。父親の転勤を機に引っ越すことになった彼女の家の荷造りや力仕事を手伝い、手を振って別れた記憶まであるのに。女の子は変わる、というのは言い訳にしかならないな、と致は溜息をついた。はじめから初対面同志では無かったのだ。
「晴海ちゃん、大学なんて社会人にもなればどうでもよくなるよ。余程学閥のひどい大企業じゃない限りはね。それにそういう企業には将来性はないから、入らない方がいい」
「晴海ちゃんって呼ばないで。第一、そんなの頭では分かってるし。あんな情けない顔して仕事の悩み打ち明けてくれた癖に、今更自分は大人ですっていう顔するのやめてよ」
「それを言われると痛いな…でも君にしてみたら何歳にしろ俺なんておっさんでしょ」
「何で急に『おもちゃ屋のお兄さん』になっちゃうの? 私が女子高生じゃなかったから? せっかく好みの制服のコを見つけたと思ったのに違ったから?」
「えっ…いやむしろ何で俺が女子高生好きってことになってるの?」
「言ってたじゃない。あの頃私に『女子高生になってからにしてよ』って」
「そりゃあだって小学生の女の子に迫られたらそう言うしかないよ…いや、そんな話はどうでもいいな。そうじゃなくて…そうだな、とりあえず、俺は君が二十歳で嬉しいよ。想像より年の差少ないし、これからは普通に外で一緒に…デートとかできるしさ」
「気休めなんていらないよ」
 不思議な事に女子高生ではなく女子大生だと判明してからの方が晴海は幼さを感じさせた。無理をしていたのかな、と想像するとそれはそれで致としては嬉しかった。唇を尖らせた様子にこれは落ち着くまで待った方がいいかと口をつぐむ。しばらくふたり黙ったまま座っていたけれど、やがて晴海は椅子から立ち上がった。
「ごめん、八つ当たりだったね。本当はね…私もう制服なんてなくても大丈夫なの。今まで、ありがとう」
 まるで別れの言葉だ、と認識した時にはもう彼女は店を出るところだった。致は慌ててカップの類を店のカウンター脇に置き、後を追ったけれど晴海の姿は見えなくなっていた。






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