ガラス戸を揺らして(4)




 次の週末も、その次の週末も晴海は部屋にやってこなかった。こうなって初めて彼女の現在の住所を聞いておかなかったことを後悔する。もしくは、彼女がシャワーを浴びている間バッグの中身を、と頭を過ぎったがそれこそ人として問題だと首を横に振った。彼女が小学生だった頃の引っ越し先は本州ですらない遠方だったため、週末毎に致の部屋へ通える距離ではない。つまりその後またこの周辺に引っ越してきたということだ。思い切って大学へ行くという手もあったが、受験した頃の記憶によれば彼女の大学はかなりの大規模校で、行って会えるレベルではないと想像がついた。
 仕事終わりの金曜日、またここに来ていないものかと誰も居ない公園を横目に溜息をつき、致は商店街を抜けて実家へたどり着いた。ふと気になって回り込むと、隣の家の表札が無くなっていることに気付く。
 二ヶ月ぶりの実家はリフォームに備えて荷造りが進んでいた。明日は作業を手伝う予定になっている。蕎麦に天ぷらという食卓を前にして、致が隣家の事情を母親に聞くと「あら、言ってなかった?」という言葉が返ってきた。
「聞いてないけど…西森さん引っ越したの?」
「そうよ。っていうか前に住んでた浅川さん、家を手放さないで西森さんに貸してたのよ、知らなかった?」
 さっきまで頭の中で唱え続けていた名前が出てきた為動揺したが、平静を装いなるべく平坦に「いや、知らない」と答えた。
「浅川さんは元々こっちに戻ってくる予定だったのよね、それが結構向こうの任期長引いちゃったみたいで。二年前くらいからこっちの方に戻ってきてたらしいんだけど、ほら、西森さんの下の弟さん三月に受験だったから。浅川さんは別に家を借りて、そのまんま西森さんに貸してたみたい。受験が終わったところで西森さんが家を買って引っ越して、浅川さんが戻ってきてるのよ。えーと、確か先々週くらいだったかしら」
「先々週?」
「そうよ、これ貰い物のお蕎麦。乾麺だけどすごく高そうだし美味しいのよ、あんたも会う機会があったらお礼言っておきなさい。そういえば引っ越すとき小学生だった晴海ちゃんが大学生ですってよ、あんたが落ちた大学に通ってるみたい、頭いいのね。すっかり綺麗になっちゃって驚いたわ。あんたあの頃懐かれてたわよねえ、ちょっと会ってみたらいいんじゃないの」
 致は啜っていた蕎麦を吹き出しそうになったが何とか堪えた。しかし父親が母親を諫めるために発した「年の差がありすぎるだろう」という言葉に今度こそ咳き込んだ。母親が「まあこの歳になって子供じゃないんだから」と差し出したティッシュの箱に、誰の所為だよと頭の中で愚痴らずにはいられなかった。

 致は実家二階の自室だった部屋に立っていた。正面の店舗部分とは正反対、西側に位置する小さな部屋だ。商店街の通りとは反対側に位置する彼女の家の、小さなベランダが目の前にある。家の東側に位置するそれは洗濯物を干す南のベランダとは違いもっぱら彼女が身を乗り出すためにあったような記憶がある。暗がりのレースカーテン越しではあるが、そこは最近の記憶にある様子とは違っていた。おそらくあの頃と同じく、彼女の部屋なのだろう、と致は思った。電気は消えており、部屋の主はまだやって来ていない。
 あの頃彼女はガラス戸に致の店で買ったゴムボールを投げつけて、軽い衝撃に気付いた致がベランダへ出てくると身を乗り出すようにして手を伸ばした。
「おもちゃ屋のお兄さん、勉強を教えてください」
 彼女にそう言われて期待を込めた視線で見上げられると、どうにも断れなかった。母親がパートに出始めて夕飯まで帰らなくなったから、勉強を教えてくれる人がいないのだと彼女は言った。彼女はいつもお礼と言って致にとってはやや珍しいフランスのお菓子を半分くれた。彼女の母親のパート先が輸入菓子を扱う店だと聞いたのはほどなくしてからだった。致は家の店先に置かれたソーダ水を取ってきて彼女と半分ずつ飲んだ。ソーダ水代は小遣いから差し引かれる制度だったが、バイト代が入る大学生の致にとって小遣いから差し引かれるような金額よりフランスの菓子の方が魅力的だったのは確かだ。致は当時から甘いものが好きだった。けれど、それだけでは説明がつかない理由は、確かにあったかもしれない。誓って性的な視線ではなかったといるかいないか分からない神様に言い訳しつつ、致はそう思った。
 ベランダから彼女を引き上げるのは致の役割で、その頃はサークル活動で多少運動していたから小学生の彼女を引っ張り上げることにそれほど苦労はしなかった。部屋に入れる際一番の約束だと言い聞かせたのは「プラモデルに触らないこと」だった。「俺が作った大事なものなんだ」と説明すると、彼女は「おもちゃ屋さんだからこんなにすごいことができるの?」と目を丸くして驚いていた。組み立てて色を塗っただけなのだと説明しても彼女は今ひとつ理解していなかったけれど、致にとってそれが大事だということだけは十分に納得していた。今思えば、彼女がプラモデルに理解があるのは当然だった。致自身がすり込んだのだから。
 もしかしなくともこれは「自分好みに育てる」とかいう行為なのではないかと気付いて致は誰かに言い訳を重ねたくなった。少なくともあの頃、そんなつもりはなかった。彼女にキスをされて「お兄さんが好き」と言われたことはあったし、そのキスは致にとって幸か不幸か初めてのものだったし、こういうのはせめて女子高生になってからにして欲しいと口が滑ったことはあったけれど、それはまだ自分も若く余裕がなかったからで、受け入れたからではない。ふざけ半分に「俺が初恋?」と尋ねたら初恋は幼稚園の時と答えられて男と女の差を突きつけられた。憧れられていることは嬉しかった。でもすぐに他の同級生に目移りするだろうとも思っていた。
 あんなに綺麗になるなんて、予想もしなかった。それが致の本音だった。
 彼女にとっては残念なことかもしれないが、今はもうあの頃とこちら側の事情が違う。二十歳になった彼女の体の記憶は、致の隅々まで浸食して諦められそうにない。致は兄が使っていた現在の物置部屋から、店の在庫として残ってしまったゴムボールを見つけて、手に取った。

 猫の額ほどしかないベランダに立ち、ゴム製のカラーボールを投げて彼女の部屋のガラス戸を揺らした。あの頃決して自分からしなかった行為に、立場の逆転を実感する。しかし晴海は致の姿を確認すると嬉しそうに笑った。ベランダから身を乗り出してこちらを見ていたあの頃のように。ガラス戸を開けて、彼女は言った。
「気付くの思ったより遅かったね」
 こちらが気付くのを待っていたということか。致が苦笑すると彼女は「ね、そっちに行きたい」と手を伸ばした。
「いや、危ないから」
「あの頃の方がよっぽど危なかったと思うけど」
「あの頃は俺運動してたし、しかも君は今より確実に軽かった」
「今すごい失礼なことをさらりと言われたんですけど」
「いやそうじゃなくて君は痩せてるけど、あの頃とじゃまず身長が違うんだからね」
「代わりに私が運動してるもん」
 聞けば彼女が入っているサークルは致が入っていたものと同じ名前だった。しかも高校時代は部活動で全国大会の一歩手前までいったことがあるという。
「君はどこまでも俺を超えていくよね」
「だって憧れだったから」
 致の手を握って柵を跳び越えた晴海は無事にベランダへと降り立った。確かに体の動きに安定感がある。
「今は憧れどころか失望した?」
「うーん…それは無いと思う。だって」
 彼女は勢いよく致の腰に抱きついた。
「こういうことが堂々とできちゃうのはやっぱり嬉しい。高校生じゃなくてよかった」
 俺もそう思うよ、と言って致は彼女の額に口付けた。


(Fin)




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