幻想のような甘えの終わりに




 お互い何も分からないままに、今思えば高校生にして随分と明け透けな会話をして、そうやって経験不足を補い、体を繋げていた気がする。私も彼も周囲からは優等生と呼ばれるタイプだったけれど、彼は高校受験で、私は高校に上がってからの成績で、軽い挫折を経験していた。それでも勉強以外にしがみつく物が見あたらず、私はそこそこに勉強しつつ、それ以外の時間小説を読んで夢想するという癖がついていた。彼は高校に入って部活での成績が全く伸びていなかった。中学から続けているスポーツに、打ち込むこともできず辞めることもできないまま、本人が言うには「中途半端に真面目な」高校生活を送っていた。
 私は女子校、彼は男子校、同じ市内にある高校の生徒だった。合コンで出会ったわけではない。周囲には男子校の生徒と合コンを繰り返しているというクラスメイトが何人かいたけれど、そこに加入できるほど会話に長けているわけでも、ぱっと人目を惹くほどに魅力的な外見をしているわけでもなかった。メイクに興味はあったけれど幼い頃アトピー性皮膚炎を患っていた私は安い化粧品へ手を出すことにためらいがあったし、高い化粧品に手を出すだけの財力など持ち合わせてはいなかった。
 男の子に興味が無かったわけではなく、物語の中で男女がのっぴきならない関係に陥ったり壊れたりしていくのを読んではぼんやりと憧れていた。身体の関係に対して本来高校生が持っていなければならない程度の抵抗感や罪悪感を持ち合わせていなかったのは、私が物語の中へ簡単に埋没できる体質だったからではないかと思う。物語の中でその行為は自然であったり必然であったり、ともかく避けることの難しいものだった。
 彼と最初に顔を合わせたのは、友人である丸山美岬宅の前だった。彼女の家へ遊びに行った際、帰りがけ玄関前で話し込んでいたら彼が通りかかった。彼は美岬と同じ中学で、彼女が語るには「奴とは小学校からの腐れ縁」ということだった。その場では挨拶をかわしただけだったのだが、次の日通学中に電車で彼とばったり会った。私は彼や美岬の家より「下り」の方向に住んでいて、私が乗っていた車両に彼が乗り込んできたのだった。部活で朝練をするには遅いし、授業には早いという時間帯だったから、私は彼にどうしてこの時間に通学するのかを尋ねた。彼は「朝練のない部活だから、軽く予習を」と答えた。私は自分も同じ理由だと伝えながら、彼に『同類』を感じた。それから、毎朝同じ電車の同じ車両に乗り合わせ、ぽつりぽつりと世間話をするようになった。「間」が似ていたのだろう、彼と向き合っていると会話にも沈黙にも苦がなかった。周囲にあまり他の男子高生がいなかったから、案外男の子とも普通にコミュニケーションが取れるものなのだと嬉しかった。彼だからあそこまで苦がなかったのだと気付いたのは、大学に入ってからだった。
 しばらくは朝話をかわすだけの関係を続けていたけれど、ある夏の日向かい合って電車に乗っている際、信号停止した電車の急ブレーキで私たちは抱き合うような体勢になった。もちろんその体勢はすぐに解かれたし、その場ではお互いに謝って(特に彼の方はあまりに申し訳なさそうに謝っていた)それだけだったのだけれど、電車から降りて別の方向に歩きだしてから私は自覚した。暑くて電車の中でも汗ばむような気候なのに、あの瞬間私は彼にもっと触れたいと思っていた。触れたいし、できれば抱きしめられたい。私がいつも同じ車両に乗るのは、彼と顔を合わせたいからだということもはっきり自覚した。そして彼も飽きずに同じ電車の同じ車両に乗ってくるという事実が、いつの間にか私に彼になら何をしても許されるのではないかという幻想のような甘えを抱かせていた。次の日私は電車が一番混み合うタイミングで、なるべく誰にも見られないようにと祈りながらも彼の手を握り混んだ。熱く、汗の滲んだ手だった。彼はあまり表情を変えなかった。後になって「驚いたに決まってる」と語ってはいたけれど、見た目は驚いた様子もなく、私の手を振り払いもしなかった。あの瞬間、幻想のような甘えは幸運にも受け入れられていた。
 次の土曜日にはもう、私は彼の家に呼ばれていた。金曜日に朝の電車で顔を合わせて、駅前で別れ際「うちに来ないか」と誘われた。最初いきなり家族に紹介されるのかと躊躇してしまったけれど、彼の家は土曜日両親共に一日仕事で、妹は部活で一日練習と説明されてほっとした。彼は午前中だけの部活だった。私は友達と出かけるのだと両親に告げて彼の家に向かった。美岬の家の五十メートルほど向こうにある大きなマンションの二階。最初に呼び鈴を押すときには、ひどく緊張したのを憶えている。
 彼は口の中におにぎりを頬張ったまま玄関を開けた。お邪魔しますと小さく挨拶して中に入ると、不明瞭な声で「鍵閉めて」と頼まれたので言われるままに閉めた。廊下の向こうにあるリビングは生活感に溢れていて、よそ者である私は少し怯んだ。彼はテーブルの上に二つグラスを並べ、冷蔵庫から出した薄茶色の液体を注ぐと片方を私に手渡し、片方をゴクゴクと(おそらくおにぎりと一緒に)飲み込んだ。私がありがとうと伝えてグラスに口を付けると、薄茶色の液体は麦茶だった。おにぎりがなくなるの時間が、あの時にはひどく長く感じられた。彼はあまり身長が高い方ではなかったけれど、薄いシャツに浮き出る筋張った体は今更ながら私に彼が男の子であることを意識させた。
 「ごめん、先シャワー浴びたからメシがまだだった」だとか「俺の部屋行く?」だとかキスの前に「ホントにいいの?」と尋ねられたりだとか彼の些細な言葉は憶えているけれど、それにどう返したのかがはっきりしない。結局私たちはその日のうちにキスもしたし、ぎこちなく体も重ねた。私は小説で得た知識で動いたし、彼はたぶんその手の雑誌だとかの知識を総動員したのではないかと思う。元々そのつもりがあったのかちゃんとゴムの類を準備してあった。初めて体を繋げたときは痛くて私も顔に出さないようにすることはできなくて、彼は最中からひどく申し訳なさそうに謝っていた。電車で体が重なったときと同じ謝り方だったので、可笑しくなってしまって自分の体から少し力が抜けたのは憶えている。
 次の月曜日、電車の中で彼は落ち着かない様子だった。話し出そうとすると二人の声が重なって、先にいいよと互いに譲って話が続かない。体を繋げることで駄目になってしまう関係もあるのかもしれないと私は不安になった。でも彼は電車を降りると私を駅の反対口(高校へ行く方向とは反対側の、人の乗り降りが少ない場所)へ引っ張って、切羽詰まった様子で「次は痛くないように頑張るから」と言った。私は吹き出して、笑いながら目尻に少し涙が溜まってしまった。笑っている私を彼は困った顔で見ていた。
 彼の家に誰もいない休みの日、私たちは彼の部屋で抱き合った。頻度としては多分月に一度くらいだった。相変わらず毎日電車で顔を合わせてはいたけれど、それ以外で会うのは彼の部屋だけだった。キスの合間に「好き」と伝えたことはあったし、彼も「好きだ」と言うことはあったけど、「付き合う」という単語は出なかった。一緒に出かけることもしなかった。クリスマスだとかバレンタインだとかイベントの日に誘われることはなかったし、私も家族と過ごすことが普通だったから、家族へ説明する手間を考えるとこれでいいのだろうとも思っていた。世の中から後ろ指をさされるような付き合い方をしているから、表になんて出てはいけないという感覚は私だけでなくもしかしたら彼も持っていたのかもしれない。明け透けな話も学校での些細な悩みも勉強の進度も、抱き合った後服を着て、二人並んでベッドに背をもたせかけながら話した。私の頭はたいてい彼の肩に乗っていた。
 二回目以降、私が行為の最中痛みを感じることはほとんど無くなった。彼は私がして欲しいと伝えたことはなんでもしてくれた。最初の経験のせいでいくらかの罪悪感を持っていたらしい彼は、常に私の甘えを助長した。あまり大きくはない胸を舐めて欲しいとせがめばいくらでも繰り返したし、キスをしながら指でして欲しいとねだればもういいと私が止めるまで続けた。反対に彼が望むことがあればできる限り応えるようにはしていたと思う。頼まれれば彼のものを口に含むのだって躊躇したことはなかった。
 抱き合った後に服を着るようになったのは、一度終わった後ベッドの中でそのままゆるゆる抱き合っていたら、彼の妹が帰ってくるという事態が起きてからだった。彼の部屋には鍵があっていつも閉めておいたし、その時はすぐに服を着て部屋を出て、私は彼女にできる限り丁寧な挨拶をしたのだけれど、どうやら後から彼はなんらかの形で両親への「口止め料」を払わされたらしかった。何より中学生の女の子と顔を合わせるに当たって急いで着替えるのは心臓に悪いし、彼女にできるだけ「後ろ指さされるような」関係を悟って欲しくなかった。でも聡明そうな女の子だったので、何となく気付かれてはいたのかもしれなかった。
 彼の妹と会ったのは、結局その一度きりだった。彼の両親と鉢合わせしたこともないし、紹介されることもなかった。私たちは彼の部屋での逢瀬を繰り返し、やがて大学生になった。大学は別々の方向で、電車で会うことは無くなってしまったけれど、お互いの携帯電話の番号やらアドレスやらを交換して、今までとあまり変わらない関係が続くのだと卒業時には想像していた。
 大学に入ってからの私の悩みは男子学生への接し方だった。私は彼らが想像よりずっと難しい生き物だという事実にぶち当たっていた。上手く会話が成立しない。女子校に通っていたのが原因かと美岬や高校の友人何人かに相談してみたが、そんな症状に陥っているのは私だけだった。
 きっかけは些細な言葉だった。今でもどうしてあんな言葉にあれほど打ちのめされたのか分からない。でも確かに打ちのめされたのだ。言葉を放った下山という男とは今でも仲が良く、現在ならば何ということもなく受け流す言葉だろう。
「君は、なんだか難しいことばかりを言うな、俺は良く分からない」
 授業後の雑談で話すにはあまりに突き放すようなトーンだった。でも突き放すようなトーンで話すのは下山の癖で別に敵意があるわけでもない。今なら知っている。あの時は知らなかった。打ちのめされた私はどうしようもなく彼に会いたくなった。彼と会ってひとこと会話をするだけで良かった。それで私は安心できるはずだった。だから私は後の授業を無視して大学を出て、彼の通う大学へ向かった。私はちょうど四限が終わる時間帯に彼の大学へたどり着き、キャンパスで彼の姿を探して歩いて、そして女の子と二人ベンチに座っている姿を見つけたのだった。それはとても楽しそうな様子だった。何より女の子は彼の腕に手を絡ませていた。その光景を前に、私の中では全部が崩れたような気がした。
 次に私が取った行動はありがちだった。まっすぐに彼の方へ歩いていき、怪訝な顔をしている隣の女の子を無視して彼の目の前に立った。ただ彼を見た。彼が女の子の手からするりと腕を抜き、立ち上がったところで私は彼を思いきり引っぱたいた。彼はされるがままだった。彼の目がもっとぶってもいいよと言っているようでそういう甘やかし方をされることにすら苛立った。「さよなら」と言って立ち去った。走って走って泣きながら走って途中で何回もしゃくり上げた。もう生きてはいけないなんて幼いことすら考えていた。
 もちろん、それしきのことで私は死ななかった。
 携帯電話を買い換えるついでに番号を変え、アドレスも変えた。みっともないと分かっていながら美岬に泣きついて、夜のファミレスで事の顛末を聞いてもらうと彼女は「ああ、あいつってそういう奴だよね、拒否できないタイプ」と漏らしつつ、「あんたは悪くないよ」と慰めてくれた。
 しばらくすると、大学での男性への苦手意識は徐々に薄らいでいった。下山ともいつの間にか仲良くなっていた。彼とのことは「ありふれた失恋」もしくは「ありふれた不実」だと認識できるようになっていった。
 以来、彼と会ったことはなかった。何度も思い出す機会はあったけれど、実際に会うことはなかったし、たとえあったとしても他人のように振る舞ったかもしれない。だから職場というところを通して彼と再会し、短い期間とはいえチームとして一緒に仕事をすることになったときには、困ったな、と思った。ここ何年も出身高校のある同じ街で働いていたのに一度も会うことがなかった偶然と、突然仕事を同じくして働かなくてはならなくなった偶然に、私は困惑した。







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