幻想のような甘えの終わりに(後)




 結果として、彼とは仕事以外の話をする機会がないままに、打ち上げが行われている。今日は金曜日で、来週の月曜日から私は元の職場に戻って彼とは会わなくなる。でも、このまま平穏に終わる気がしなかった。見られている。チームが立ち上がって今までまったくそのような素振りはなかったので、周囲のメンバーが戸惑っているし、常にない行動なのだろう彼と仲の良い男性でさえ驚いている様子だった。隣のテーブルから頻繁に盗み見られているというのはとてつもなく落ち着かない。でも顔を上げれば目を逸らされて、向こうのテーブルでの会話に混じっているので過剰に反応することもできなかった。
 三週間前、久しぶりに美岬と買い物をしてカフェで話した内容が頭を過ぎる。今偶然彼と一緒に仕事をしているのだと伝えたら、美岬はしばらく考えた後であの頃の話をした。家の前で会って挨拶をする前から彼は毎日電車で見る私を気にしていたらしかったこと。私と会っている時期の彼は「のぼせ上がっていて、鬱陶しいくらいだった」(美岬談)こと。私と彼が別れた後、彼から何度か私の家の場所(あの時は必要がなくて特に教えなかった)や新しい連絡先を尋ねられたけれど教えなかったこと。一度同窓会で会ったとき、酔っぱらっていた彼にあの時私と別の女の子と二股だったのかと尋ねたら「大学の子は誰とでも寝る子だから一回寝ただけで彼女の方が全然良かった」と「女性としてはカチンとくる」(これも美岬談)言葉を放っていたらしいこと。
 あれをお付き合いと呼ぶのならば、別れて十年が経っている。美岬は怒っていたけれど、彼の「好きだ」という言葉に嘘はなかったのだろうと考えられるくらいには「大人」になった。できればこのまま終わらせて欲しいというのが本音だったけど、彼にはそういうつもりがないのだろう。そしてそれなら仕方がない、と諦められるくらいにまで年齢を重ねてしまった。
 帰りが同じ方向なのは、慣れ親しんだ路線から離れられない同類同士という意味で驚くようなことでもなかった。今はあの頃と逆に私の方が「上り」の方向に一人暮らしをしていて、その事実を伝えると彼は「家まで送る」と言った。「大丈夫ですから」と断ったけれど私が電車を降りると彼も降りてしまった。自動改札はなんの抵抗もなく彼の定期券を受け入れて開き、誰かに「諦めろ」と言われている気分になる。
「もう敬語はいらないんじゃない」
 私の自宅へ向かう道を歩きながら、彼は初めて昔の出来事を前提にした言葉を口にした。
「もう十年前のことだから、リセットされてますよ、菊島さん」
「俺はリセットなんてできなかったよ」
 職場で声をかけられるときの調子ではなかった。言葉の使い方が確実にあの頃の記憶を滲ませていた。
「リセットさせたのは菊島さんの方です」
 できるだけ酔いを振り払い冷静に言って彼を見上げた。彼が軽く何度か頷いたのを確認してから、私は前を向き直った。当然、歩けば着実に自宅へ近付いていく。自宅まではもう少しだった。
「君はそうやって俺を責めるべきだったよ。君が俺を調子づかせるだけ調子づかせて、それで突然いなくなっちゃったから、俺はいつまで経っても君との思い出から離れられない」
 彼が言い合いをしたいのならそれもいいかもしれない、と思った。
「男の子も十年経つとそれなりに陳腐なセリフを口にできるようになるのね。菊島くんがそんなことを言うなんて、あの頃は想像できなかった」
 私はあの頃「君よりあの女の子が好きなんだ」と言われることを怖れて彼から逃げたけれど、「気紛れで一回寝ただけ」という現実の方がずっと傷ついただろう。でもそうやってもっと打ち砕かれるべきだったのかもしれない、とも思う。この十年、たとえ幻想でも「この人になら何をしても許される」と思えるほど男の人に甘えたことはなかった。できなかった。
「じゃあもっとあからさまに言おうか。俺は君とのセックスが忘れられない」
 残念なことに私も、という言葉は彼を調子づかせるから口にしなかった。目の前に来ていたアパートを指さし「ここ、私のウチ」と説明してエントランスへ進むと、案の定彼も着いてきた。「入るの?」と尋ねたら、「君が入るのを許してくれるなら」と返ってくる。私は黙ったまま部屋の前まで歩き、鍵を取り出して横にいる彼を見上げた。
「そんなにしたいの?」
 彼は打たれたような苦い顔をした。私は今すぐこの男のネクタイを引っ張ってシャツのボタンを外してやりたいと思った。ドアを開けると彼は一度立ち止まってから玄関へ足を踏み入れた。私は玄関の灯りを点けて鍵を閉めると相変わらずそれほど身長はない彼の体をドアに押しつけて、したいと思ったことをした。ストライプ柄のネクタイを抜き取り傘立てに引っかける。ワイシャツのボタンを外して、布地の間から彼の体に手を這わせて首筋に口付けた。
「もしかしてここで全部終わらせて、終わったら俺追いだされんのかな」
 「それもいいかもね」と返事をしたら首の筋肉が反って彼が天を仰いでいるのが分かった。「マジで?」と喉から響く声は本気で戸惑っている様子だったので、面白くなってきてスラックスのベルトに手を掛け、これも抜き取って傘立てに掛けた。傘立てが本来の用途からかけ離れて使われている光景がどこか間抜けで可笑しかった。くすくす笑いながらシャツの下の下着のさらに下に手を差し込んで腹から胸にかけて肌の温かさを直接感じていたら、両手で顔を上向かされて唇を塞がれた。
 唇で唇を塞ぐという行為は、私を現実に引き戻した。やんわりと拒否の姿勢を取ろうとしたけれど、いつの間にか首の後ろと腰に回された手はびくともしない強さで固定されていた。口の中に入ってきた舌がゆっくりと私の舌を幾度も撫でて、ようやく顔を離して私が大きく息を吐いてから「やめて」と言うと「無理だ」と拒否を拒否された。
「それに、君はやるだけやって男を放り出すような真似はできない女の子だよ」
「年月という物を甘く見すぎてるわよ、菊島くん。私はもう女の子なんて言ってもらえるほど若くはないし、アナタに裏切られたおかげで冷たい女になってる可能性だってあるはずでしょう」
 裏切られたという言葉を初めて意識したかもしれないと思った。認めたくなかったけれど、結局私は私の身勝手で甘えた彼への信頼を裏切られて傷ついたのだ。でも彼だって十分に身勝手だった。私は今この瞬間だけあの頃のような身勝手を発揮する覚悟を決めて、自分から彼へ口付けた。
 「体の相性」というのは粘膜やら大きさやらそんなことはあまり重要ではなくて、実のところ互いに何をしたいかと何をされたいかが合致するかどうかにかかっているのだと不意に理解した。私は彼の口の中に舌を差し入れるのが好きで、彼は私の舌を口の中でゆるやかに吸いながら自分のものと絡めるのが好きなようだった。あの頃と同じく。もしくは、目の前にいる存在が親鳥なのだと勘違いしてしまう雛のように、二人して刷り込まれてしまったのかもしれない。
 息が続かなくなって声になっていない声を漏らしながら顔を離すと、彼は私を抱えあげてもぞもぞと靴を脱ぎ、「ベッドどこだよ」とつぶやきながら廊下を進んで広くもない部屋の三分の一の面積を占めているベッドに私を投げた。玄関の灯りに照らされた薄暗い部屋で、彼は私を見下ろしていた。
「ちょっと、靴」
 靴を履きっぱなしで横になった私が足を浮かせたまま体を起こそうとしたら彼が足から靴を引っこ抜いて床に転がした。ゴロンという音が部屋に響く。続けて既に半分脱げかかっていた自分のシャツとスラックスを脱いで放り投げる。私のシャツのボタンに手を掛けた彼の手つきがあまりに危なっかしいので、自分で脱いでキャミソール姿になった。その間、彼はちょっと情けない表情になっていた。あの時と同じく。
 夜のためかひげでややざらついている彼の頬に手を添えて覗き込んだ。口にすればもっと情けない顔になるのだろうから言わないけれど、滑稽で可愛い男だと思う。ずっとこの先も手放しで甘えられはしないと今なら知っているけれど、一晩くらいならいいかもしれないと思った。
 今度は唇を押しつけると同時に舌を差し入れた。背中に手を回し、白い下着の裾から手を入れて、片方の手は首に回した。彼の手はしばらく腰から太腿にかけてのラインを行き来して、やがて後ろの柔らかい肉の方に移動していった。あの頃も彼は私を上に乗せてそこを触りながらするのが好きな人だった。
 繋がる前にベッドサイドの箱から四角い包みを取り出したら、彼が「要らない」と言ったので、欲求としてはすぐに欲しかったれどさすがに眉をひそめて首を横に振った。それでも続けようとするのでちょっと強めに抵抗したら彼がしぶしぶという様子ながら着けたので、笑ってキスをして、起ち上がっている部分を大事に大事に撫でてあげた。そんなことで満更でもない顔になってしまうあたり単純だな、と思う。でもその単純さをあの頃どれだけいとおしいと感じていたか、思い出そうとするのならきっときりがない。

 うつらうつらしていた意識が浮き上がると、狭苦しさを感じた。もともとあまり大きくはないベッドに二人で寝ていたためか、首が痛い。起き上がると後ろで「ああ、寝ちゃったのか」というかすれた声が聞こえた。床に転がっていた靴を玄関へ戻し、下着をつまみ上げて身につけながら、私は彼を振り返った。
「シャワー浴びてくる。始発まではここにいさせてあげるから、もう少し寝たら?」
「始発が来たら、追い出す気なんだ」
「当たり前でしょう」
「俺もシャワー浴びたい」
「貸さない。自分ちで浴びて」
 言い捨ててシャワーを浴び、出てくると彼は下着姿で勝手に冷蔵庫を開けて水を飲んでいた。まあ水くらいはいいかと諦めて彼の手から飲みかけのコップを奪い取り、飲み干した。
「好戦的だね、随分と」
「あの時できなかった喧嘩がしたかったんじゃないの?」
「まあそうだけど」
「じゃあいいじゃない。めでたくおしまいにできるってことで」
「いや、俺他にも思い残してることいっぱいあるから」
「知らない。他の人として」
「俺あの頃、君と出かけて一緒に遊んでホテルとか泊まって夕方から朝までずっといちゃついてみたいって何度も思った。つーか妄想してた。今なら、きっといくらでもできる」
 会話の流れを無視した発言に途中まで眉をひそめていた私は、彼の言葉を聞いて頭を押さえた。同じようなことを考えていた時期の記憶が、ぐりぐりと今の冷静な私を抉る。
「私も、あの時はそう思ってた。でも今更そんなことしても、意味無い」
「してみなきゃ分からない。少なくとも俺は今日ので、また君に落ちた」
「私たち、体の相性がいいってだけで付き合えるほど、もう若くない。少なくとも、私はそう思ってる」
「俺たち同い年だけど」
「そういうことを言ってるんじゃないって、分かってるんでしょ」
「つれないなあ」
 そんなの、と反射で口をついて出た言葉は震えていた。時間という綿にくるまれていた感情が、いつの間にかむき出しにされている。私は一度口をつぐんでから息を吐き出し、手で握りしめていたコップをシンクに置いた。
「この程度、菊島くんがしたことに比べたら、どうってことないはずだわ」
 キッチンの蛍光灯に照らされた彼の顔を、再会してからほとんど初めてまともにじっと見た。最後の何日かは残業続きだったから、目の下に隈ができている。あの頃いくら部活が厳しかったという日でも見られなかった、そのくらいに疲れた様子だった。その顔が、徐々に泣き笑いじみた表情に変わっていく。
「怖かったんだ。あのまま俺にとっての女性が君だけになっていくのが怖かった。あの子はすぐに興味の対象が変わる女の子だったから、すぐに飽きられるのは分かってたし、実際関わったのは二週間くらいだった。全部秘密にして、墓まで持っていくつもりだった。いつか君と結婚するものだと思ってた」
 傲慢なくらいに甘えていた。受け入れられていた。同時に甘えられていた。私は受け入れきれなかった。それでも。
「許さない。私だって本気だったから」
 言葉にしてしまえばそれだけだった。あまりにも単純で、自分で拍子抜けするくらいだった。彼は私から目を逸らすとベッドの中やら玄関やらに散乱していた服をかきあつめ、身につけはじめる。始発電車まで、もう少しの時間になっていた。私はキッチンから動かなかった。彼が「今日は帰る」と言ったので、私は「もうここに来ても入れないから」と伝えた。彼は「場所を教えた時点で君の負けだ」と言いながら玄関に向かったけれど、何が負けなのか私には分からなかった。本当にもう入れるつもりが無い。どうしてもと言うのなら外で泊まってもいいけれど、決して続くことのない関係になるはずだ。私は彼が出ていった後に玄関の鍵を閉めて、早くお互い同じくらい甘えられる誰かに出会えればいいと本気で願った。



(Fin)




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