花冠の行方 二十歳

 叔父さんに恋人ができたのだと聞かされたのは、私の二十歳の誕生日だった。高校に入ってから家族で誕生日会などしていなかったけれど、二十歳は節目だからと母が叔父さんも誘い、寿司屋に予約を入れた。日本酒を飲み比べる両親と叔父さんを横目に、一口でギブアップをした私はほうじ茶を飲んでいた。あんな辛くて匂いの強いものが好きだなんて少なくとも今の私には不思議で仕方がない。
 目の前にちらし寿司。桶の中でサーモンの上にいくらとトビッコを乗せてすし飯と共に口へ運んでいると、ほどほどに酔ってきた様子の叔父さんが突然正座の姿勢を取り「実は、恋人ができました。多分、結婚する」と宣言した。「まあ、よかったじゃない」とやや高い声を出す母の横で、私はただもぐもぐと口を動かしていた。父が叔父さんの杯へ日本酒を注ぐ。脂がのって美味しいはずのサーモンの味が急に消えた。体の芯が重く冷たく固まっていくようだった。喉が詰まる。既に冷めてしまったお茶を口に含んで流し込んだ。
 相手はアメリカ人。半年前に仕事先で知り合った。NGOで働いている女性。叔父さんは近々紹介したい、と言った。紹介、という言葉の意味が突然理解できなくなる。つまり、このような席に叔父さんの恋人がやって来ると言うことなのだろうか。耐えられる自信がない。
 二十歳という誕生日に何か期待があったわけではないし、誕生日が嬉しいと思えるほど幼くはない。でも、何も今日言わなくてもいいのに。心の中で叔父さんに恨みの言葉を連ねながら、私はちらし寿司を箸で口に運び続けた。

 次の日、『夕飯を友人と食べることになった』と母親に嘘のメールを送り、叔父さんの家へ向かった。玄関の前で文庫本を広げ待ちの姿勢を作る。彼が日本に帰ってきてから避けられていた理由がようやく理解できて、そうしたらもう無理にでも会ってもらうしかなかった。夜八時半を回った頃に姿を現した叔父さんは、私を見るなり何かをあきらめた表情になった。
「たとえ女子大生相手でも、逃げて終わらせるだなんて甘いことは考えない方がいいわ」
 床に置いていた鞄を持ち上げながらそう告げると、叔父さんは苦笑して、目を閉じて、それから泣きそうな顔を片手で押さえた。
「来ると思ってたよ。そうか、『逃げる』か。奈緒から逃げるだなんて考えたこともなかったのにな」
 その表情に、少なくとも私は叔父さんにとって『女』ではあるのだろうと分かって、心の中の冷たい空間が少し満たされた気になった。
「だけど奈緒、こんなところで待つのは駄目だ。危ないから。待つなら向かいのファミレスにしなさい」
「もうこんなことしないわ。必要がないもの。今日だけ、そうでしょう?」
 私の視線に怯んだ叔父さんはうつむいて鍵を開けた。終わりの始まりだ、と思った。

「もうベッドで手を広げないの?」
 お湯で溶かすだけでできる甘ったるい粉末紅茶の匂いが漂ってくる。叔父さんの好物だ。顔を向けずに尋ねてみると、彼は黙ったままテーブルにカップを置いた。私の好みに合わせて薄く作られている人工的な味の紅茶を一口すすると、叔父さんが向かいの椅子に座った。
「広げないよ。恋人がいるからね」
「私は、ただの姪っ子?」
「そうだ。そうじゃなきゃいけない。姉さんにこれ以上…心労をかけるわけにいかない」
「…叔父さんの恋人は、美人?」
「どうだろうな。俺は美人だと思うけど。彼女、奈緒の写真を見せたらビューティフルを連呼してた。日本好きなんだ。会ってくれるだろう?」
「叔父さん、残酷。せめて一年経ってからにして」
 好物のはずの甘ったるそうな濃い紅茶を口にして、叔父さんは苦い顔をした。
「俺だって謝りたい。奈緒には最初から全部謝りたい。だけど駄目なんだ」
「叔父さんの恋人と会って、普通でいられる自信なんて無い。もう少し大人になってからなら考えるわ。結婚したらどこで暮らすの?」
「アメリカかな。彼女は日本でもいいって言ってるけど、彼女の働いてるNGOは日本に支部がない。俺の働いてるとこは今度アメリカに支部作るって言ってるから、希望が通る可能性がある」
 不幸中の幸いなのだろう、と私は思った。叔父さんと会う前の自分に戻る努力が実を結ぶかどうかは、まだ分からないけれど。花冠は土に返すべきなのだ。
「ねえ、叔父さん」
 顔を上げた叔父さんの表情を見逃さないよう、私は瞬きすら制御しようとした。
「叔父さんの恋人、やっぱり私のお母さんに似てるの?」
 小さく口が開き、目が見開かれた。色を失っている。いつから気付いていたのかと言いたくても言えないに違いない。しばらくして、叔父さんは首を横に振った。
「似てないよ」
 叔父さんは「姉」である私の母から離れる努力をした。そしてようやく成功したのだ。今度は私が同じ努力をしなければならない。



 そんなふうに互いに傷つけ合って覚悟を決めたはずなのに、結局叔父さんが恋人を日本に連れてくることはなかった。母の話では、あれからすぐ叔父さんは振られてしまったらしい。『努力』を彼女に気付かれてしまったのかどうか、そこは分からない。この先訊くこともしないつもりだ。ただ、叔父さんと同じ努力をすると決めた私の心は変わらない。




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