抱擁の動機




 祖母の暮らす田舎に帰るのは三年ぶりだった。そこは相変わらず山と清流と畑と小さな商店以外何もない場所で、私はせっせと家周辺の草むしりに励まされていた。放っておけばあっという間にそこらじゅう草に埋もれるのが田舎だ。二つ隣(と言っても五十メートルも先)の手放された家は、二年で最早そこに家があったとは信じられない有様。これだから田舎は嫌なのだ。普段は完全に屋内での販売を専門としている為愚痴の一つも言いたくなるが、流れ落ちる汗のおかげで口を開きたくもない。熱中症を防ぐための麦わら帽子と虫に刺されないための薄手長袖も久しぶりの装備で、父の車に乗る前に実家から引っ張り出した。母がスイカと麦茶を準備して私を呼ぶ。縁側で塩を振ったスイカを食すことが唯一の楽しみだった。
 ここのところ祖母の体の調子が今ひとつなのだと母から聞かされて仕方なくやってきた田舎だが、顔を合わせた祖母は想像より元気だった。祖母と両親に加えて居合わせていた伯父夫婦まで「結婚はまだか」と言い出すので、だからやっぱり田舎は嫌なのだとつい口に出したくなったが黙った。祖父が生きていれば見合いしろだなんて言い出しかねない。二十代後半の女は結婚しているのが当然だと言い切るような人だった。
 そらく私は結婚に向いてない。それは高校生の頃からの実感だった。だから『まさにいだって三十代の半ばなのに結婚して無いじゃないの』という反論くらいは許されていいはずだと思った。もちろん伯父と伯母がいる場で言ったわけではない。しかし口にしたその言葉が原因で母からはがっつりと説教をくらってしまった。もう二十代後半なのに。
 まさ兄は夫であった人と死に別れた伯母の連れ子で、私の従兄だが血の繋がりがない。後から生まれた伯父と伯母の子であるようちゃんは結婚して子供が二人いる。まだ小さい子たちなので長時間のドライブの末に田舎へ連れてくることが難しく、今年は顔を出せないということだった。伯父はまさ兄に対していまだに距離を測るのが難しいと感じているらしいというのが母の談だが、小さい頃から従兄として遊んできた私からしてみればまさ兄もようちゃんも同じ「イトコ」だ。
 だから草むしりの後にシャワーを浴びてバスタオルを巻いただけの格好で脱衣所にいるところを見られれば、容赦なく蹴りを入れる。当たり前だ。「不可抗力だ、こんな昼間に風呂に入ってるとは思わなかった」なんてただの言い訳だ。「今のめっちゃ痛かったんだけど」という叫びは聞き流す。そりゃあ本気で蹴ったのだから痛いだろう。
 私は一人っ子なので、高校生くらいまでは帰省の度に彼とようちゃんと三人で遊んでいた。その後就職してから帰省の回数は減っていたから、まさ兄と滞在が重なったのは久しぶりだった。昔の調子を取り戻すのはあっという間だったけれど、同時に重ねた年輪を感じ取ることもしばしばだった。もう川遊びを楽しめる年齢ではない。私も彼も都会と呼ばれる場所で生きることに慣れていたから、互いに縁側でのんびりと過ごすことは贅沢に感じられた。時折二人で顔を見合わせては「暇だね」だの「贅沢だね」だのつぶやいてしまう。「俺に子どもでもいりゃあ違うんだろうけどな」という言葉に、私はようやく母の説教を受け入れる気になった。まさ兄は私のように結婚を遠ざけたいわけではないのだと知った。
 まさ兄とは、田舎でしか顔を合わせたことがなかった。二人とも一人暮らしで、比較的近くに住んでいると知って連絡先を交換はしたけれど、それは何かあった時のための緊急連絡先だと思っていた。だから一緒に食事をしないかとメールが届いた時には戸惑ったし、忘れていたつもりのまさ兄との出来事が思い出されて夢に見た。

 お正月の帰省で二年参りをしてみたいと言った私に、なら連れて行くと約束してくれたのがまさ兄だった。私が中学生で、まさ兄は大学生の頃だ。お正月は帰省が当然だった私は、二年参りの約束をする友人達が羨ましかった。本当ならようちゃんと三人で行くはずだったのだけれど、彼女はその日たまたま体調が悪くなって、歩いて二キロ先にある神社に二人で向かった。母には次の日きちんと早く起きて家族でのお参りに間に合うよう支度することを約束させられたけれど、私は上機嫌だった。今思えば彼は私とようちゃんの為に我慢することを厭わない人だった。私とようちゃんがほとんど喧嘩をしなかった理由も、彼がいたからかもしれない。
 神社は比較的賑わっていて、私ははぐれないようにまさ兄の服の裾をつかんで歩いていた。甘酒を飲んで、二人で帰り道を歩きだすまでは何の問題もなかった。
 到着地まで後半分、というところで、私の体は震えだした。今なら理由は分かっている。たとえ少量でもアルコールを摂取した後に寒気がくる体質なのだ。甘酒に酒粕が使われていたのだろう。でも当時は何が何だか分からず、しかも帰る頃になって冷え込みも増し、厚手のコートを着込んでいるのにガチガチと震えが止まらなくなった。
 周囲に家もなく、当時からまさ兄は携帯を持っていたけれど電波は入らなかった。舌打ちをするまさ兄を見たのはあれが初めてだった。今思えば少し不思議なのだけれど、車も人もまったく通らなかった。
 まさ兄は私を抱きしめた。背中をさすって、私の冷えた頬に白い息を吹きかけた。それから震える私の唇を温めるように、自分の唇を重ねてきた。長く、ただ重ねるだけの行為だった。やがて寒気は突然治まって、まさ兄はほっとした表情をして体を離すと、何事もなかったかのように歩きだした。だから私はまたまさ兄の裾をつかんで歩き始めた。
 もう十年以上前の出来事だ。初めてのキスが従兄のお兄ちゃんだなんて珍しくも何ともない、と当時の私は結論付けた。今はもう、ほとんど思い出さなくなっていた出来事。






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