抱擁の動機(後)




 結局私は彼の家を訪れた。「つまみだけなら作るの得意だ」と宣言されて家で飲むことになったのだ。言うだけあって彼の作るおつまみはどれも美味しかった。まぐろとアボカドのユッケ。トースターで作った鶏肉のレモン焼き。キュウリの塩昆布和え。がんものねぎポン酢。だから油断して、いつもは飲まない量までアルコールの類を飲んでしまった。
 まさ兄が皿を洗って、私がそれを拭いている間に突然それは来た。夏なのに寒気と震え。まずったと思ったけれどもう遅い。他人とはいえ家の中であることは幸いだった。お酒を飲んだ後に一時的な寒気が来ることを説明すると、彼は押し入れから毛布を出してきた。圧縮袋に入れられたそれは出した後もぺしゃんこだったけれど、夏に暖を取るには十分の厚みだった。結果的に後片付けの半分は彼に任せることになってしまったが、私を心配するばかりで文句も言わないところがまさ兄らしい。しかしその後の行動は私を驚かせた。
 片付けが終わった後で、大丈夫かと覗き込んで尋ねた彼は、もう大丈夫と答えた私を黙ったまま抱きしめた。
 デジャブどころの話ではない。今まで何人かの男性と付き合ってきたし経験もそれなりにあるのだが、衝撃の度合いは大きかった。滑り落ちた毛布の上に押し倒されて、本当はずっと抱えていた疑問を口にしていた。
「まさ兄、もしかして中学生の頃から私のこと女だと思ってた?」
「どうだろうな。俺お前の事好きなのかな?」
 私は両手を思い切り突き出して彼の下から逃れようとした。まさ兄は「うおっ」と声を上げて一瞬のけぞったけれど結局は私の両腕をつかみ直した。体勢的には先ほどより不利になっている。
「まさ兄がそんな男だと思わなかった。最低です。好きかどうか良く分からない段階で押し倒していい相手ですか? 親戚なんだから絶対やっちゃ駄目でしょ」
 私がどんなに不機嫌でも怒らないまさ兄は同時にどんなに私が不機嫌でも動じない人でもあった。考え込むような表情をする彼を下から蹴っ飛ばそうとしたけれどやはり脚で押さえ込まれた。
「言っておくけど私、いいお母さんいいお嫁さんになれるタイプじゃないから。まさ兄、子ども欲しいんでしょ。もうやめてよこんなの」
「それって、お前俺のこと男だと思ってるってことだよな」
 ぐ、と次の反論を飲み込んだ私は、自分でも眉が寄っているのが分かった。
「怖い顔ばっかりするなよ」
「惰性で押し倒しておいて良く言うわ」
「惰性じゃない」
「じゃあ何なの?」
「何だろうな…唯一の希望、みたいなもんか」
「悪いけど何が言いたいのか分かんない」
「お前が相手だから言うけど、他に知ってる人間はいないって先に宣言しておく」
 ほとんど額がつきそうな距離で言葉を紡がれているのに、甘やかさは欠片もなかった。
「俺、中学生くらいの女の子にしか興味持てない体質だ」
 全身から血の気が引いた。理解に数十秒を要する言葉だった。
「じゃあ、この状況は一体どういうこと?」
 私の声は震えていた。手足をばたつかせても力で敵わない。
「田舎でバスタオル巻いてた姿見た時、やりたいって思ったから。お前、中学生の時とあんまり体型変わってな…いって!」
 私はほとんど反射で頭突きをしていた。自分もそれなりに痛くて、半泣きになっているところによろよろと彼の頭が降りてきた。私の頭の横に、額をつけている。
「最低。とにかく最低。まさ兄は小さい頃から優しくてずっと私の…憧れだったのに」
 今となっては認めたくなかったけれど言葉にしたら心が抉られて涙が流れた。
「俺だって好きでこんな趣味になったわけじゃない。一回、童顔でほそっこくて胸もないような体型の大人の女と付き合ったこともあるけど、最後までできる気がしなくて別れた。駄目だった。こんな自分でも認めたくないような趣味の男がそれでも結婚はしたいんだよ。馬鹿だと思うだろ。高校まではちょっと自分より幼いくらいの女の子が好みなんだってその程度だった。だけど大学の時お前にキスして、気付いちゃったんだよ。お前が目覚めさせたんだ、責任取ってくれよ。成長した癖にお前なら大丈夫だとか自分でも意味が分からないんだよ」
 ひどいことを言われているのに、まるで自棄になったみたいな彼の本音が吐かれる度、同情なのか憐憫なのか愛情なのかも分からない類の、詰まるところは諦めが私の心に広がった。成人した女性では今のところ私しか選べないだなんて、なんて不幸な人だろう。
「はっきり言って私に責任なんてこれっぽっちも無いし、結婚はしてあげないけど、今まで優しくしてくれた分一回くらいはやらせてあげるわよ」
 顔を上げた彼は私の顔を見て指で涙を拭うと、瞼の上に口づけて「八つ当たりした、ごめん」とつぶやいた。このまま優しくされ続けたら、いつか絆されて結婚してしまうのかもしれないと思ったら急に怖くなったけれど、そうはならないという妙な対抗意識も芽生えていた。撫でた彼の背中は熱かったけれど、不思議と重なる彼の体温は暑苦しく感じなかった。



(Fin)




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