二人を別つは




 捜査で幾度か遺体を目の当たりにしてきた水峰有希みずみねゆきであったが、その日の光景は後々も忘れられないものになった。強行班捜査係に所属する水峰は、担当係長の簡単な説明から受けた印象を、現場での一目で覆された。
 元女優の亡骸を盗み出した、俳優。女優は現在引退こそしているが一時期は幾度もテレビや映画で主演を演じていた。その方面に詳しいとは言い難い水峰ですら、彼女の顔は分かる。一方の俳優は年若いながらも名脇役としてそれなりに活躍している男、と先輩刑事から車の中で説明された。確かに、どこかで見たことのある顔だった。この二人は、以前付き合っていると写真週刊誌を賑わせていたらしい。当時の資料があれば後で見ておくべきだろう、と水峰は思った。
 男は一人暮らし。自宅のベッドの中で女優に寄り添って、眠るように死んでいた。死因はおそらく薬物によるショック死。テーブルの上には摂取する際に使われたと見られる注射器が転がっていた。床には大量の雑誌や切り取られた記事。
 マスコミが好みそうなショッキングな内容だ、と水峰は思った。ただし男が遺体を盗んだ後に自殺したという可能性が高く、つまりは逆に殺人である可能性が低い。「手柄」にはならないだろう。それでも、水峰はこの事件に深く関わる予感がしていた。


 映画やドラマで主演として演じる機会が増え始めた頃、何度も女優になったきっかけを問われた。あの頃何と答えたのか、何と答えて誤魔化したのか、今となってはあまり思い出せない。本当の理由はこの瞬間も間違いなく目の前の男だと突きつけられていた。
「宮浦さん、もう私に付きまとわないで。私たち終わったんです」
 どうしてだろう。今でもこの人は私の憧れだった。それだけで良かったはずなのに。どこから狂ったのだろうと思い返す。
「その名前で呼ぶなって…何度も頼んだだろ。祥ちゃんって、昔と同じ呼び方で呼んでくれって」
 頭を下げられて断り切れず付き合ったことがいけなかったのだろうか。いや、違う。結局は、あの現場を見て女優になろうなんて思ったのが間違いだったのだ。
 親同士仲が良く、いつも構ってくれた五歳年上の彼がずっと憧れだった。音響関係の専門学校を卒業した後、突然演技をやりたいと言われたときには驚いたけど、応援するつもりだった。期待はいつだって捨て切れなかったけど、憧れだけで終わるだろうという予感もあった。
 部活からの帰り道だった。彼の家の前に、車が止まっていた。運転席には三十歳くらいの女、後から知ったけれど彼女はドラマの脚本家だった。助手席には彼。キスシーンはまるでドラマみたいだった。私は、そのガラスの向こう側に強烈に引き寄せられるかのような感覚を味わった。
 高校卒業後、私は寄せられるまま演技の世界に飛び込み、一方の彼はドラマで活躍するなど徐々に有名になっていた。不思議な事に、私は演技の世界に没頭することで、そのきっかけである彼を忘れることに成功した。共演する機会はなく、一人暮らしをはじめ実家に顔を出さなくなった彼とは会うことも無くなった。
 演技の世界に入って五年が経った頃、私は主演をもらう機会が増え、プライベートを徹底的に隠さねば辛くなるほどに『有名人』になっていた。一方の彼はその時期仕事が減っていると噂に聞いていた。
 再会したのは、そんなある日だった。忙しさから一人暮らしを始めた私の自宅の近くに現れた彼は、私の母から彼の母親経由で住んでいる場所を聞き出したのだと言った。誰かに見られることを恐れながら部屋に彼を招き、お茶を出すと、彼は私の感情なんて全部ひっくり返すような取引を持ち出した。
 最近仕事が減って困っている。君と付き合って噂になりたい。君と噂になればそれだけで話題に上る回数が格段に増える。君にとってマイナスイメージになるようなことは絶対に言わない。嫌なら付き合っている振りだけでもいい。
 最初驚きのあまり、そして突如突きつけられた失恋の衝撃のあまり声が震えて上手く答えられなかった。だけど時間が経つにつれて、もしかしたら私はこの人をこうして助けるために女優という職業に惹かれたのかもしれないとすら感じるようになった。付き合っていた一年あまり、彼がひどく優しかった所為もあるかもしれない。時間が合うのは月に一度程度だったけれど、彼は自分の部屋に私を招いては料理を作ってくれた。私が食べたいと言えば凝った料理でも何でも作った。私が美味しいと言えば嬉しそうな顔をした。
 肉体関係も持っていた。好きだ、と言われたこともある。ただ、彼が抱くのも好きなのも、私とは別の名前の『女優』、すなわち私の殻でしかないのだと分かっていた。週刊誌を賑わせた私との『噂』には効果が現われて、彼の仕事が徐々に増え月に一度会うことすら難しくなった頃、私は女優を辞めた。事務所の社長を説得し、引退を宣言して、実家へ戻った。
 以来、メイクをほとんどしなくなったことと、芸名が本名と全く違う名前だったことから、私を女優と認識する人はまったくと言っていいほどにいなくなった。今はカフェのカウンターでフレーバーコーヒーや軽食を作るアルバイトをしている。職場で二回女優に似ていると言われたことはあるけれど、ありがとうございますとお礼を言えば流される程度だった。カフェの客からも女優に似ているなどと声をかけられたことはない。
 シフトの時間を終え「お先に失礼します」とスタッフに小さく声をかけて店を出た。すると本名で声をかけられて、振り返ったところに彼がいた。
 俺は別れたつもりはない、なんて言葉はどうということもなかった。ただ、「君とは結婚を考えていると公言していたから簡単に別れるのはイメージ上まずいんだ、分かるだろう」という言葉は予想していたけれど抉られた。すっかり女優の殻を捨てた私にとって既に芸能界の理屈は手放したものだったのだ。とにかく彼と距離を置きたかった。物理的にというだけでも距離を置かないとおかしくなってしまいそうだった。
 私は走った。カフェのある狭い路地から、車通りのある少し広い道へ。危険だと分かっていたのに足が止まらなかった。少しでも、彼と距離を。私は道へ転がり出た。クラクション。車のライト。束の間、目眩のように、私は宙に浮き、そして終わった。


 水峰がまず捜査において担当を命じられたのは、元女優藤堂利香とうどうりか、本名鈴野麻理恵すずのまりえが死亡する原因となった交通事故だった。事故に事件性がないかどうか、検証のための各関係者への聞き込みを行った。
 鈴野麻理恵はK県Y市の出身、女優時代は都内で一人暮らしをしていたが現在は実家にて両親と同居。女優を引退後Y駅駅前のカフェでアルバイト店員として働いていた。勤務態度は良好、女優であったことは店に隠しており同僚も一様に彼女が女優藤堂利香と同一人物であることに驚いていた。鈴野は○月○日の勤務終了後、勤務先のカフェにほど近い路上にて軽トラックと接触、救急搬送後病院にて死亡が確認された。人通りの多い駅前だったこともあり目撃者が多く、路地から鈴野麻理恵が走って飛び出したと複数の証言が取れている。
 救急への連絡を行ったのは俳優宮浦綜次郎みやうらそうじろう、本名川真田祥一かわまたしょういち。鈴野麻理恵の遺体を盗んだ死体損壊等罪の被疑者であるが既に死亡。母親の証言から鈴野麻理恵と川真田祥一が交際していたことは事実とみられる。鈴野麻理恵の高校の同級生からも聞き込みを行ったところ、彼女は高校時代から当時専門学校生だった川真田に想いを寄せていたらしい。鈴野の母親の証言によれば鈴野が女優業を辞してから川真田とは会っておらず、自然消滅に近い状態だったらしい。理由として、鈴野は母親に「あの人は売れるために私と付き合った」と漏らしていた。
 当日は川真田が鈴野に話しかけ、そこから鈴野が逃げるように立ち去るところが目撃されている。人通りが多い上川真田が現役の俳優で目立ったということもあり、これもまたはっきりとした証言が取れている。そして川真田は走り出した鈴野を追いかけていない。その後のブレーキ音を聞いて走り出し、彼女に駆け寄って「麻理ちゃん」と何度も叫んだ後でポケットから携帯電話を取りだした。これは鈴野をひいた運転手の証言である。運転手はシートベルトとエアバッグにより無傷、彼の証言はその他の目撃者証言と矛盾しない。そして鈴野・川真田両名ともに運転手との接点は見られない。
 現在鈴野麻理恵の父親は事故が川真田によるストーカー行為を原因にして起こったのではないかと訴え、警察に足繁く通っているようだが、鈴野の母親と彼とは意見が対立しており、また水峰にも川真田がストーカーという『行動』をしていたようには感じられなかった。彼は、徹底的に自分が鈴野をどう思っているのかを隠していたし、表立った行動にも出さなかったという印象だった。
 鈴野と川真田は事故の前に何を話していたのか。そこまでの証言は得られていない。もしかすると、川真田が縒りを戻そうと持ちかけていたのかもしれない、と水峰は想像する。
 鈴野の遺体に寄り添う川真田の部屋に散らばっていたものは、女優時代の鈴野、すなわち藤堂利香のスクラップブックだった。それだけではない、映画・ドラマのDVDやBD、映画のパンフレット、それらすべてに藤堂利香の名前が載っている。そして押収された川真田のハードディスクレコーダーには、彼女の出演作品が紹介された番組やニュースが録画されており、さらに…おそらく付き合っていた頃に撮影したであろう、個人的な記録も残されていた。






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