二人を別つは(後)




 冷たくなった頬をそっと撫でて、キスをした。冷たいキスだった。美しい、可愛らしい、いとおしい、すべてを詰め込んだかのような輝かしい肉体にも、死が訪れ腐敗が始まっている。結果論とはいえ殺したのは自分だ。死んでも償えない。これは本当に自分勝手な行為だ、ただ単純に彼女がいなくなった後の世界で生きていく気が起きないだけ。
 昔から近所でも評判の美少女だった。無邪気に慕われることは嬉しかった。専門学校で音響を学んでいた頃、たまたま音響を担当した小さな劇団の様子を目の当たりにして演技に興味がわいた。その頃近所のカフェでアルバイトをはじめた彼女は、彼女目当ての客が現われる程度には目立っていた。文句なしの美少女である彼女に、釣り合うような世界で生きていきたいという願望もあった。もちろん、実際に足を踏み入れれば、そこがどれだけ厳しい世界かはすぐに分かった。でもしっぽを巻いて逃げることは、彼女を諦めることだと思い込んでいた。だから脚本家の女と寝て役を得たこともあった。夢中で仕事に打ち込み、演技の世界で生きていけると自信を持ち始めた頃に、彼女が女優としてデビューした。
 彼女は美しい器だった。どんな役でも彼女に注がれれば輝く。元々かわいらしい美少女だったけれど、役が注がれた彼女はまた別人のように美しかった。彼女の演技を見た瞬間に、差を見せつけられた。悔しい思いはあったけれど、それ以上に女優としての彼女に惹かれ続けた。雑誌・テレビ・新聞。撮影と台本読みの合間に彼女に関するものをすべて集めた。会いたいと思った。共演を望んだけれど、タイミングが合わず結局はできず終いだった。それが余計に、彼女への渇望を引き起こしたのかもしれない。
 売れたい。話題になりたい。だから付き合って欲しい。彼女の前に現われた理由は別にあったけれど、そう言えば彼女が断らないと知っていたからそう頼んだ。昔から、一度少しでも心を通わせてしまえば相手のことを良く考えてしまう女の子だった。彼女への執着が最早愛情と呼べる段階を通り越し、言葉で表現の不可能な何かに成り果てている自覚があった。だから出来る限り彼女には隠した。彼女に怖がられてしまうことが、何より怖かった。自分は彼女に関して度胸の無い男だった。どこまでも。ああ、それが何よりも一番にこの事態を引き起こしたのだろう。
 彼女にしてみれば「形ばかり」というところだったかもしれないが、付き合っていた間の二人で過ごした時間は他の何にも代えがたいものだった。専門学校時代にアルバイトで多少覚えた料理はどこで披露することもない持ち腐れの特技になっていたけれど、彼女が食すとなれば話は別だった。時間が許す限り彼女と過ごし、彼女が食べたいと言ったものは作り方を調べてでも何でも作った。彼女が自分の部屋で笑って食事をする姿には感動すら覚えたし、毎回照れながらやめてと言われてもその姿を記録に収めた。
 幸せな時間は、あっという間だった。ある日彼女はあっさりと女優を辞め、連絡はつかなくなった。これほどの才能が表舞台から消えてしまうことも信じがたかったが、一切の連絡を絶たれてしまうとは予想しておらず焦りに焦った。そうして、彼女を、追い詰めた。
 彼女からは、もう貰いすぎるほどのものを貰ってしまった。けれど、もう彼女に伝えることはできない。君から捧げられたものは、俺には相応しくない程のものだと。それでも構わないのなら、どうか、受け取って欲しいと。伝えようとしてももう彼女の耳は機能していない。ただ朽ちていくだけのものに、俺が、した。
 彼女の死を伝えるニュースの録画が終わり、リモコンのスイッチを押してテレビ画面を終了させる。その下にあるレコーダーには、彼女がこの部屋で食事をする場面だけでなく、ベッドの中で俺に抱かれているところも収められている。毎度、隠し撮りをしていた。
 何度も見直して、記憶を補強してきた。だからすべてを思い描くことができる。彼女とベッドの中に入った十回、全部について、どのくらい時間をかけたか、どの体位をとったか、どこに触れたか、どこに触れられたか、そのすべて。本来ならば今この段階で記録を消すべきなのだろう。消さないのはこの死が決して美しいものなどではないと、美しいのは彼女だけなのだと誰かに伝えたいからだ。この期に及んでまだ誰かに何かを伝えたい。最早職業病なのかもしれない。
 彼女はもうここにはいない。この美しい肉体は抜け殻でしかない。けれど抜け殻に告白するくらいが自分にはお似合いなのだろう。伝えることは叶わないが、罰としては軽すぎるくらいだ。
「俺は、君が…」



 川真田の知人関係への聞き込みはあまり収穫がないままだった。川真田の友人関係への聞き込みでは、鈴野と付き合っていた時期は結婚したいと漏らしていたが鈴野が芸能界を引退した後については口を閉ざしていた、という証言がほとんどだった。鈴野が勤めていたカフェの出入り口付近に設置された防犯カメラに川真田が撮影されていたのも事故当日一度きり。鈴野は芸能界引退後携帯電話の番号を変えており、履歴に川真田らしき着信はみられず、家族の証言で自宅に手紙等も届いていないことがはっきりしている。川真田はマネージャーにスケジュールの管理を任せていたが、記録に残っている休日はそれほど多くはなく、Y市での目撃証言も事故当日以外には得られていない。何より、川真田は事故の瞬間鈴野から離れた場所に居た。そうして鈴野麻理恵の事故死は彼女の前方不注意であり、川真田が直接の原因ではないという見方が固まり、次に捜査の焦点となったのは川真田による死体損壊等罪であった。水峰は川真田が薬物を常用していたのかどうかの捜査にあたった。
 川真田のマネージャーをしていた吉田という男に聞き込みをしたところ、事件の直前自宅の近所で薬物の取引らしき場面を見かけていた川真田に通報するべきかどうかを相談されていたと証言した。吉田は川真田から取引の詳しい場所を聞いた上で、俳優としてのイメージダウンに繋がるから自分が通報する、黙っていろと説得したと言った。水峰が吉田の証言を元に川真田の自宅近くにある商店街の防犯カメラを当たったところ、事件直前の川真田による取引をはじめ十件の取引らしき場面が確認された。川真田は最後の取引以外には映っていない。カメラの画像を引き延ばし売人の捜査を続けたところ、組織犯罪対策係から薬物所持の現行犯逮捕という連絡が入った。売人が言うには川真田に売り渡したのはあの一度だけだということだった。その後の捜査でも川真田が薬物を常用していた痕跡は見つからず、川真田は偶然以前から売人の姿を見かけており、自殺のために薬物を入手したという可能性が高まった。
 別の班からの報告で川真田が鈴野の自宅から遺体を持ち出した方法等の報告が上がり、水峰が当初感じたとおり、川真田による死体損壊等罪と薬物使用による自殺以外の事件性はないままに捜査は終了した。一時期様々な紙面を賑わせていた鈴野と川真田の関係について、その頃にはもう取り上げる媒体はほとんどなくなっていた。

 事件が終わっても、時折水峰は二人のことを考えることがあった。川真田の部屋にあったレコーダーには、鈴野の名誉にかかわると表に出されなかった二人の個人的な記録が残っていた。川真田が作る料理を食べる鈴野や無防備に彼の手で唇の端を拭われる鈴野、果ては二人の性行為の記録まで残っていた。川真田はおそらくこの記録を彼女には見せていないだろう。映像からは鈴野に対する、陳腐な言い方をすれば狂気寸前の愛情が感じられた。
 もしかしたら川真田は彼女に気付かれてしまうことを恐れたのかもしれない、と水峰は思う。これだけの感情を持ちながら、川真田の行動はまるで彼女への執着を無理にでも隠そうとしていたかのようだった。売れるために付き合ったと鈴野に思わせるほどに。
 鈴野の治療に当たった救急救命士の証言が、水峰は忘れられない。
 鈴野は救急車で治療を受ける間、一瞬意識を取り戻し、覗き込む川真田に何かを告げようとした。救命士は迷いながらも、十数秒間酸素マスクを取り外した。鈴野はその短い時間で、川真田にこう告白している。
「前からずっと、今でも好き」



(Fin)




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