痛みの在処(後)




 秋哉は彼の目元を引き継いでいる、と私は密かに思っているがそんなことは誰にも言えない。確か私と同い年だと彼が言っていた。勧められるまま彼の写真に手を合わせ、隣に飾られた家族の写真に視線を吸い寄せられる。どこかの校門の前と思しき場所で撮られた写真の中で彼は笑っていた。隣に寄り添う女性が奥方だろう。確かに髪型や顔の形は自分に近いと思ったが、そこまで似ているかどうかは判断がつかなかった。彼らの横でどこか拗ねた顔をしているのは大きめのブレザーを着た今よりも幼い秋哉だった。
「高校の、入学式ですか?」
「当たりです。家族で撮った最後の写真なもので」
 声は彼に似ているが、使う言葉が違う。当然だけれど、不思議な気持ちになった。秋哉は比較的丁寧だと思う彼よりもさらに丁寧な言葉を使う。玄関では、私を中へ導くために強めの言葉を選んだのだろう。
 リビングのテーブルには一人がけのソファが斜向かいに配置されている。片方に座ると秋哉はキッチンへと向かった。
「何がお好みですか? コーヒーと玄米茶の在庫があります」
「あの…どうぞ、お気遣いなく」
「僕はどちらでも大丈夫なので、お好きな方を選んでください」
 丁寧なのにどこか強さを含んだ言葉だった。彼も若い頃はこうだったのかもしれないとふと考えて私は小さく首を横に振った。
「コーヒーは飲めないので、玄米茶をお願いします」
「…なるほど」
 何が「なるほど」なのかとリビングから垣間見える秋哉の背中を凝視していると、苦笑している気配があった。
「親父は玄米茶なんて飲まなかったはずなのに、どうしてこんなものがあるのか疑問に思っていたんですよ」
 丁寧な口調の中に『親父』という言葉が違和感なく並び立っていて、秋哉は男性なのだと実感した。茶碗に注がれた玄米茶が湯気をたてたままで目の前に運ばれ、私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「冷めないうちに飲んでください」
 腰を下ろすと秋哉はそう言って茶碗に口をつけた。私も茶碗へと手を伸ばす。味はあまり感じなかった。ただし、ここ最近何を口にしても味を感じることはなかったから別段驚くこともなかった。
「さて、何と言えばいいか」
 秋哉は茶碗をテーブルに置くとそう言って膝の上で手を組んだ。私はせめてもの弁解のに口を開いた。
「こんなことを言うのは今更ですが、秋哉さんにご迷惑をおかけするつもりはありませんでした。手を合わせることができたので、もう、ここにはお邪魔しません」
 手荷物がないことがあまりに不自然だと言っていて自分でも気付いた。こういう可能性を考えてお茶菓子でも準備するべきだったと後悔したが、秋哉は別の反論を口にした。
「名前にさん付けとは、これまた親しげですね」
 穏やかな声でチクリと刺されて、胸の中に毒が広がっていく気がした。いっそ、このまま、心臓が止まればと思ったところで秋哉は立ち上がり、私の目の前に膝を着いた。びくりと体を反らせると、困った顔をして優しく私の手を取った。
「すみません、そんな顔をさせるつもりではなかった。どちらかと言えば、照れてもいいところだと思うのですが」
 秋哉の手は温かかった。もしかしたら私の手が冷えているのかもしれなかった。
篠宮しのみやさん、その様子では、ここに来ないというのは無理ではないですか?」
 秋哉の事を新沢さんと呼べなかったのは、役職付きの呼び方を嫌った彼の事をそう呼んでいたからだ。そして今でも、秋哉を新沢さんと呼ぶことは難しそうだった。部屋の隅には段ボールが三つ積み上がっている。
「このマンションは引き払うのですか?」
「いえ、僕が住みます。父の物を少し片付けて、荷物を運び込むつもりです。今までより時間はかかりますが、職場へ通える範囲なので」
 秋哉の答えは意外なものだった。そして確かに、ここへまた来ないようにすることは難しそうだった。彼の気配が消されずに、残っているままでは。手の甲を親指でなぞられ、その動きが彼に触れられるよりもずっと色を帯びているような気がして息を飲んだ。
「正直なところ、親父の恋人という存在は複雑ですよ。しかも高校の時に死んだお袋に似てるときてる。でもあなたがここに来たら僕はドアを開けてしまうでしょうね。ただし、条件があります。親父と過ごしたこの場所で、僕に抱きしめられる覚悟がありますか?」
 まるで時間が止まったと思うほど、思考が働かなくなった。秋哉の言葉が示す意味を飲み込もうとすると、彼の目元と秋哉のそれが重なって混乱してしまう。
「秋哉さんは、どうして…私を?」
「さあ、何ででしょう…ただ、篠宮さんが親父の病室に来ていた時は、いつも目で追っていました。あなたは、気付いていませんでしたが」
「私に求めるのは、母親ですか?」
「まさか。僕はお袋が死んでからたいていの家事をこなしてきました。下手な女性より上手くやっている。今更母親を求めたりはしていない…と思いたいですね、自分では」
 親指は動き続けている。意志を持って動いていると分かる動き方だった。
「親父があなたに僕の母親を求めたのなら、あなたは僕に親父を求めればいい。おあいこです」
「おあいこなはずがありません。あなたは、新沢さんじゃない」
「僕も新沢ですよ」
「そういう意味ではなくて…」
「いいんですよ。ただ、篠宮さんにとっての新沢が僕になるまで、ここに来て欲しい。その結果、足が遠のくのなら仕方がありません」
「秋哉さん、もう一度訊きます。どうして、私なんですか? 恋人はいないんですか?」
「恋人はいません。理由は…そうだな、正直に言いましょう。悔しいんですよ。親父の恋人に魅力を感じて何もできなかった自分が。たとえ手を合わせる存在になっても、親父は小さい頃からのライバルなんです。今更でも手を出したい」
 秋哉は立ち上がると私の手を引っ張って立たせた。思わず身を固くした私を前に、小さく両手を上げてホールドアップの姿勢を取る。
「覚悟ができたら、また来てください」
 玄関を出てから、家に戻るまで私の頭の中では彼ではなく秋哉の言葉ばかりが回っていた。

 インターホンを押すとしばらくしてドアが開いた。もしかしたら今の私はひどく難しい顔をしているかもしれない。一方の秋哉は微笑んでいるようにも見えた。
「ほっとしました…もう、来てくれなくなるかと」
 ここで話をしてから一週間が経過している。その間私を待っていてくれたのだろうか。強気に見せかけて本当は彼に似ているのかもしれないと思った。同時に、秋哉に対して説明しがたい愛おしさに似た感情を抱いた。廊下で首筋に手を伸ばすと、秋哉の手は私の腰を抱いた。
 本当は私は幻なんかじゃないだってこんなに胸が痛いと彼に訴えたかったのだと私は気付いた。私は秋哉の首筋に縋り付いて、いつの間にか泣いていた。
「親父は、悔しいことに僕があなたを見てたことを知っていました。僕は『彼女を頼む』と言われたんです。傲慢な男ですよ、息子にもあなたを翻弄させたいと願ったんでしょう」
 むしろ私があなたを翻弄しているのではないのかという言葉は口に出さなかった。私は秋哉に彼の幻を見ているのかもしれない、秋哉は私に「手の届かない父親の恋人」という幻を見ているのかもしれない。でも、私たちは互いに傷を抱えた体を持っていると知っている。だから幻が消えて我に返った時、私たちがどうなるのかを経験してみたかった。もしかしたら、これは彼の思惑通りなのだろうか。



(Fin)




COPYRIGHT (C) 2011 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.