常緑樹の庭(6)




 家にたどり着いた実乃理は玄関のドアを勢いよく閉めて鍵をかけた。父親も母親も仕事で家には誰も居ない。自分の部屋に入るとポケットからUSBメモリを取り出し、引き出しの奥深くへ放り投げた。しばらく手に取りたくなかった。鞄を机の上に放り投げ、手を洗うために洗面所へ向かった。そこでふと、下着が濡れている感触に気付き、実乃理は洗面台の前に座り込んだ。
 好きだった。
 実乃理は仲舘が好きだったのだと強く自覚した。そして仲舘がたとえ好奇心程度の感情しか実乃理に持っていなくとも、その手に触れられれば体が反応するのだと知ってしまった。心のどこかで、そういうことは好意をお互いに持った男女がするものだと思い込んでいた。でも、片思いでもできるのだと思い知らされた。仲舘と、彼の兄の存在によって。
 実乃理は洗面台の前に座り込んだまま、声を上げて泣いた。



 それ以来、実乃理は仲舘とほとんど会うことが無くなった。時折すれ違うことはある。そういう時、彼を見るとひどくバツの悪そうな顔をして目を逸らされる。それでもその姿を目で追ってしまう自分が情けなかった。
 通りの奥に入り込んだ場所にある一軒家は、普段通りに暮らしていればその存在を意識することもなくなった。ホームページを作りたいという気持ちも受験が近付くにつれて忘れることができた。USBメモリは、引き出しの奥に放られたままだった。

 高校三年になると実乃理は本校舎の二階にある学校の図書館で勉強する時間が長くなった。気に入ってるのは左奥の窓に面した席で、空いていれば必ず座る。その席からは校門とその脇の広葉樹がよく見えた。
 イヤホンで英語教材のワンセクションを聴き終えた実乃理はテキストから顔を上げ、ポータブルプレーヤーの操作をロックした。肩が凝った気がして伸びをする。ふと真正面を向くと、最近付き合い始めたらしい夕菜と芳賀が並んで歩いている姿が見えた。うらやましー、と口のかたちだけでつぶやくと、その後ろから『何で俺がここにいるんだ』とでも言い出しそうな表情の仲舘が歩いているのも見えた。実乃理は伸びをしていた両手を下げてその姿を見ていた。
 所在なげな動作でカップルの後ろを歩いていた仲舘が、視線を感じたのか顔を上げた。窓ガラス越しの実乃理の存在に気付くと、足を止めて見上げてきた。距離は遠かったが、きちんと目を合わせるのは一年ぶりだった。仲舘が芳賀に何か声を掛けている。窓が閉まっているので聞き取れないが、先に行ってくれ、とでも伝えたのだろう。それから仲舘はもう一度実乃理を見上げた。
 そうやって遠い距離で見つめ合って、どのくらい時間が経ったのか。遠くから聞こえる部活のかけ声だけが実乃理の頭の中に響いていた。仲舘は普段の会話より大きめに口を動かした。
『ゴメン』
 口の動きだけで伝えられた言葉は、それだけだった。その途端、実乃理の中で何かが弾けた。席の荷物をそのままに早歩きで図書館を出る。本校舎の階段を一段抜かしで駆け上がり、屋上へ出るドアの前にたどり着いた。階下で笑い声が聞こえるが、ここへは誰も来ないだろう。
 仲舘は最初から実乃理に触れるとすれば好奇心だと伝えてくれていた。先生をして欲しいと頼んだのは実乃理の方で、彼は条件付きでそれに応えただけだ。好きになったのも期待してしまったのも実乃理の勝手で、こうして時間を置いて冷静に考えれば彼が謝る必要があるとも思えない。それなのに仲舘を泣いて責めてしまいたいと実乃理は強烈に願っていた。そして同時にそんな自分を悲しくも思った。
 高校生の実乃理は、恋愛がひどく残酷なものだと知った。



 その後しばらく、受験の波に飲まれ実乃理はUSBメモリの存在を思い出すことがなかった。だが大学に入学し、読書感想サークルという風変わりなサークルに所属することになって机の奥からそれを掘り起こすことになった。サークルに所属している学生はほとんどがブログかホームページで読書についての文章を公開していたからである。
 実乃理がメモリの中身をサークルの友人や先輩に見せると、『面白い』『ちょっと古めの構成だけどデザインも分かりやすくてセンスがある』『写真も構図がいい』と口々に褒められた。実乃理は大学生協でウェブデザインの本を買ってもう一度頭の中の知識を引っ張り出し、デザインを手直しした。そして先輩達に教えられるがまま、大学のサークルに割り振られたサーバーにそれを公開した。ページを作り始めて、公開するまでに結局二年以上が経過していた。

 大学生活も二年目になったある日、実乃理は講義のある時間以外は開放されている大学のパソコンルームでメールをチェックしていた。大学から割り振られたアドレスと、もうひとつウェブメールのアドレスを取得している。ウェブメールはホームページにアドレスを公開しているので、ほんの時折ページについての感想や意見をもらえることがある。その日ウェブメールには、一通メールが届いていた。そして実乃理は件名を読んでパソコンの前で固まった。件名は「こんにちは、仲舘です」だった。



 こんにちは、仲舘です。覚えてる? 高校の頃君にひどいことをした男です。確実に覚えてると信じてます。元気かな?

 あれから、吉岡さんの作ってたページのタイトルをたまに検索したりしました。サーバーのこととか、FTPのこととか教える前にあんな事になって、ちゃんと公開できるのかな、なんてお節介にも気になることがあったから。もちろん、時々だけど。
 しばらくはそれらしい結果がなかったからやっぱり駄目だったのかな、なんて思ってたんだけど、久しぶりに検索したら君のページがヒットして驚きました。大学のサーバーにアップさせてもらえるんだね。読書感想サークルなんて変わってるなあ、吉岡さんらしい、と思った。あの頃鬼のように知識を蓄えて作ってた君のページを今になって見付けて、ちょっと感動した。あの庭からの写真も懐かしかった。今兄貴はあの家に住んでいません。久しぶりに見に行ったらリフォームされてかなり綺麗になってたから、今はもう写真でしか存在しない光景ってことになるね。

 メールしたのは、飲みの誘いです。こっちは二十歳になったばっかりなんだけど、吉岡さんはどうだったかな? 確か誕生日は四月って聞いたような記憶があるから、二十歳になったんじゃないかな。
 兄貴が借りてた例の一軒家の近くに、基地の名前の付いたカフェがあるのを知ってる? 吉岡さんは多分知ってると思ってる。あそこは飲み屋なんだけど、この間兄貴が二十歳のお祝いに連れて行ってくれました。ちなみに今兄貴は結婚してすっかり落ち着いています。娘バカとは怖ろしいものだと思う。
 そのカフェに入って、まず思い出したのは吉岡さんのことでした。ああ、吉岡さん好きそうな場所だなあ、って。メシも旨かったし、思ったほど値段も高くない。
 本当のことを白状すると、今付き合ってる彼女をそこに誘ったらこんな怖そうなところ入りたくない、と派手に拒絶されてショックを受けたんだ。心のどこかで吉岡さんが女の子の基準になってたのかもしれません。
 あの時、俺は明らかに契約範囲をオーバーしたし、あの後しばらく後悔してました。結局ちゃんと謝れなくてごめん。飲み代は奢ります。
 明後日の十五日、金曜日の夜六時はどうだろう? もし来てくれるつもりがあって、別の日が良かったらメールください。返事が来なかったとしても、そこで飲んでるつもりです。一人反省会。



 読み終えて、目の奥がツンとした。けれど涙は出てこなかった。それだけの時間が経ったんだ、と実乃理はパソコンの前からしばらく動けなかった。



 久しぶりにその姿を見たカフェは、記憶の中とほとんど寸分違わぬ姿だった。さび付いた看板もそのままだった。透明度の低いガラスの向こうに、緑とオレンジの灯りが透けている。緑色のペンキで塗られたドアは所々剥げている。そのドアの前で、実乃理は立ち尽くしていた。二十歳という年齢で気軽に入っていけるほど砦は小さくない。かすかに音楽が漏れてくる。おそらくジャズだろう。
 腕時計で六時を過ぎたという確認をして顔を上げると突然目の前のドアが開いた。思わず実乃理は「ひゃあ」と小さく声を上げてしまった。目の前には、仲舘がいた。変わってないな、と思ったが、背が少し高くなっているような気もした。
「やっぱり吉岡さんだったか。何立ち尽くしてんの?」
「一人じゃ入りづらいってば、ここ」
「やっぱり怖いの?」
「いや、入りたいけど断られたらどうしよう、っていう。好きすぎて」
「断られないよ、金持ってれば。今日は俺の奢りなんだから持って無くても断られない」
 仲舘に手招きされるがままに入り込んだその店は、落ち着いたオレンジ色の光に照らされた空間だった。緑色はカウンターの上に光る英語のパネルで、インテリアの一部だった。仲舘はカウンターの端の席で既にタコスチップスとグラスを確保している。
「何飲む?」
 カウンターの中では二十代と言われても四十代と言われても納得してしまいそうな年齢不詳の男性がグラスを磨いていた。
「何飲んでるの?」
「カンパリソーダ」
「あ、またソーダなんだ」
「またって?」
「あの時良くサイダー飲んでたよね」
「ああ、そうだね。好きだから」
「私はカルーアミルクにしようかな」
「そりゃまた甘ったるそうだな」
「好きな漫画に出てくるの。甘いカルーアミルク」
「へえ、相変わらずだね」
「その言葉そのままお返しします」
 顔を見合わせて笑った。このわずかな時間であの一軒家へ通っていた頃の雰囲気に戻っていることに、実乃理は心の中で驚いてもいた。もしかするとカップルに見えたりするのだろうか、そう考えて実乃理は胸の奥が少しだけ軋んだ。仲舘はカルーアミルクとナポリタンをカウンターの中の男性に頼んだ。グラスの方はすぐに実乃理の前に置かれた。仲舘が自分のグラスを手に取る。
「こういう場合、どう言えばいいのかな。やっぱり再会に、とかそういう感じ?」
「うわ、さむっ」
「そこまで言わなくてもいいだろ…まあいいや。何かに乾杯」
 差し出されたグラスを合わせると、コチリと小さな音が響いた。カルーアミルクは期待通りに甘かった。満足してタコスチップスに手を伸ばす。
「吉岡さん、彼氏とかいんの?」
 チップスをつまんだ姿勢で仲舘は実乃理を見てそう尋ねた。実乃理が眉を寄せて答えに窮すると、仲舘はチップスを口に放り込んでしばらく間を置いた。
「…もしかして、俺のことがトラウマになった?」
「ううん、そうじゃないんだけど…付き合ってるって言っていいのか、分からない相手ならいるの」
「何か…吉岡さんも大人になったんだね」
「全然。全然だよ。その人社会人だから、私なんて子ども。とりあえず、私の作る物は美味しそうに食べてくれるんだけどね。洗い物の手間省くために食器洗い乾燥機まで買っちゃったりとか。でも、なんかつかみどころが無くて。そういう意味ではあの時の仲舘君並かも」
「うお、痛いところ突いてくるね。まあでもそこまでしてくれるんなら、吉岡さんが積極的にしても迷惑がられることはないんじゃない?」
「そうかなあ…」
「自信持っていいと思うけど。俺もあの頃、吉岡さんのこと好きだったし」
「…え?」
 驚いて目を見開いて仲舘を見ると、困ったように目を逸らしてグラスを手に取った。
「あんなんでも、あの頃俺、吉岡さんのことが好きだったよ」
「そんなの…片鱗も読み取れなかったけど?」
「同級生の女の子にどうしたらいいかなんてわかんなかったし、すっげえひねくれてたけど、あの行為が好きって気持ちの表現だった。俺なりに」
「…仲舘君、意外と駄目人間?」
「吉岡さんになら何を言われても我慢する」
 苦笑してうなだれる姿に、あの頃の気持ちが顔を出しそうで、実乃理はカルーアを飲んでそれを追い払った。甘さに舌が痺れそうだった。
「私も、仲舘君が好きだったよ」
 高校生の自分が、突然報われた気がした。目を閉じると、まぶたの裏に常緑樹の向こうの青い空が広がった。今日は仲舘に思い切り奢らせてやろうと決めた。




(FIN)




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