常緑樹の庭 後日談




 社会人になってからしばらく連絡を取っていなかった仲舘からメールが届いたのは社会人三年目の夏のことだった。
 下り電車に揺られて四十分ほどの駅からさらに二十分歩いた場所にある、畑の真ん中の工場で技術士として働いていた実乃理の父親は、昨年会社のほど近くに小さな平屋建ての一軒家を購入して母親と移り住んだ。だから実乃理が仲舘からのメールを開いたのは一人暮らしをしている賃貸マンションの小さな部屋でのことだった。職場がそれほど遠くないこともあり、実乃理が部屋を借りているのは住み慣れたS駅の近くである。
 画面を前に見慣れないアドレスを目に留めた実乃理は迷惑メールを疑ったが、件名に「仲舘です」とあったため封筒のマークをクリックした。


 ひさしぶり、仲舘です。大学卒業してから連絡してなかったけど、覚えてますか? 元気かな?
 突然連絡したのは、あの家がらみです。どうしても吉岡さんの顔が思い浮かんで消えないので、ダメ元でメールしています。
 実は今、あの家に住んでる。リフォームされてあの頃とは間取りも変ってるけど、雰囲気なんかは同じだと思う。ところがあの家、家賃が結構高いんだ。兄貴はあの頃からそこそこ高給取りだったけど、俺は地味な職業ゆえ収入と支出のバランス(CMみたいだ)が追いつきません。
 今までは、彼女と二人暮らしをしてて家賃も折半だったんだけど、二ヶ月前別に男が出来たと荷物をまとめて出て行きました。情けないことこの上ない。
 ともあれ、俺もここを出て行くか、誰かルームシェアしてくれる人を探すかという二択が残されてます。引っ越し代も馬鹿にならないからできればルームシェアしたい。気の合う男友達を探そうにも、この歳で男二人こんなちょっと洒落た家とくるとそれはそれで嫌がられるという状況です。いっそ単純にこういう家が好きな女性とラインを引いて暮らせればと考えて思い浮かんだのが吉岡さんの顔でした。
 もしかして結婚してたりしたら空気読めてないメールだね。黙ってゴミ箱に放り投げてもらって構わない。興味があったら、返事をください。
 ルールとしては今のところこんなのを考えています。
・家賃は折半。冷蔵庫はスペースを半々に区切る。洗濯と炊事は各々。掃除は半々。俺は掃除が好きなタイプなのでそこだけは安心してください。
・友人や恋人は部屋に入れない。家族が来る時は相手の部屋は閉め切る。
・周囲にはルームシェアしていることをなるべく隠す(余計な詮索をされそうだから)
・男女の関係にはならない。手は出しません…って言っても信用してもらえないかな?


 メールをクリックしてから二週間後、実乃理は仲舘の家を、あの頃惹かれてやまなかった家を訪れていた。自分が住むチャンスが巡ってくるとは予想していなかった。家賃は折半すれば今の家賃より安くなるくらいだった。間取りは変わっており、キッチン・ダイニング・リビングがすべて繋がってあの頃よりは狭くなっていた。その分個室が増えて二部屋になっており、どちらもリビングからドアを開けて入る。ドアには鍵もついていた。空き部屋には元の彼女の置き土産なのかマットのないベッドと空の本棚が置かれていた。
 「彼氏は?」と仲舘に尋ねられて、実乃理は苦笑を返した。大学生の頃付き合い始めた年上の彼氏とは、卒業後も続き結婚の話まで出たが結局は別れた。自分が若すぎた所為だと実乃理は思っている。仲舘に「今はいない」とだけ簡潔に伝えた。
 庭の常緑樹はすべて切られて一本の広葉樹だけが残っていた。常緑樹に虫がわいて切られてしまったのだと仲舘は説明した。腰ほどの丈の垣根が隣の家との仕切りだった。隣の家の玄関からこちらが見えてしまうのでリビングの窓には常にレースのカーテンを引いているということだった。
 常緑樹の庭は、もう存在しない。予想はついていたはずなのに、どこか寂しい気持ちで実乃理はリビングを振り返った。少し背が伸びて、二十代の半ばという年齢になった仲舘がそこには居た。
「どう?」
 それでもこの家は魅力的だった。心が弾んでいるのを見抜かれているのも知っている。
「住みたい」
「やっぱりね」
 予想通りだと言わんばかりの仲舘の表情に、まだ飲み込めない感情を抱いていることを知らしめてやりたかった。
「一つだけ、条件があるの」
 わずかに眉を上げて「何?」と尋ねる仲舘の目の前まで実乃理は歩いていった。
「住み始めたら男女の関係には絶対にならない。だけど、今日だけ、あの時の続きがしたい」
 眼鏡の奥から、仲舘はじっと実乃理の表情を探っているようだった。
「働いて償えってこと?」
「終わらせたいの、あの日を」
「あの日の何を?」
「分からない。ただ、私の中であの日が終わらないだけ」
「それは、体の結合があれば終わるわけ?」
「結局は、それがゴールだったんでしょ?」
 実乃理は手を伸ばして仲舘の顎をそっと撫でた。あの頃より、少しひげが濃くなっている気がした。もう仲舘も少年ではない。
「まあね」
 仲舘は実乃理の腰を引き寄せた。右手はスカートの、左手はポロシャツの裾から中に入り込んできた。実乃理は目を閉じて、あの暗いクロゼットを心に描いた。実乃理はここで暮らし始めるだろう。仲舘と一緒に暮らし始めてもし再びこんなことがあれば、きっと私は荷物をまとめて出て行くだろうと実乃理は思った。




(FIN)




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