鏡に映る




 随分と人当たりのいい男子学生だな。それが木崎秋子きざきあきこ佐古田さこたに対する最初の印象だった。その印象が「ああちょっと胡散臭いな」に変わってきた頃、佐古田は秋子に別の印象を強烈に押しつけてきた。
 佐古田とは、語学で同じクラスに属する男子学生だった。
 大学生になってまでまさか「クラス」というものを引きずるとは、というのが秋子の感想だったけれど、同じ勉学を共にする人間関係は面倒であると同時に便利なところもある。高校の頃のように毎回同じ授業を受けるわけではないが、週に八時間の語学では必ず顔を合わせる。情報交換にはもってこいの人間関係だった。どの授業で高額なテキスト購入が必須になるか、どの授業が人気で教室に入りきれない状態なのか、来年に向けてメモを取る。類は友を呼ぶもので、良く話すようになった三人の学生は皆ある程度の「教養」を身につけ「専門性」を高める為に大学へやってきているタイプの女子学生だった。六月にもなると徐々にクラス内の人物像をつかめてきて、秋子は仲の良い三人以外からも頼りにされる機会が増え始めた。普段から語学はかなり真剣に取り組んでいた。音源付きのテキストを購入し、聞いて声にするという勉強法を繰り返す。裕福な家庭ではないので留学は不可能だが、卒業後ある程度お金を貯めたら海外へ行って勉強するか働きたいと思っていた。
 語学の予習はざっと読んで分からない単語を辞書で調べる程度にしかしていなかったが、それでも尋ねられればたいていのことは答えられた。高校生の時のように余計な仕事を押しつけられることもないし、週に八時間程度ならば頼られることも悪くない。そういう立ち位置を作り上げようとしていた時、佐古田は見事に秋子の自信を打ち崩してくれた。普段話さない女子学生から尋ねられた、やや複雑な長文の一節を読み解くのに時間をかけていたところで、前に座っていた佐古田がこちらに顔も向けずさらりと訳してしまったのである。「あ、すごい」と口に出した秋子に対してこちらを向いていた女子学生は聞こえなかったらしく、秋子からもう一度説明し直したところで授業が始まった。
 授業後、佐古田へ語学が得意なのかと尋ねると、彼は驚くほど感じのいい、でもちょっと胡散臭いかなあと近頃感じていたその笑顔で「このクラスレベル低いよね」と天気のことを話すかのように秋子のことも切り捨てたのである。
 あら、びっくり。と声に出す間もなく教室を出て行く佐古田を、秋子は追いかけた。

 秋子自身、こんなに胡散臭い男とよくまあ飽きもせず行動を共にできるものだ、と思うほど佐古田と行動するようになったのはそれからほどなくだった。いつか海外で働きたいと思うのも、大学近くの海外旅行者が集まるカフェでアルバイトをしているのも、そして彼と行動を共にするのも秋子にとっては同じ行動原理だった。自分の中の常識を誰かに打ち崩してもらいたい、時々でいい、何か新鮮な驚きが欲しい。世の中から小生意気と思われる類の女子学生だという自覚はあった。けれど、佐古田が秋子を唯一評価したのもまたその行動原理だった。
「君は、意外と面白いね。この大学の学生にしては」
 受験日当日インフルエンザに罹り第一志望の大学を受験することの出来なかった彼は、人当たりの良さとは裏腹に所属する大学を快く思っていないという意味で典型的な学生だった。
「これだけ人がいるんだから、私より面白い学生だっているはずでしょ」
「どうだかねえ」
 皮肉をつぶやいているとは思えない笑顔だった。どちらかと言えば、やり手過ぎて信用できない営業マンのような笑顔だと秋子は思った。そのような営業マンに出会ったことがあるわけではないけれど。
「随分長く、いじけてるのね」
 意味が分からない、という顔をした佐古田を見るのは初めてかもしれなかった。何しろ彼は言うだけあって語学から教養から専門まで知識だけでなく理解力も秋子をゆうに越えていた。思い上がった自意識をひっくり返してもらうのは嬉しいが、やり込められるのは面白くなく、しかし秋子にとって幸いにも佐古田は他人を追い詰めるタイプではなかった。たださらりと上を行く。だから約束しなくとも顔を合わせれば行動を共にしてしまう。
「いじけてるって、俺そんなに子どもっぽく見える?」
「子どもっぽくは見えないけど、でもいじけてるでしょ? インフルで受験できなかったこと」
 その言葉に、佐古田は顔をしかめた。
「いじけてないし」
「あ、その表情は、ちょっと子どもっぽい」
 秋子が笑って眉間の皺を指さすと、距離感を間違えたのか指先が彼の顔に触れた。何のスイッチが入ってしまったのか、佐古田は秋子の手首をつかんでべろりと手の甲を舐めた。驚く秋子に彼はまた例の胡散臭い笑顔を見せた。






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