鏡に映る(後)




 その年の秋頃、クラスで仲良くしていた女子学生から佐古田と付き合っているのかと尋ねられた。付き合っていないと答えた。実際付き合ってはいなかったしクラスで言葉を交わすことはほとんどなかったけれど、クラス以外では良く一緒に行動していたので確かにそう見えてもおかしくないのかもしれなかった。
 付き合ってはいなかったけれど、佐古田の部屋で寝ることはあった。最初にそうなった日のことは良く覚えている。
 佐古田は一人暮らしをしていた。実家は電車で一時間半程度かかる街で、父親は地元の銀行で働いていると言っていた。通えないこともない範囲だが、一人暮らしをさせてもらっている、と彼は言った。部屋は学生の一人暮らしにしては広めで、木目調の本棚以外は黒と白と紺色でまとめられていた。どこもかしこも整頓されている。「部屋広い…お坊ちゃんだったのね」とからかったら、佐古田は秋子の頬をべろりと舐めた。
「人を驚かせるのに舐めるっていうのは癖なの?」
 手の甲にされるより衝撃は大きかったから、身をひいて尋ねてしまった。
「いや別に。君にしかしないけど」
「私にやるのもやめてよ、びっくりするから」
「まあ心がけるけど…無理かな」
「えっ何でその結論?」
 秋子の問いかけには何も答えず彼はPCに向かってしまったので、秋子も仕方なく積み上げられた本を手に取った。共に出席している授業の課題の為の本だった。一覧になった本のうちどれか二冊を読みレポートを書くという課題を出され、秋子も内一冊は購入したのだが、もう一冊買うにはやや懐事情が厳しかった。一覧の本のうち四冊も持っているという佐古田の家に、借りる本を選びに来たのがその日彼の家に訪れた目的だった。
 彼の部屋にもさすがにソファや座椅子などは常備されていなかった。他に座る場所がないので、ベッドに座り壁を背もたれにしていた。四冊の本を順番に開き目次から内容を確認し、課題に関係が深そうな章から目を通す。三冊目に入った頃、佐古田が机の前からベッドへ移動してきた。マットレスに手をついて、秋子の顔を覗き込む。
「君ってさあ…処女?」
 反射的に手に取った本で彼の頭を叩こうとしたら避けられた。
「…違う。じゃあ逆に聞くけど、佐古田君は童貞なんですか?」
「いや、違う。なあ、セックスってさあ、気持ちいいか? 一人でした方が手っ取り早いよね」
 あまりに唐突な質問に口を開こうとしてつぐむ動作を繰り返してしまった。
「餌待ってる魚みたいだ」
 明確な意志を持って肩へパンチを入れると思いのほか効いたのか佐古田は顔を歪めていた。これ以上魚呼ばわりされたくなかったので、秋子は何とかして声を出した。
「今この瞬間それはもう色々と考えたんだけど。佐古田過去の女の子に対して失礼すぎだからそれ。原因は相手の女の子とは限らないから」
「そんなの分かってるって。俺が原因かもしれないって悩んだ上での質問だからね今の」
「あら、それは気付かずに申し訳ありませんでした」
「で、どうなの? 君の経験としては、良かったの?」
「質問自体がセクハラっぽいけど」
「俺の話だけ聞いておいて黙っちゃうわけ?」
 佐古田は秋子の体を足と手でまたいで覗き込んできた。笑顔はなく、真面目な表情をしている。答えなければ逃がさない、もしくは本を貸さない、とでも言い出しそうな勢いだった。
「うーん…そんなにたくさん経験無いから上手く言えないけど。人肌にぎゅっとされるのは、気持ちよかったと思う」
「気持ちよさが人肌っていう条件なら別に男じゃなくてもいいんじゃないの?」
「誰でもいいって訳じゃないわよ。そこは好意を持ってる男の子にされるからいいのであって…」
 真剣に質問されるとは思わず語尾がしぼんでいった。困惑した秋子がベッドの淵あたりに視線を彷徨わせていると、軽い衝撃と共に視点が反転した。
「発見。案外、俺って女の脚に欲情するのかもしれない」
 膝丈のフレアスカートがまくれ上がり、佐古田は秋子のふくらはぎからふとももにかけてべろりと舐め上げた。やだ、と漏れた自分の声が嬌声みたいに聞こえて秋子はそこに驚いた。
「良くなかったら、罵っていいからね」
 ふとももを丁寧に舐め始める佐古田を、その場で罵れば良かったのに秋子は出来なかった。その後も佐古田は部屋に行けば秋子の脚を舐め始めたし、秋子は佐古田の部屋に行くことをやめなかった。何度行為を繰り返しても何かしら疑問を持ちながらセックスする佐古田が、秋子にとっては面白かった。

 佐古田の部屋で毛布にくるまっていると、向かいのクロゼットに備え付けられた姿見が目に入ることが多かった。腰に彼の手が回っている場合がほとんどだ。細長い鏡を見ていると、秋子は小学生の頃に読んだ本を思い出した。鏡が柔らかくなって、その向こうに降り立つ少女の話だ。鏡から見える部分こそこちらを写し取っているが、それ以外はまったくこちら側と違う世界が広がっている。こちらの常識が通用しない、あべこべの世界。佐古田の部屋からなら、いつか行けそうな気がした。年が変わり学年が上がり語学のクラスというものが存在しなくなっても、秋子は佐古田の部屋に通うことをやめなかった。
 彼氏だとか彼女だとか恋人だとかそういう言葉が出たことはなかった。ただ、他にこういう事をする女の子はいるのかと佐古田へ尋ねると「いるわけない」と怒ってしまったし、秋子が突然部屋を訪ねても迷惑そうな顔をされたことはなかった。秋子も他にそういう相手を作ることもなく、四年間の大学生活を過ごした。

 就職活動の結果、二人とも就職先はお堅い職種に決まった。佐古田は地元でお役所仕事に就くことになり、秋子を驚かせた。「親の金で大学も一人暮らしもさせてもらって、親の希望全部無視するわけにはいかないんだよね。まあ銀行じゃないのがせめてもの抵抗」という言葉に、秋子は仕事を決めるのは自分だけの義務であり特権でもあるのではないかと反論したかったけれど、彼を説得できるほどの言葉が見つからなかった。実家に戻ることになった佐古田の部屋は別の誰かの部屋になり、それでも佐古田は時々秋子を食事に誘った。身体の関係も途切れなかった。
 そういう日々が終わったのは、秋子のアルバイトが会社側に知られたことが原因だった。秋子がホステスとして働いている店に会社の上司が来てしまったのである。男が来るのは許されている癖に働くのは駄目ってどういうことだと秋子は反論したが、会社の内規で副業が禁止されていると言い渡されて辞めるよりほかなかった。就職して一年と経たないうちに再び就職活動をすることになった秋子だったが、幸運にも別の企業に拾われ、しかも最初から海外支局での勤務が決定してしまった。
 空港から飛行機に搭乗する日、家族とは自宅の前で挨拶を済ませていた。その秋子を見送りに来たのは、佐古田だった。
「仕事は?」
 平日の昼間にもかかわらず姿を現した彼に尋ねると、秋子の前で久しぶりに胡散臭い笑顔を見せた。
「有給取ってきた。君が行ったら、すぐ戻るつもりだよ」
 まさか人が見送りに来るとは思っておらず、しかもそれが佐古田だなんて想像もしていなかった秋子はスーツケースの持ち手をいじりながら空港の床に目を彷徨わせた。しかもここ何年か少なくとも秋子の前では鳴りをひそめていた、佐古田の胡散臭い笑顔が彼の苛立ちを表している。いじけているのだろうか、と思ったが口には出さなかった。空港で頬を舐められては困る。
「来ると思ってなかったって顔だね」
「そうだね。来ると思ってなかった」
 佐古田は秋子の顎に親指をかけて上向かせた。一瞬キスされるのかと予想したけれど、佐古田はただ秋子の顔をじっと見詰めていた。
「俺はさ、もしかしたらこのままいけば、君と結婚したりするのかと思ってた」
 結婚という言葉が目の前の佐古田という存在と結びつかず、「え、嘘でしょう?」と尋ねたけれど彼は何も答えなかったので本当なのだと秋子は実感した。
「佐古田…私、あの部屋からなら、私の常識なんて通用しないようなところに、いつでも行けるような気がしてた…ううんごめん、意味分からないね。忘れて」
 首を振って佐古田の手から逃れ、身をひこうとしたら手首をつかまれた。
「いや、分からなくもない。あの部屋には、俺もちょっと思い入れがあったからね」
 指を絡めて、手を繋いだ。部屋の中では意味もなく指を絡めたり足を絡めたりすることもあったけれど、外でそんなことをしたのは初めてだった。やがて、搭乗のアナウンスが聞こえてくると佐古田は手を離して、「死ぬなよ」と言った。紛争地帯に行くわけでもないのに何をと思ったけれど、顔を上げればそこに笑顔はなくて、あまりにも真剣な顔をして言うので秋子も神妙に頷くしかなかった。そうして、秋子は日本を出た。

 秋子が新しい国でお気に入りのお店をいくつか見つけるくらいには馴染んだ頃、オフィスの近くで銃の乱射事件が起こった。幸い秋子のオフィスの関係者で負傷した人はいなかったが、日本で出会わない類の犯罪に空港での佐古田の言葉が思い出された。次の休日に思い切って彼の携帯に電話をした。相手が秋子だと確認した後の彼の第一声は「生きてるんだな」だった。「怪我一つしてないわ」と答えると「なら、いい」とだけ返ってきたけれど、心配されていたようだということは伝わってきた。
「もしかして、佐古田って予知能力でもあるの?」
「そんなことあるわけないでしょ。君があんまりにも危機感がないっていうかあっけらかんとしてるから、言っただけ」
「あっけらかん…私あっけらかんとしてる?」
「してる」
「ちょっと納得がいかないんだけど…」
「なあ、そのうち日本に帰ってくるのか?」
「え、お正月には帰るわよ」
「そうじゃなくて、海外勤務から戻る可能性ってあるのか?」
「うん、だいたい他の人も二年くらいかな、日本に戻ってる」
「そうか。まあ、とりあえず次はお正月って事だね」
「そうだね。ねえ、また電話してもいい?」
「何いきなりそんなこと確認してるの。君は俺が読みたい本持ってるかとか番組の録画がうまくできないとかエクセルの操作でつまずいてるとか、ホント些細なことでいきなり電話してくる人なんだから、今更でしょう」
「うん、まあ、そうなんだけど」
「正月いつ戻るのか、連絡しろよ」
「うん」
「じゃあ俺人と一緒だから、切るから」
「彼女?」
「いるわけないし。じゃあね」
 切れた電話を眺めて、秋子は佐古田の言葉を思い返した。きっとこの先も約束はしない。ああ見えて彼はお堅いところがあるので、もしかしたら日本に戻ったときには結婚しているかもしれない。そうしたら自分はかなり落ち込むだろうけれど、仕方がない。ただ、秋子が惹かれたのは鏡に映る向こう側の世界ではなくて、佐古田という人物を通した世界だったのだと気付いた。次に電話をしたらそれだけはきちんと伝えようと、秋子は決めた。



(Fin)




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