架空の十字(前日談)




 鉛筆を走らせる。頭の中にあるはずのデザインが、上手く形作られてくれない。イーゼルほどではないけれど傾斜のある机が配置されている学校の図書館。この場所は、いつもなら私を落ち着かせてくれるはずなのに。
 仕方なくスケッチブックを畳んで数学のテキストを取り出した。私が虜になってしまったあの椅子のような、人の身体を包み込む何かを作りたい。それならデッサンだけではどうにもならない。モノを形作る素材の吟味。人間工学的な視点からの造形。正直どうしようもなく理系科目は苦手なのだが、苦手で逃げてしまってはやりたいことができない。こめかみを人差し指で押さえながら数学と格闘していると、隣に気配を感じた。
 今の私では手が出ないような難易度の高いテキストを手に持つのは、同じクラスの男子生徒だった。生まれついて数学的思考を持ち合わせているような、理数系の成績優秀者だ。こめかみから手を離せない私に向かって、一瞬笑みを見せる。不敵、と表現できるくらいの。そのまま隣の席に座る。私は席を立ちたくなったけれど、プライドが邪魔をした。せめてこのページの例題くらいは理解したい。

 昇降口でローファーに履き替えて顔を上げると、辺りは暗かった。日の長さの折り返し地点が近付いている。受験日も近付いている。毛糸からこだわって選んで、自分で編んだマフラーを巻き直した。
 後ろから近付いてくる気配に、予感がした。身体を斜めにして後ろへ視線を流すと、やはり彼だった。重そうなリュックを片方の肩に背負っている。体育館のほうから運動部のかけ声は響いていたけれど、他に生徒の気配は感じられない。
「媚びろとは言わないけど、もうちょっと友好的な顔してくれよ」
「あんたのその無表情だって友好的とは言えないわ」
 呆れたような溜息は彼のものだ。それだって嫌味にしか見えない。だけど私は前を行く彼の後を歩いていく。嫉妬と憧れの混じる感情を混ぜ合わせながら。

 宵闇の中の公園で、遊具の影に隠れるように。寒いんだから早めに終わらせて、と睨み付ける。相手の瞳は私と同じくらいの位置。抱き合えば少しはあったまるだろ、と引き寄せられても苦笑しか返せない。似合わないよそのセリフ、とつぶやくとひどいな、と相手も苦笑。
 唇は温かい。彼のほうが体温が高い。割って入ってきた舌は必死と表現できそうなほど私の口の中を貪ってくる。背中に回っていたはずの両手は腰から下にかけてのラインをもどかしそうに撫でている。震えるほどの優越感だった。欲しがられている。
「何で、よりにもよって、他の女の子じゃなくて、あんたなんだろうな」
 初めて聞いた時泣きそうになったセリフをまた吐く。胸が詰まるほど暗い喜びに溢れてしまう。他の女の子じゃ駄目なのだこの男。でも絶対にマフラーなんて編んであげたりはしない。私の作り出したものを差し出したりはしない。もちろん、求められたこともない。
 勉強というジャンル一つも敵わないのなら、何かひとつくらいは勝ちたい。せめて、受験が終わるまでの間。



(Fin)





COPYRIGHT (C) 2012 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.