彼女の背中 (5)




 そんなに胸が好きかと殴られて、カノジョと別れたのはちょうど一年前だった。思えばカノジョとしている最中ですら幻想を振り払おうとしていたのかもしれない、と菅原は自らを振り返る。振られて当然だった。
 その「幻想」であるところの彼女から、メールが届いた。一度携帯会社を変えようかと迷った際に彼女の顔が思い浮かんだことは否定できない。告げればまた馬鹿みたいと吐き捨てられるかもしれないがこんなメールを送ってくる時点で彼女も同類だ、と菅原は職場の自動販売機の横でにやけてしまいそうな顔を必死で繕った。
 女性の少ない職場は出会いも少なかった。同僚の女性は飾らない気のいいタイプばかりだったが、とにかく競争率が高い。菅原の会社では女性の既婚率は怖ろしく高く男性の独身率もまた高かった。幻想から抜けられない菅原が相手にされるわけもない。
 待ち合わせの文面は簡素でありながらひどく一方的で、相変わらずだなと呆れながらひどく高揚している自分も結局は同類なんだろうと思った。まだ終わらせなければならない仕事が残っている。菅原は携帯をポケットへしまって仕事を片付けるため休憩所を後にした。
 やる気だけは湧いてきたはずなのに、菅原の仕事は進まなかった。急いでいる時に限って長い用件の電話が入るという彼の中のジンクスは覆らず、急いでいる時に限って機械の調子が悪いという世の中のジンクスはいつでも正しかった。
 結局菅原は待ち合わせ場所に一時間遅れて到着した。「すまない仕事で遅れる」とメールを送っておいたものの、彼女が待っていてくれていると確信できている訳でも無かった。だが、息を切らして立ち止まった菅原の前には、不機嫌そうな進藤が居た。
「遅い」
 彼女は変わっていなかった。もしあの日の続きと言われたら信じてしまいそうだった。
「すまん、仕事がなかなか終わらなかった…走ったから許してくれ」
「許さないわよ、そんなの」
「…そうか、参ったな」
「だから、何でも言うこと聞いてくれるでしょ?」
 きっと笑っているだろうと予想した菅原は進藤と顔を合わせて自分の発想の短絡さ加減を思い知った。進藤はあの高校生の日振り返った瞬間のように、表情を失った顔をしていた。

 腕を引っ張られて連れ込まれたのはハンバーガーショップで、もう少しマシな店に、と提案すれば今日失業したからお金がないのだと撥ね付けられた。三つのバーガーをいい勢いで平らげていく進藤は、合間に失業の理由を語った。派遣で働いていたが、上司に契約を継続したいなら一晩付き合うようにとパワハラかつセクハラを受けて、殴ってきたのだと言う。
「どうして男って揃いも揃って、どうしようもない」
 まあ、ごもっともですとしか相槌の打ちようがない菅原は、いつかの高校生の日に「彼女が男はこんなもんだと諦められるまで」付き合うつもりでいたことを思い出していた。
 意外にも、父親の再婚相手に娘が生まれて妹ができたことを語る進藤は柔らかい表情をした。父親のことは許せないが妹は可愛いと笑う。かと思えばふと表情を固くして、ハンバーガーの上のバンズを剥がすとピクルスを指先でつまんだ。
「嫌いなのか?」
「チープなピクルスだけは苦手なのよ」
 はい、と差し出された薄っぺらいピクルスを指ごと咥えてわざと先端を舐めると、彼女の表情が少し揺らいで菅原は今日初めて彼女に「まっすぐ見られた」と思った。
「なんか、やらしい」
「普通だろ、普通」
 ピクルス差し出してくる女だってやらしいよと口には出さない菅原が肩をすくめて自分のハンバーガーにかぶりつくと、彼女はオレンジジュースから伸びるストローを咥えたまま「どうして来たの?」と訊いてきた。
「どうしてだろうな。進藤こそ、よく一時間も待ったな」
「むかついたから、誰か別の男と寝てやろうと思って。菅原以外思い浮かばなかった」
 そんなところだろうとは予測がついていたが聞かされると少なからず溜息をつきたい気分になった。食べ終えたバーガーの包み紙を丸めてトレーへ投げる。
「帰りたくなった?」
 そうやって諦めたような表情をするからこちらは諦められないのだ、と菅原は進藤の唇の端についたケチャップを親指で拭いながら心の中で愚痴を吐いた。
「どうせカノジョもいない俺がホイホイ着いて行くことも、分かってるんだろ」
「私たち、また同じようなことを繰り返すのかな」
「だろうな」
「私は、変わりたい。ここから抜け出したい。派遣を渡り歩くのも、ちょっと疲れた」
「派遣自体は悪くないだろ。ただ、切られるリスク背負ってるのに給料が少ないのがおかしいだけで。まあ、この日本じゃなかなか難しいか」
「何で男って役職にあぐらかいて偉そうにするのを常識としてるのかしら」
「それも結構日本特有だよなあ…どっちにしろリスク背負ってるんだから、外資系の会社でも希望したらどうだ? 企業風土が違って面白いかもしれない」
「ああ、なるほどね…それもありか」
「進藤が落ち着くまで、飯くらい奢ってやるよ。それとも、一緒に暮らすか?」
 手についたマヨネーズを紙で拭っていた進藤が顔を上げて菅原を見た。
「進藤、俺たち自身は大して変わってないかもしれないけど、世の中での立ち位置は変わったんだ。もう学生じゃない。俺と寝るなら、それなりのリスクは背負えよ」
 進藤はうっすらとした笑みを唇に浮かべて首を横に振った。
「リスクを負うのはアナタのほうだわ、菅原。一緒に暮らしてうっかり浮気でもしてごらんなさい、何が起こるか分からないわよ」
「じゃ、お互い様ってことだな」
 冗談半分でほのめかした同棲が現実味を帯びてじわりと高揚しつつ、それだけ進藤が金銭的に切羽詰まっているのだろうと予想できて喜びきれなかった。

 ホテルに向かう途中、ふと手が触れると進藤が驚いた顔をして立ち止まった。
「菅原、手が冷たいよ」
 手を取られて彼女の手に包まれ、確かに指先が冷えていたことに気付いた。
「緊張してるかもしんないな」
「緊張…今更?」
 柔らかく笑った進藤は菅原の手を両方の手のひらで挟んだ。その瞬間、菅原の中で何かが解けた。あの頃、自分も進藤も、お互いが「どうってことない相手」でなくなることが、つまりお互いが特別になってしまうことが受け入れられなかった。だけど本当は、あの暑い日に進藤が風を送ってきた時にはもうお互いが特別になってしまっていたのかもしれない。
「進藤…俺、メール届いてすげえ嬉しかった」
「私も、返事が来て嬉しかった。待たされたのは苛々したけど」
「仕方ないだろ」
「分かってる。でも、こんな状態の私を拾ってくれるの菅原以外いないんだもの」
「正直、進藤ならたとえ一文無しでも拾ってしまう自信があるな」
「何それ…馬鹿みたい」
 罵りながらも笑う彼女は菅原の胸に頭をつけた。たとえ同じことの繰り返しでも、今ならお互いが特別であることくらいは受け入れられるはずだ、と菅原は思った。






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