記憶の向こう側




 電車のドアの前、手すりにつかまって立っていると、向こう側の暗闇の世界が一瞬まるで別の世界のように見えることがある。園村綾野そのむらあやのは窓ガラスに次々と当たっては流れ落ちてゆく雨の粒をぼんやりと眺めながら帰宅途中の通勤電車に揺られていた。
 車両がホームへ滑り込むと、取り巻く世界は突然現実へと戻る。駅名を告げる淡々としたアナウンスが響き、ドアが開く。その瞬間目の前に居た人物に、綾野は目を見開いた。



 学生時代、綾野は自分はきっとこの先社会で生きていけないだろうと思っていた。それほど、初対面の人間と話すのが苦手だった。もちろんそれは今現在でも続いてはいるが、社会に出れば経験によってある程度「初対面の人物に対するマニュアル的な対応」が身に付く。それを叩き込まれる以前の学生時代、綾野は靴を買う際にサイズはあるかと店員に話しかけることすら、五分かけて覚悟を決めなければできなかった。
 引き篭もりにならなかった理由は、大学の授業に欠かさず出席していたのと部活に顔を出していたためだった。授業は普段退屈だったけれど、時折転がり出てくるように面白い出来事に出会えた。ガラクタばかりの中から綺麗なものを探す宝探しに似ていて、だから綾野は授業に必ず出席した。窓際の席に座り、退屈を持て余すと窓からいい素材や構図は無いものかと空やキャンパスを眺めていた。
 部活は写真部だった。家にある小さなコンパクトデジカメしか持っていなかった綾野でも、女性の少ない写真部の部員たちは歓迎してくれた。部の備品としてやや古いながらもデジタル一眼レフが一台置いてあり、予約制で貸し出しが可能だった。部室は写真雑誌や初心者用のマニュアルだらけだったので、読んでいくうちに綾野でも備品のカメラを使えるようになった。
 毎年十人から十五人ほどの人数を保っている写真部は、女性が三、四人しか居なかった。だがトイレに女友達と入ることが苦手な部類の人間である綾野は、さっぱりしたタイプばかりの部の女性たちに安心して接することができた。男性も撮影したデータを部室内のパソコンで加工したり、部室のソファでカメラをメンテナンスしたりといったことに夢中になっている人間ばかりだった。声の大きい体育会系のタイプが居ないことが綾野にとって幸いだった。
 『彼』は、綾野が二年生の五月ごろ、ふらりと何度か写真部に姿を現した。備品のカメラで中庭のケヤキを撮ってきた綾野は、部室のソファに堂々と座っている彼を見て、誰か先輩部員が友人を連れてきたのかと思った。しかし挨拶をかわし良く話を聞いてみると彼は途中入部を考えている同じ二年生だった。
 顔の造りが整っているとは言えない部類の男子学生だった。良くも悪くも年齢不詳で、サラリーマンと言っても通用しそうだった。ジーンズにシャツの組み合わせはごく平凡で似合っているともいないとも言えなかった。けれど綾野が撮った写真を見せて「結構綺麗に撮るんだね」ときっぱりした声で言われた瞬間、現金にも彼に良い印象を持った。変わったところはあったけれども、会話に長けて割合に社交的な彼に、綾野は淡い憧れを抱いた。彼のように平然と、誰に対しても普通に話せる人間になりたいと思っていた。
 結果的に彼は写真部に入らなかった。専門書の自主研究サークルに誘われたのでそちらに入ることを決めたと言った。けれど彼はその後も大学ですれ違えば綾野に話しかけるようになった。二度目に話しかけられた時にはメールアドレスを交換した。一緒に行動していた同じ学科の友人は彼が綾野を狙っていると言ったが、「まさか」と笑って首を振った。その時まだ冷静だった綾野は、彼が友人になりたい人間には男女問わず積極的に行動することを理解していた。
 学食で風邪気味なのだとこぼした綾野に、突然葛根湯を差し出した時には声を出して笑ってしまった。いざというときのために常にその薬を持ち歩いていると聞いてさらに笑った。一緒に海沿いの街へ行った。綾野が竹林の庭園や海をデジカメで撮っている横で、彼はただその様子を見ていた。SF漫画を何冊も綾野に読めと押し付け、「悔しいけど面白かった」と伝えるとまるでどこかの少年漫画のいじめっ子役のように微笑んだ。デパートの地下で菓子類を売る短期バイトの面接に落ちたときには、泣きそうになったところを頭を撫でられ、抱きしめられた。異性の人肌を、あれほど大切に感じたのは今のところあの瞬間だけだった。
 一緒に居ることが、楽しかった。ふとした思考の隙間の全てに彼の幻影が入り込んだ。やがて恋愛感情を抱いて、冷静さを失った。その頃から、メールの返事が来なくなった。悩んだ末に告白し、同じサークルの二つ上の先輩が気になっているからと振られた。友人で居続けることは綾野のほうが無理だった。
 すれ違っても、手を振るだけの関係になって、そのまま卒業した。



 ドアの向こうに居た『彼』であるところの戸倉順也とくらじゅんやは、一瞬目を合わせたものの表情を変えずすぐに視線を逸らした。ドアの中に入ると綾野と向かい合ったドアの端に立って手すりにつかまる。他人の空似かと目を瞬かせながら彼を何度か見上げたが、どうしても戸倉にしか見えない。あれから三年、綾野は友人から変わっていないとばかり言われるが、実はそれなりに姿形が変わっているのかもしれない、とガラスにぼんやりと映っている自分の姿を確認する。顔にほとんど手を入れていなかった学生時代とは違い、さすがにメイクは多少手慣れてそれなりに社会人らしく出来上がっているとあやふやながらも自信を持っている。
 綾野はもう一度窓の外をじっと見詰めている戸倉を見上げた。多少くたびれた様子の戸倉に気付き、あの頃は私も彼も学生だったのだ、と綾野は実感した。緩められたネクタイに色気を感じはするが、彼を目の前にしてもあの時のような明るい気持ちはもう湧き上がってこない。
 電車は綾野が通っていた大学の最寄り駅へと到着した。そこは都心から多少離れた、JRと私鉄三本が乗り入れるターミナルステーションだった。現在の綾野は毎日その駅で乗り換えて通勤している。戸倉もまた、あの頃と同じ自宅へ戻るのであればここで私鉄に乗り換えるはずだった。ラッシュのピークは過ぎているが、電車からはたくさんの人が吐き出されるように出て行く。綾野は人の波に乗ってドアから出ると十メートルほどホームを歩き、一度だけ、一瞬だけと決めて振り返った。
 真後ろには、「よっ」と手を上げる戸倉が立っていた。



 金曜の夜、混み合う居酒屋でカウンターなら空いていると通された。大学の頃二人で来たことのある場所。今も大部屋は大学生で賑わっている様子だった。
「なんで、最初何にも言わなかったの?良く似た別人かと思った」
 おしぼりで雨に濡れた手首を拭いながら、綾野は彼のネクタイの辺りから視線をはずせなかった。
「なんかさ、ああいう混んでるのに静かな電車の中で会話するのって、気が引けない?」
 戸倉は人差し指を襟元に差し込んでさらにネクタイを緩めた。
「まあ、周りに人に聞かれてるなあ、とは思うけど」
「電車降りたら、すぐ話しかけるつもりだったんだけどさ、結構早歩きだよね。園村、そんなに歩くの早かったっけ?」
「毎日通勤電車に揺られていれば、それなりに社会人らしくもなるわよ」
「まあね、それは俺も同じだろうけどさ。俺、老けた?」
 綾野は戸倉の姿をまじまじと見詰めた後、笑いながら「老けた」と断言してやった。ちょっとした嫌がらせのつもりだったが、「分かってるよ、どうせ」と返された。緩んだネクタイの奥の首筋を盗み見ながら、綾野はあの頃やっぱり彼の首筋が好きだったと思い出していた。



 それほど飲んではいないつもりだった。しかし金曜で体が疲れている所為か、妙に酔いが回るのが早かった。綾野はいつの間にか、戸倉の腕に手を絡めて歩いていた。学生の頃、歩いた道だった。いつの間にか雨は止んで、戸倉が畳まれた二人分の傘を持っていた。彼が立ち止まったので、綾野も足を止めた。そして、学生の頃ある日、やはりその場所で彼が足を止めた事を思い出した。
「この間さ、彼女に振られたんだ」
「…そう。ばちが当たったのよ」
「俺、何か悪い事したっけ?」
「私を振ったからだと思う」
「ははっ。なるほどね。あれは、振った内に入るのか?」
「振ったでしょー。そんな事言ってるからばちが当たるのよ」
「うーん。俺ってさ、特に顔が良いわけでも大した学があるわけでもないじゃん。追いかけることはあっても女性に追いかけられたことがないわけよ、今でも。だから追いかけられると何か気味が悪いっていうか、ありえないとか思うんだよな」
 綾野は思わず笑い出してしまった。
「何、何がおかしいの?」
 怪訝そうな様子の戸倉を見上げると、細い通りの入り口にホテルのネオンが見えた。
「私、そんな理由で振られたのかって、思って。バカみたいに本気だったのに」
「…ごめん」
 ちっとも悪びれない様子で、彼はそう言った。綾野は自分が今とても意地悪く笑っているだろうという気がしていた。
「戸倉くん、あの時、ちょっとだけ、好きでも無い私をホテルに連れ込もうかと思ってた?」
「ちょとだけじゃなくて、ものすごい思ってたよ。健康な男子学生だぞ?思い留まれたのが奇蹟だよな」
「今も思ってる?」
「まあね。無理にとは言わないけどさ」
「いいよ。私ももう、今は戸倉君のこと好きじゃないから。フェアだし、ちょうど良いでしょう?」
 彼は多少顔を歪めたものの、すぐに表情を戻して綾野の腕を取ると自棄になったような勢いで細い通りへと引っ張った。



 感じることはあっても、胸は高鳴らなかった。達することはあっても、嬉しくはならなかった。あの頃あれほど触れたいと願った首筋を舐めることすらできたけれど、記憶の向こう側の彼とはどこかが違っていた。もちろん当たり前のことだと綾野も理解していた。
 ホテルの床にぺたりと座り込み、綾野はベットで眠っている戸倉を観察した。起こさないように、髪先にだけ触れた。
 まさか彼を残して部屋を出る日が来るなんて、あの頃ならば想像もできなかっただろう。綾野は立ち上がって部屋の姿見で身だしなみを確認すると、鏡の向こう側に微笑んでみた。少なくとも、失恋したようには見えない。綾野は傘を一つ手に取って部屋を出ると、振り返らずに駅の方向へ歩き出した。







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