記憶の向こう側(2)




 何も起こらない三ヶ月、は油断を誘うに十分な期間であるように思う。一度だけ目配せをしてあとは知らない人間のように目の前に立っている戸倉の姿は綾野にそんな事を考えさせた。あの時と同じ曜日、同じ時間、同じ車両に乗ってしまったことに気付いたのは、開いたドアの向こうに戸倉を見た瞬間だった。あれから二ヶ月ほどは時間か車両どちらかを変えるように心がけていたことにも、そこで思い至った。
 乗換駅で車両から吐き出されていく人々を見送り、綾野は一番後ろからホームに降り立った。会わないままのほうがきっとお互いに穏やかでいられると思った。綾野が車両に吸い込まれていく人々をすり抜けると、しかし後ろから緩やかに腕を取られた。腕の先に居たのは、予想通り戸倉だった。


 一軒家風の洋食屋は、学生時代ランチに訪れたことがある場所だった。夜は少し高めの値段設定なので入ったことが無い。社会人になった今ならばそれほど気負わずに入れる金額なはずなのだが、しかしどうにも学生時代の感覚が顔を出し綾野はやや後ろめたいような気持ちで店に入った。中の様子は変わっていなかった。
 淡いブルーのストライプ柄のシャツ、膝丈で紺色のフレアスカート、黒い柄入りストッキングの女。ダークグレーのスーツに白いワイシャツの男。知らない人間が見れば仕事帰りのOLとサラリーマンのカップルにしか見えないのだろう。事実は違っていることが、そして二人とも中身は学生時代と変わっていないのではという推測が、綾野の落ち着かない気持ちを助長した。
 帆立貝のクリームパスタは、おそらく缶詰を使っていない。鮮度の良い貝柱を使っているのだろう。都心より場所代が浮くためだろうか、職場近くで美味しいと評判の店よりも味は上かもしれないと綾野は思った。
 戸倉は職場の先輩の愚痴を吐いていたが、その姿はどこか楽しそうで、内容も時折笑みをこぼしてしまうようなものだった。関西人はなんにでも落ちをつけたがる、と聞いたことがあるが、それはこんな感じだろうか。
「戸倉君って、関西に居たことがあるの?」
 ジャガイモのニョッキを口に運ぶ戸倉にそう尋ねると、口を動かしながらずっと綾野と目を合わせたままで、やがて飲み込んでから「いや」と否定をした。
「でも、お袋が関西人だけど」
「え、そうなの?」
「ああ、今はもうほとんど標準語だけど」
「どうりで。戸倉君ていつも話に落ちがつくよね」
「ああ、お袋が落ちの無い話嫌いだからな。俺は別に他人に求めようとは思わないけど」
 綾野は戸倉がフォークをニョッキに刺して口に運ぼうとする様子を、ずっと見ていた。特に、意味を持たせようとしたわけではなかった。けれど彼は目を細めて首を傾げると、フォークを綾野の目の前に差し出した。口を開いてそれをぱくりと含んだ瞬間に、綾野はああ、またこの男と寝てしまうかもしれない、と思った。


 理由は無い。けれど、あの時と同じホテルで同じ部屋だった。
 初対面の人間に勢いで最初の関係を築くようなイメージがあったのでこういう時にも勢いで押すタイプかと思っていたが、戸倉は女の体を掌や舌で丁寧に撫で回すタイプだった。特に太腿の内側はその時間が長かった。
 呻くような低い声を漏らす相手の顔を見ないようにと、綾野が横を向いてカーテンばかりを眺めていたら顎をつかまれて上向かされた。不機嫌な顔をしてみたけれど首筋に手を這わせたくなって止められなかった。
「部屋出るときはさあ、声かけろよな。虚しいんだよ、意外と」
 喉仏に指を沿わせたところで上がる息の合間にそう咎められたが、「そう?」と答えてもう一度喉をなぞった。要求に応える気はなかった。


「だったら、眠らなければいいのにね」
 規則正しい寝息を立てる戸倉を見下ろして、すっかり身支度を整えた綾野はつぶやいた。明日の土曜と日曜で引越し作業を予定しているからあまり遅くなるわけにはいかない。綾野は一人暮らしをはじめる。休み明けから別路線の私鉄で通勤する予定だ。この駅で乗り換えることはなくなるだろう。
 もう戸倉と偶然会うこともない。
 体の関係を結んで、中途半端に情が生まれて。戸倉はそうやってずるずると付き合うのもいいと思っているかもしれないが、綾野には無理だった。このままでは、また馬鹿みたいに本気になってしまう。きっと曖昧なままの戸倉に我慢できなくなる。この歳になって同じ事を繰り返すだなんて子どもじみたことはしたくない。
 部屋を出て駅へ歩いていた綾野は、ふと振り返ってあの頃と変わっていないネオンを仰ぎ見た。口の中で小さくつぶやいたのはほとんど無意識だった。
「それでも、会えて良かったかも」
 彼の居ない場所でも彼のことばかりを考えて、それなのに行き着くところがなかった幼い恋愛感情だったけれど。戸倉が教えてくれたことや貸してくれた本や、そういう記憶は消し去りたくなかった。再会して、やはり自分ばかりが彼の何かに執着しているのだと思い知ったけれど。体を繋げた記憶は後で思い出したら痛々しいのだろうけれど。それでも忘れたくなかった。
 きっとそうやって自分の一部になっていくんだろう。
 綾野は振り切るように駅の方向へと歩き出した。



(Fin)





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