助手席の風景




 『彼女』である野木奏子は運転中、常に緊張した表情を保ち続けている。時折会話が弾めばほのかに笑みを見せるものの、一瞬で面持ちを元に戻す。今彼女と鋼平が乗っている車はごく一般的なコンパクトカーだが、友人や後輩に乗せてもらう同じタイプの車とは乗り心地が違った。ブレーキングもハンドルの切り方も丁寧で、まるで計算されているかのような動きだった。一方の鋼平は、運転に関して慣れと直感に頼っているという自覚がある。そんなに運転に神経をすり減らせて目的地まで集中力が持つのだろうか、と鋼平は不安を覚えた。
「途中、どっかで休もうか?」
「お腹すいたの?」
「いや、そうじゃないけど。運転疲れない?」
「大丈夫よ」
 大丈夫と言うその横顔は薄いサングラス越しにも強張っているように見えて、鋼平はやはり自分も車を買うべきだろうかと考えていた。それについて尋ねても奏子は『私がこの車で運転すればいいんじゃない』と答えるので、彼女が運転を嫌いではないことは分かる。実際、奏子の運転の仕方は仕事と同じで『出来は完璧』だった。しかし、これもまた仕事と同じでどうしても鋼平に『手を差し伸べたい』という気持ちにさせる。奏子は安全運転に徹しているし、上司からの評価も高いし、鋼平がそんな心配をする必要など本来はないはず、だったのだが。


 奏子が車を停めた場所は、台風が来たら確実に海面の下に沈んでしまうであろう駐車場だった。十メートル先には波が打ち寄せている。海と反対側を仰ぎ見ると四方をガラスで囲まれた建物が見えた。
「あれが、美術館?」
 鋼平が尋ねると、奏子はサングラスをはずし首をかしげて笑った。
「もちろん。他に、何だと思うの?」
「いや、最近の美術館ってなんか洒落てんなあ」
「なんだかその言い方、おじさんみたいよ」
「子ども達から見たら、もうすっかりおじさんって年齢なんだよな、これが」
「同い年なんだから、そういうこと言わないで」
 鋼平は眉をひそめた奏子の手を取った。
「仕方が無いよ、一緒に歳を取るんだから」
「…そうねえ」
 奏子は鋼平がほんの少し含ませた意味には全く気付いていないのだろう、片手を頬に当てて空を見上げた。それから鋼平を引っ張って美術館のほうへ歩き出した。


 奏子が展示室を回っている間、絵に興味の無い鋼平はワークショップルームで企画された上映会に入ることにした。入り口で入場料三百円を支払い、代わりに梅ジャムと串カステラとフィルムに包まれたラムネの入ったビニールを受け取る。どうせならよっちゃんいかを入れて欲しいと思ったが口には出さなかった。プロジェクターが小さな音を立てて動き始めると、木造の校舎で学びささやかな遊びに勤しむ小学生達が映し出された。メンコや独楽は鋼平も幼い頃に経験があり、最近手に取っていない事を思い出した。梅ジャムを舐めながら今度メンコくらいは保育所に持っていってやらせてみても面白いかもしれないと考えていると、場面が切り替わり父親の上着を後ろから着せる母親のシーンが映された。ふと鋼平は奏子があんなことをしたら逆に気持ちが悪いな、と思った。
 本来の奏子は、ぼんやりしていて人と少しずれているタイプだと鋼平は思っている。けれど真面目で物事を深く考えるから、仕事でミスをしない方法を常に考え実践し続けられる。奏子は職場で抜け目の無いタイプに見られることが多い。
 多分そこが手を差し伸べたくなる原因なんだろうな、と鋼平は考える。せめて自分の前でくらい、ぼんやりさせてやりたいと思ってしまう。
 奏子と連絡を絶っている間、鋼平は奏子が住んでいるからという理由でS市の保育士採用試験を受けた。同じS市職員である博物館の男性職員とは新任者研修の時からの友人で、M市職員の野木という女性が博物館視察の後水彩画教室に通うようになった事を彼から聞いていた。職権乱用になるから秘密だと釘を刺されながら、展示会の受付当番表も見せてもらっていた。あの日、鋼平はもし将太が父親の写真を見たいなどと駄々をこねなければ、仕事の後で博物館に走って行ってみるつもりだった。
 奏子はおそらく、そんなことには全く気付いていない。鋼平はどちらかと言えば気付かない奏子のままで居てほしかった。だから昭和のワンシーンを淡々と映した上映会が終わった後、ロビーのソファに座りブラックのコーヒーを飲んでいる奏子を見て比留間を恨んだ。奏子は以前コーヒーにはたっぷりとミルクを入れなければ飲むことができなかった。ブラックで飲む、なんてまるで抜け目の無い女性のような習慣をつけさせたのは、比留間以外に思い浮かばなかった。
 奏子の隣に腰を下ろして彼女の持っている紙コップを取り上げ一口飲むと、彼女は「喉が渇いてるなら何か買えばいいのに」と笑った。
「半分こしたいんだ」
 鋼平はそう答えて紙コップを奏子の手に戻した。今のような笑顔をきっと比留間には見せていないだろうと、そう考えてから鋼平は奏子に笑いかけた。



(Fin)





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