共有者




 高部春彦には、五歳年上の叔父が居る。
 春彦の祖父である花井敬一は、四十歳で亡き妻に似た歳若い女性と再婚した。そして春彦の母である遥子が二十歳の時、義理の弟俊一が生まれた。五年後、花井総合クリニックの院長である敬一の反対を押し切り、遥子は春彦を宿して平凡な公務員と結婚した。
 春彦の母親である遥子は幼い頃から血の繋がる父親とは馴染まず、十七歳の頃彼女の母となった後妻である義理の母親を信頼している。だから現在進行形で犬猿の仲である父親の自宅に程近いマンションに居を構え、敬一がクリニックの院長兼経営者として激務をこなし家を不在にしている間、互いの子どもを交流させてきた。
 クリニックの後継者として期待を寄せられ育てられた俊一と平凡でも真面目に生きろと父に諭されながら育てられた春彦は、そんな理由から兄弟のように育った。春彦はことあるごとに俊一俊一と彼の後を付いて行ったし、俊一のほうも歳の近い兄弟が他に居ないためかはたまた馬が合うためか春彦の世話を良く焼いた。春彦が叔父俊一の持っているものを欲しがる癖が付いたのは、ごく自然なことだった。俊一は無駄なものを買うという発想を持たなかったため、春彦の両親もその癖について何か言うことはなかった。


 俊一は生物の根幹に人が直接手を入れるなんて壮大すぎるし自分にはできないと敬一に主張して医者の道をすっぱりと切り、代わりに良き経営者になると約束して留学経験を積み経営学を学んだ。真相としては俊一が極度の鮮血恐怖症、と春彦は知っているがあえて口に出したことは無い。ともかく、次に敬一が俊一に望んだことは、医者の視点を持つ女性との結婚だった。
 俊一は女性に対して情を期待していない、ということを春彦は知っている。月に一度血を流すということも関係しているのでは、と春彦は想像しているが真相は本人さえ分からないかもしれない。同性愛というわけでもなく、欲求は正当な契約を以って金で処理する。契約以上のもの、つまりは情や物、を求めてきた女には容赦が無いことも春彦は知っているがそれは女性の側にも問題があるのでフェアな処理の仕方だ、と思っている。
 ともあれ、俊一は見合いに来た内科医の女性に対し、自分に医者としての視点を冷静に与えてくれることと花井の血を引く跡取りを残すことだけを望んだ。その話を俊一から聞いた春彦は叔父の見合いは永遠に上手く行くことはないだろうと予想した。しかしその予想は裏切られ、後日彼女は婚約者として春彦に紹介される。
 叔父の婚約者、薄井薫は俊一に似合いの美女だった。俊一は彼の母の血を強く継ぎ美しい顔立ちをしている。本人は余計なものが寄ってくるとあまり頓着していない様子だったが、父に似て平凡、辛うじて母の血を引きやや整っている程度の顔立ちの春彦としては特に思春期の頃羨ましく思ったものだった。成長過程で血の繋がる者達に否応なしに現実を教え込まれ、確かに俊一の言う事も尤もだと思っていたはずの春彦でも、薫の美しさには気に入りの絵画のような執着をおぼえた。そうして、薫は春彦にとって俊一の持つものの中で最も…やがては唯一欲しい存在となる。
 春彦は彼女を紹介された頃、親の脛をかじりながら昼夜を問わず知識を頭に詰め込んでいた。国家資格を取れば病院の経理として安定した職を与えてやってもいい、という俊一の条件をクリアするためだった。美術史の大学院修士を卒業した春彦と薫は同い年だった。


 薫は、春彦にとって初めて『話の通用する』女性だった。春彦にとって女性とはそもそも話が通じない生き物だというのが中学生の頃からの持論だった。その話を俊一にしたところ彼は「良く気付いたな。俺より一年早い。だがさっさとその話の通用しない人間と意思疎通のロジックを組み立てろ」と言ったのでああやはり俊一にとってもそうなのかと安心したものだった。
 例えば春彦は『心配』ほど役に立たないものはなく、心配している人間にとってもされている人間にとっても負担なのだからなるべく心配などしないように心がけたほうがいいのだと考えているが、この考えはことごとく女性に通用しない。怪我をしたクラスメイトが居れば心配するのが当たり前、心配さえしていれば、心配だと口に出しさえすれば彼女たちは自分が善人だと思っている。だから春彦が心配などしていないと言えばたちまち彼女たちは春彦を批判した。たとえその怪我をした友人のために春彦が学校で配布されたプリントを毎日届けていようとも、そんなことは彼女たちには関係が無い。相手のために必要な事をするよりも、心配することのほうが大切なのだ、という価値観は春彦にとって非常に残酷なものだったが女性というのはそういう生き物なのだから仕方が無いと諦めていた。
 親族紹介の席、やはり父親が医者である薫の両親と敬一や俊一は話が盛り上がっていた。薫と春彦だけが誰とも会話をしていない状況ができ、春彦は何故自分は呼ばれたのかと疑問に思ったところで彼女と目が合った。女性は実の無いお世辞を消費する生き物だという教訓を思い出した春彦は、『美人でいらっしゃいますから、さぞ男性からもたくさん声がかかったでしょう』と話しかけた。すると薫はほとんど表情を変えないまま考え込み、やがて『いいえ』ときっぱり答えた。少し普通と反応が違うな、と春彦は彼女の美しい顔立ちに引き寄せられた。
「謙遜ですか?」
「いいえ、全く。男性は、心配してくれる女性が好きなんです。だから、私のように相手が病気になったなら心配や花束を贈ることに時間を割かず、その病気の事を徹底的に調べて回復の手立てを探るような女性は、好みではないようです」
 その瞬間、春彦はようやく話の通用する女性が現れた、しかも俊一の妻となる女性ならば心強いと思ったものだった。


 春彦は絵を趣味としているが、それを趣味以上にするつもりはなかった。そこそこ可愛いかな、と気に入って付き合ってきた『彼女』たちは春彦の絵を見ると皆一様にプロを目指せばいいと言ってきたが、春彦にそのつもりはなかった。あのゴッホですら、生きている間に脚光を浴びることはなかった。そのくらい世の中は不公平で不条理に埋め尽くされている。絵のために他の全てを捨てるだなんて、凡人の自分ならば絵を描く意味すら失うだろうと知っていた。だから春彦は父親の言うように真面目に時間通り働くことで糧を得る仕事に就き、趣味として絵を続けていくことを決めていた。しかし、その話をしたところで『彼女』たちは一度頷くものの本心では理解せず、また春彦の絵を見るたびにプロの話を持ち出して彼に溜息をつかせた。
 春彦の祖父である敬一は春彦の風景画を家に飾っている。春彦自身は身内贔屓はやめて欲しいと困惑したが、俊一にあの手の感情は好きにさせておけばそのうち落ち着くと諭され静観していた。
 ある日、薫はその絵を見て気に入ったからと、春彦の家にやってきた。春彦は驚きつつも彼女を自宅へ入れた。彼自身は自分の絵を常に一枚だけ部屋に飾っている。過去の自分の視界が現在の自分の視界をクリアにしてくれると感じているからで、それは枚数が多いと効果がなくなるからだ。薫は保管してある春彦の絵を片っ端から時間をかけて眺めた。その間、言葉をまったく発さなかった。そして完成したものの全てを見終えると、「いいわね」とだけ言った。
「薫さんも、プロになったほうがいいと思います?」
 先回りして春彦がそう質問すると、薫はただ不思議そうに首をかしげた。
「さあ…世間に評価されるかどうかは私には分からないけど。ただ、私にとっては、一生私だけのために描いて欲しいと思ってしまうくらいに良かったわ」
 その言葉で、春彦は薫に陥落した。


 春彦が国家資格を取り花井総合クリニックの経理として働き始めた頃、俊一と薫は結婚を直前に控えていた。
 絵を見せて以来薫は時間が合えば春彦のスケッチに同伴するようになった。最初はさすがの春彦も俊一に大丈夫なのかと尋ねたが、俊一はあっさりと『何が問題なんだ?』と返してきた。薫のほうにも俊一と過ごさなくていいのかと何度か訊いたが、彼は忙しいしそんなことにはあまり興味が無いみたい、と答えた。
 その日も高速道路を飛ばしてたどり着いた山間の風景を目の前にデッサンを描きながら、春彦はずっと疑問に思っていた事を尋ねた。
「薫さん、どうして俊一と結婚なんてするんだ? どう見てもマイホームパパにはなれないぞ、奴は」
 春彦の隣でコールマンのコンパクトチェアに座って文庫本に目を落としていた薫は、目を何度か瞬かせて顔を上げた。
「どうして……どうしてかしらね。ようやく話が分かる人に出会えたからかしら。妻らしい気遣いとか思い遣りとかを、無駄には求めない人でしょう? まあ、私の能力で出来る限りのことは求められるだろうけど…きっとそれ以上は望まない。求められてるものが明確で、面白いと思ったし。私、まともに結婚なんてできないだろうとずっと思ってきたから」
「まあ確かに薫さんは普通の女性と違うけど。恋愛して結婚したいとか、そういう願望はないわけ?」
「昔はあったわ…でも恋はいつか終わってしまうでしょう? それなら恋がなくても上手くやっていける人を選ばないと」
 ここまで徹底的にリアリストだと気持ちいいな、と春彦は考えていた。
「俊一と、恋はしたの?」
 薫はしばらく春彦を見詰めてから、困ったように微笑んだ。
「恋でなくても愛でなくても友情ですらなくても、こうして貴方と二人で居るのは居心地がいいわ。俊一さんの甥っ子が貴方でよかった」
 そうして、春彦は他に女を作る気力を奪われた。


 結婚式の直前のある日、引越しの準備が進む薫のアパートで、休日春彦は荷造りを手伝った。俊一は常に仕事で忙しいので、男手が必要な場合気軽に呼び出されるようになっていた。
 作業をひと段落させると、薫はまるで当たり前のことのように春彦に夕飯を作った。親子丼と大根の味噌汁とほうれん草のおひたしというありきたりなメニューだったが丁寧な味付けで、春彦は食事の後意外な気持ちで薫に向き合った。
「美味かった。てか、薫さんマジで俊一でいいの? もったいないことに、奴家帰ってきて食事とかしないと思うけど」
「貴方が食べに来たら?」
 春彦は、深い溜息をついた。
「薫さんそれはいくらなんでも怪しまれるでしょ」
「どうして?甥っ子に食事を振舞う叔母って普通じゃない」
「叔母とか不自然だから。俺と薫さん同い年だから。一般と違うから」
「俊一さんは気にしないわ。貴方は俊一さんとも仲がいいんだし、おかしくないでしょう?」
 ここまでくると、春彦も腹を括るしかなかった。
「俺が、無理だ」
 分からせるために、春彦は薫の頬を両手で包んだ。
「俺が、薫さんを襲うかもしれない」
 薫は理解したかのように軽く頷き、これで彼女と距離を置かなくてはと手を離そうとした春彦は、しかし彼女の手にそれを阻まれた。頬に当てた手を、上から彼女の手が押さえた。
「最初のお見合いの日、俊一さんは手っ取り早い欲求の処理も結婚の条件に入れたわ。つまり、商売またはそれに類する女性との関係は黙認して欲しい、と。代わりに私にも、同じ事を黙認するって。結婚を阻害しない、必要以上に金と権力を求めない人間なら普通の男性でも構わないって」
 しばらく、春彦は口を開けたまま薫を見詰めた。
「すげえな…さすがの俺でも、その結婚観までは納得できない。理解できなくは無いが、そこまで割り切れない。それを受け入れる薫さんも…つか、受け入れられんの?」
「分からない。昔から、結婚に憧れる友達がどこに憧れるのか理解できなかった。でも、だからこそ一度くらいは結婚してみたいって、そうも思ってた。何より、俊一さんの経営方針にはとても共感できるの。私は、あの人と一緒に働きたい」
「じゃあ結婚は抜きにして普通にあそこで働けば?」
「今から婚約を破棄して? 私には難しいわ」
「……」
 薫は慈しむように春彦の手を撫で続ける。
「俊一さんとお見合いしたから、貴方にも会えた」
 やがて春彦の手を取ると、そっと手のひらに口付けた。
「俊一さんはね、血が苦手なの。知ってる?」
 春彦は黙って頷いた。
「いつも直前までいって、体に反応もあるのにそれ以上しないのは、私が処女かもしれないと思っているからなんだと思う」
 春彦は冷や水を浴びせられるような感覚を味わったが、唇を噛んで耐えた。
「私も、初めては恋愛感情を持ってしたいって、それだけはちょっと憧れてたの。だから今まで処女。笑う?」
 薫は綺麗に微笑んで春彦にそう尋ねてきた。春彦はさらに唇を噛んだ。
「春彦さん、抱いて」
 何も知らないその腕が春彦に向けて広げられ、彼からは心にも体にも拒否権が失われていた。


 その後、俊一と薫は結婚した。それでも、春彦は時折薫に呼び出されたし、体の関係も持った。俊一の出した条件に叶えば、つまりは二人の結婚と跡取りについて邪魔さえしなければ、春彦が彼女と関係を持つことに問題はないと薫は言った。俊一は気付いているようだったが、春彦に何も言わなかった。


 結婚して半年後、薫は子どもができる前に海外で研修したいとアメリカに渡った。
 これでこの関係も終わるかと安堵と焦燥とに交互に囚われていた春彦だったが、一ヵ月後電話がかかってきた。薫は『二日間だけの帰国だけど来てくれるわよね』と当然のように春彦を空港まで呼び出し、そのまま二人で近くのホテルに泊まった。帰国の事を俊一に連絡したのかと問えば、連絡はしたけれど彼は都合が付かないらしい、という静かな言葉が返り、春彦は薫から一生逃れられない予感を抱いた。今後何があっても、無理に遠く離れようともがいたとしても、また再会してしまうだろう、という。
「俊一さんは、『花井の血を引く跡取り』と言ったの。自分の血を引く、じゃなくて」
 最初に抱いた日、薫がつぶやいた言葉は、春彦から離れてくれそうに無い。



(FIN)



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