目線の交差




 午後三時の私鉄上り車両は、窓から陽が差し込んで明るい。前から三両目のそこは人もまばらで緩んだ雰囲気に包まれている。大学の体育の授業を郊外のNキャンパスでこなし、友人と別れて帰宅の途中、日頃の運動不足がたたって気怠い体をシートに寄りかからせた。ロングブーツの上のひざこぞうをほぐすように押す。今日は他に授業を入れていないため、このまま自宅に戻ることができた。ただ、普段通学しているHキャンパスとは違い、Nキャンパスは途中乗り換えをはさみ自宅から一時間半かかる。
 S大NキャンパスはN駅から徒歩十五分の場所に位置している。多くの高校や別の大学も最寄りになるN駅は、朝の時間帯ならば人で溢れかえるが、今は広い車両の一つ離れたシートに男子高校生のグループが一組だけだった。通過待ちで停車中の電車の中、興奮した声色でなにやら話が盛り上がっている。うるさいというほどでもないので特に興味も持たなかった。
 出発してから十五分後の乗り換え駅で寝過ごしたくはないな、と思いながらあくびをかみ殺すと真向かいのシートに人が座る気配があった。目を上げると、ありきたりな薄い色のジーンズと黒地にコバルトブルーのラインが入ったリュックが見えた。リュックのラインに見覚えがある。着替えが済んでロッカールームから出たところで、男子学生用ロッカールームから出てきた人物が同じリュックを背負っていた。駅の近くまで自分と友人の前を歩いていた人物だろう。同じ大学の学生、という線で間違いないだろう。チラリと顔を窺ったが、見覚えはない。もしかしたら同じ部屋で授業を受けていたのかもしれないが、体育授業は他学科・他学部の学生も混ざりかなりの人数で行われるため一人一人の顔までは覚えられないし、同じ体育でも別の選択授業を受けていたという可能性もある。
「えっ!それってさあ、セックスフレンド?」
 不意に男子高校生の高い声が耳について反応してしまった。一応は公共の場である電車の中で聞くにはやや不自然な言葉だ。男子高校生は車両に人が少ないと油断しているのか、さらに興奮気味にまくしたてた。
「どうなんだよ、セックスフレンドなのかよ」
「あーまーそう言われればそうかもな」
 自慢げな肯定の言葉に、二人の男子高校生が「まーじかよ!」と叫んでいる。おそらくは二つ三つしか年齢が違わないのだろうだが、心の中で若いわねえとため息をついてこめかみを指で押さえた。ふと、目の前のシートの男子学生と目が合う。一瞬戸惑った顔をして目を逸らしたが、幾度か瞬きをしてもう一度目を合わせてきた。取り立てて印象に残るような顔立ちではないが、切れ長の目と黒く切りそろえられた髪が生真面目で神経質そうなイメージを与える。高校生たちの会話が不快なのだろう、口元を少し歪めて「ガキですよね」とごく小さくつぶやいた。
 それは私に話しかけるつもりではなかったのかもしれない。けれど語尾の『ね』という発音に何か返事をしなければいけないような気持ちになり、「若さですね」と苦笑を返しておいた。彼は言葉が返ってきたことに驚いた調子で曖昧に頷き、そのまま視線をさまよわせてこちらを見ようとしなかった。
 私もそれ以上何か会話を交わすつもりはなかった。が、乗換駅で同時に腰を上げ、乗り換え先のホームでまで彼の姿を見かけてかすかな悪戯心のようなものが湧いた。案外近くに住んでいるのかもしれない。同じ電車に乗り込んだら、彼が降りるまで電車に乗っていようと思いついた。自宅は終点から二つ手前というだけの片田舎なので、もし終点まで彼が乗っていたとしてもそれほど時間をロスするわけではない。その時点で、彼が終点まで行くとは思っていなかった。
 しかし、予想を裏切って彼は私の自宅の最寄り駅を過ぎても電車を降りなかった。リュックから取り出した、カバーの掛かった文庫本から目を上げない。カバーはNキャンパス近くの書店のものだった。
 結局彼は終点まで腰を上げず、私も終点にたどり着いた。駅の名前と「終点です」というアナウンスが流れる中彼は本をリュックにしまって立ち上がり、私も後からゆるゆると腰を上げた。せっかくなので駅前で何か飲み物を飲んでから戻ることにする。前を歩く彼も階段を上り改札を出ていった。もう一年近く降りていない駅だが、改札の前にコーヒーショップがあるはずだった。
 改札を出ると、男子学生の姿は見失った。後を追うつもりはないので探さない。しかし改札前にあったはずのコーヒーショップはコンビニに姿を変えていた。仕方なく他を探そうと見渡すと、同じチェーンのコーヒーショップの看板が目に入る。どうやら場所を移動したようだ。
 二階にある改札口から階段を下り、ロータリーの反対側に目当てのコーヒーショップを見付けて中に入った。ホットの紅茶を注文して受け取り、ロータリーを見渡せるガラス越しのカウンターに座ると、ガラスの向こうで枯れ葉が舞っている。店の中は十分に暖まっているので、マフラーをはずし、鞄と一緒にテーブル下のスペースに差し込んだ。
 一口紅茶を飲み込んだところで、隣に人の気配を感じて横目で確認すると、黒地にコバルトブルーのラインが目に入った。驚いて見上げると、先ほどの男子学生だった。疑問の声を上げそうになったが、自宅の最寄り駅なのだろうからここを利用するのは自然なことかと気付き、きゅっと口をつぐんだ。反対に、男子学生は口を開いた。
「住まいはこの辺りですか?」
 自分に話しかけられているものかと戸惑ったが、彼は紺色のピーコートを脱ぎながら明らかにこちらを見ていた。先刻話した人物だということは気付いているようだ。
「もう少し、手前の駅」
 敬語を使うべきかどうか迷いつつ、結局語尾が切れた。こちらからカードを見せるのはためらわれ、曖昧な表現になる。
「僕はここの駅から自転車で十分くらい。何でここまで来たんですか? 定期使えないから電車賃取られるでしょ?」
 彼も言葉の距離の取り方を迷っているようだった。そして私の方は、答えに窮した。
「…何でかな。何となく、としか言えない。久しぶりに、来てみようかなって」
「僕に一目惚れという夢想をするほど自惚れてはいません。あの高校生たちの愚痴なら聞きますよ。僕に連帯感持ちませんでした?」
「それはちょっとあるけど…でも愚痴と言うほどの愚痴があるわけでもないかな。あの年頃の男の子ってああいうものなのかもしれないし。私が知らないだけで」
「まあ、考えてることに関してはともかく、電車で大声で話す内容じゃない」
 語気が強くなった。真面目なんだなあ、とぼんやり考えている私は不真面目なんだろうか。ほどほどに冷めてきた紅茶で喉を潤す。彼の前には濃い色のコーヒーが置かれており、いつの間にか半分以上がなくなっていた。飲んでいる途中で移動してきたのだろうか。ふと頭の中から出てきた言葉は二文字だった。
「正論」
「…え?」
「正論、っていう言葉しか思い浮かばない」
「それは…同意なのか?」
「同意してる。怒らなくてもいいとは思うけど」
「怒ってない」
 ムキになって否定してくるのでつい笑いをこぼしてしまうと、眉を寄せた。
「君は本当に同意してくれてるのか?」
「してるしてる」
「誠意がこもってない」
 今にも頬をふくらませそうな勢いにもう一度笑ってしまう。そっぽを向いてコーヒーを飲み干す彼に、やや反省を込めて真面目な声をかけた。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
 カップに口を付けたまま、こちらに視線を寄越してくる。
「やっぱりあの高校生たちが言ってたみたいな存在って、欲しい?」
 あからさまに言葉にするのは避けたかったので、遠回しな表現になった。
「それはこんな場所じゃ言えない。第一、ごく親しい間柄でしかそんなこと明かせない」
 その返事がすでに答えを示しているような気もしたが、発言についてはそれもそうだ、と納得させられた。
「確かに。反論の余地はありません、おかしな事を尋ねてごめんなさい」
 軽く頭を下げて謝ると、ぼそりと謝んないでくれよ、とつぶやかれた。
「場所を変えるんなら、連帯感のよしみで教えてもいいけど」
連帯感のよしみ、とは面白いと思った。
「場所を変えるって…どこに?」
「うちに帰る途中に、いい場所があるんだ。ちょっと歩くけど、遠くはない」
 なんだかナンパみたいだな、と思ったが彼の真面目すぎて自分を追い詰めそうな言葉遣いやシンプルな姿格好にやや好感を持っていた。だから私はさっきあんな突拍子もないことを尋ねたのだろう。立ち上がってこちらを見下ろす彼に「行く」と答え、鞄とコートをつかんだ。





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