目線の交差(2)




 店を出た彼は「ちょっと待ってて」と走り出し、ロータリー脇の自転車置き場から自転車を押して戻ってきた。歩道が広いのをいいことに並んで歩く。駅の周辺で買い物をした経験はあったが、ロータリー前に延びる道を歩くのは初めてだった。彼は私よりも頭一つ分身長が高い。
「もしかして、S大生?」
 予想していたことを問われたので大きく頷いた。
「体育の授業、受けてたでしょう?」
「あれ、もしかして同じ授業受けてる?」
「どうかな…私選択卓球なんだけど」
「ああ、違うな、僕バレーだから。でも、何で僕が体育の授業だったって知ってんの?」
「ロッカーから出て、前を歩いてた気がしたから。リュックのブルーのライン、なんとなく記憶に残ってて」
「ロッカーか、なるほどね。卓球って室内でいいよな。バレーは失敗だった」
「バレーって外だよね、確か」
「寒いし手が痛い」
「私も手が痛いのはイヤだなあ。運動が嫌い?」
「種目によりけり。陸上の長距離限定でわりと好きかな」
「えー、私は長距離もイヤ」
「高校までは陸上やってたんだ。走ってるうちに苦しいのが昇華してなんだか妙に軽くなる瞬間が好きだった」
「ランナーズ・ハイ?」
「そうそう」
 歩きながら、自転車の前のカゴにすっぽりと収まっているリュックのコバルトブルーを見ていた。彼を直視できるほど『親しい間柄』ではない。会話は長距離走から高校の持久走大会の内容に移り、私が高校の十キロ走をほとんど歩いた話をすると、彼は二十キロに及ぶ『歩け歩け大会』について語った。
 駅前からまっすぐに続いていた道は、広い川を渡って右にカーブしていた。左方向には川辺の方向に降りていける細い歩道が設置されていた。彼は歩道を降りてゆき、友人のリュックからはみ出た菓子袋をカラスが盗んだと話したところで、自転車を止めた。
「ここが目的地」
 幅のある川に沿って、公園と野球場が隣接していた。公園にはベンチとブランコとジャングルジムが並んでいる。フェンスに囲まれた野球場は使われておらず人影がない。公園には親子が三組遊んでいた。ベンチは公園の四方に一つずつ設置されていた。
「公園ってこと?」
「まあ、公園でもいいけどね。その奥に行こうかなと」
 彼は公園脇に自転車を止めてチェーンをかけると、野球場の方へ歩き出して手招きした。黙って着いて行くと、野球場の脇をすり抜けて進む。よく見ると、ススキや低木樹が生い茂る中に割れたコンクリートの道があった。そこをさらに進むと、錆びたチェーンの巻き付けられた門が姿を見せる。一メートル程度の高さの門の前で彼は立ち止まった。
「昔、スケート場があったんだ」
「まさか、乗り越えて入るとか?」
「乗り越える必要ないよ」
 鎖でぐるぐると巻かれているはずの鉄の門は、彼が手で押すとあっけなく横に動いた。人が一人すり抜けられる程度にに開いたところでガチャンと音を立て、ようやく鎖がその役割を果たす。門はそれ以上開かなくなったが、彼はゆうゆうと隙間から鎖をくぐって門の向こうに抜けると、こちらを振り返った。
「鎖が錆びて緩くなったんだと思う」
「中に入るの? 問題アリなような気がするんだけど」
「ああ、僕もそう思う。だからさっきの質問の答えがどうしても聞きたい時だけ、来ればいいよ」
 彼は私を待たずに背を向けて歩き出した。真面目すぎるほど真面目なのにどこかが欠けていると、そう思った。入るかどうか迷ったが、好奇心も手伝って鎖をくぐった。彼の後ろ姿はすぐに見つかった。単純な作りの施設だった。チケット用の自動販売機はビニールのカバーが掛けられているが、全体的に茶色く変色している。チケットを切る場所だったのだろうゲートは開け放されている。
「もっとたくさんプレハブがあったんだけど、撤去された。来月には工事が始まって、ここは市営の運動場になるんだ」
 後ろ姿のままでそう言って、彼は青く楕円に広がるコンクリートの上で立ち止まった。かつては、氷で覆われていたのだろうそこは、所々ひび割れて草が顔をのぞかせていた。
「滑ったことがあるの?」
 追いついて彼の隣に立つと、手を取られた。驚いたが、季節を先取りして冷え込んだ気候に温かい手は心地良く、振りほどくには惜しかった。
「すごく小さい頃にね。小学校に上がった頃にはもう閉鎖されてた」
 彼は私の手を引いてかつてスケートリンクだった場所を出ると、端のベンチに誘った。他のベンチは青いビニールシートで覆われているが、そこはシートの半分がめくれあがっている。風で飛ばされたのだろう。シートがかかっていない半分のスペースに寄り添うように座った。
「で、さっきの質問の答え」
 手を繋いだまま彼を見上げると、彼もこちらを見ていた。剃り残したのかあごの下にひげがぽつりと伸びている。手を伸ばしそうになったが、私と彼はそこまで『親しい間柄』だろうかと思案して手を止めた。
「欲しいよ、セックスフレンド」
 ああ、やっぱり欲しいんだ、と分かっていた答えなのに意外に思う自分もいた。もしかしたら彼なら、という期待があったことも確かだ。
「ねえ、セックスって、そんなにいい?」
 繋いだ手に力がこもったので、反射で同じようにぎゅっと握りかえした。
「僕もそんなに言えるほど回数こなしてない。でも、性行為を行うと脳内に分泌されるエンドルフィンは、ランナーズハイの状況でも分泌されてるんじゃないかっていう説があるらしい」
 文系の私にはあまりなじみのない用語の羅列で、一瞬戸惑った。
「ええと、つまり、ランナーズハイの状況と性行為の最中の状況は類似している…ってこと?」
「うん、だから、気持ちがいいはずなんじゃないかな。本来は」
「本来は?」
「したことないから聞いたんじゃないんだろう? したことあるけど良くなかったから僕にそんな事を聞いた。違う?」
「…探偵になれるよ、きっと」
「商売としていかがわし過ぎるな」
 こんな場所に忍び込んでるくせに、と言おうとたところで頭の後ろに手を回された。抵抗する余裕もなく唇を塞がれた。間髪入れず、温かくぬるりとした舌の感触が口内を撫でていく。一瞬顔が離れて、視線を合わせた。何かが取り払われた、むき出しの目線だった。
「気持ちいいとか、思わない?」
 キスと性行為はちょっと違うんじゃ、という反論も口には出来なかった。また唇を押しつけられて、繋いでいたはずの手がスカートの中を這う。太ももの内側を撫でられると同時に唇を舐められてぞくりとした。頭の中に浮かんだのは、さっき彼の言った単語だった。
「エンドルフィン」
 唇が離れると同時にそう漏らすと、彼は笑った。屈託のない笑いを見るのは、初めてだった。微笑み返すと、彼は目を見開いて急に我に返ったような表情をした。スカートの中から手を引っ込め、立ち上がって距離を取る。
「戻ろうか。駅まで送る」
 熱が去っていた部分が寒さを訴える。きっと突然彼の中で理性が彼自身を捉えたのだろう。彼の後ろ姿を追う私の足には、鳥肌が立っているような気がした。


 駅までの道のりも並んで歩いたが、ほぼ無言に等しかった。彼は意図的に視線を避けていた。目を合わせれば何かが壊れると怖れているのかもしれなかった。駅へたどり着くと、改札へ向かう階段の前に自転車を止め、視線を迷わせてからこちらを見た。
「じゃあ、気をつけて」
「うん、自転車も、気をつけて」
「ありがとう」
 悪戯心がむくむくとわき上がり、私は彼にぶつかるように抱きついて背中に手を回した。三秒だけぬくもりを確認し、次の瞬間には彼を見ることなく階段を駆け上がった。後ろで自転車が倒れる音がしたが、振り返らなかった。


 その六日後、Hキャンパスの掲示板の前で私は動くことが出来なかった。三つあるS大キャンパスのうち、理系キャンパスであるMキャンパスに新しい体育施設が完成したという張り紙が目の前に貼られている。それ自体は私に何の影響もない事柄だったが、その下には…体育授業のバレー選択者は、今後Mキャンパスで授業を行うと記されていた。
 同じ学科で体育のバレーを選択している友人に尋ねると、年度初めの授業でも説明されたし、先週Nキャンパスの授業の時にも連絡されたという。つまり、もう彼とNキャンパスで偶然出会うという状況は期待できそうにないし、彼もそれを知っていたのだ。私は彼に、同じ大学という以外学科どころか学部すら尋ねなかったのだと気がついた。彼はきっと気がついていただろう。もう会わないことを望んだということだ。
 何とも曖昧な幕切れだが、これは失恋と言えるだろうか。キスすらまともにされずに体の結合を求められた前の男性のイメージを崩してくれるかもしれないなどと、わずかばかりの期待を抱いてしまったのがいけなかったのかもしれない。
 ただ、今後彼に会うことはなくても、あのスケートリンクが運動場に生まれ変わったらきっと見に行こうと、それだけは心に決めた。





 晩秋の昼下がり、「S大手作り石けん」が入った紙袋を抱え、Mキャンパスの図書館を探す。三日間ある学園祭のうち一日はMキャンパスへ遊びに行こうと友人から誘われてやってきた。友人の彼氏が理系のMキャンパスで演奏するからだ。
 二人で一通り校舎を回ってから、講堂で友人の彼氏が出ているクラシックギターの演奏を聴いて、その後友人とは別れた。花束を持った彼女に彼氏のところへ届けると聞いて着いて行くほど野暮ではない。
 大学図書館が相互貸出・返却をしているのを知ってはいたが、今までは機会がなくMキャンパスの図書館には初めて入る。毛色の変わった文学全集でもないだろうかと図書館棟に入ると、一瞬視線が集まるのを感じた。学園祭の最中であるため人は多くない。学生のほとんどは男子学生だった。そして、職員も含めて今見える限りでは女性が居ない。キャンパスによってこれほど違うものかと驚きつつ、階段脇に掲示されていた図書館配置図を見付けた。文学の蔵書は少なそうだった。記された中二階の奥へ行くため階段を上る。すれ違う学生も男子学生ばかりが三人だった。女子学生は学園祭の華として駆り出されていて、この時間ここにいるのは学園祭に興味のない男子学生ばかりなのかもしれないと考えてしまった。
 中二階はまるで書庫のような場所で、天井は低く文系の書籍がびっしりと並んでいた。窓もなく、蛍光灯のおかげで光はあるがひどく狭い印象を受ける。幸い、本の並ぶ狭い場所は嫌いではない。のんびりと背表紙のタイトルをたどっていくことにしたが、Hキャンパスでも見かけるタイトルがほとんどだった。本棚の中程までたどったところでふと人の気配を感じ顔を上げると、『彼』が居た。
「やあ」
 どこかで偶然会えたら、という想像を何度かしていたはずなのに、昨日も会ったかのような挨拶にやや気が抜けてしまった。
「…こんにちは」
「イメチェン?」
 彼は自分の頭を指さしてそう尋ねてきた。以前の髪型は黒いロングのストレートだった。あの後、少しは見た目に気を使っていれば何か違っていたかもしれないという反省を込め、肩のラインで切りそろえゆるいウエーブをかけたのだった。髪色もやや明るくしてもらった。
「うん、イメチェン。おかしい?」
「いや、それはそれで似合ってるけど。実は、卓球の授業取ってる友達に、黒くて長いストレートの髪の女の子が居たら、閉鎖されたスケートリンクを知っているか尋ねてくれって頼んであった。もし知ってたら、僕のアドレスを渡してくれとも言ってあった。そしたらヤツその後体育二回もサボりやがって。やっと出たかと思ったら黒くて長いストレートの髪型の女なんて一人もいないとか言い出した」
 逆効果。という言葉が浮かんで頭を押さえたくなった。
「まさか、イメチェンしてるとは思わなかった」
「地味な外見を何とかしようかな、と思って」
「地味だったかな? まあ大人しめ、っていう部類なのかもしれないけど」
 会話をしながら徐々に距離が縮まってくるので、本棚に背中が付いてしまった。ふと彼が紙袋を見下ろす。
「なんかいい匂いするね。石けんでも買った?」
 抱えている紙袋を彼の前に近づけて、頷いた。
「S大手作り石けん、だって。Hキャンはこういうのあんまりないから、面白いな、と思って」
「そっか。今日は、学園祭に来たの?」
「うん、友達と一緒に」
「友達はどこに?」
「今は彼氏のところに」
「ふーん。それで図書館?」
「そう。前から興味があったから」
「ここのキャンパス、女性が少ないから目立つんだ。勉強してる最中に入り口に居るの見た時は驚いた」
 また距離が縮まって、彼の顔が目の前に来ていた。さすがにこの距離は緊張するな、と思った直後にあ、今日はひげの剃り残しがない、なんて緊張感のないことを考えた。思考が支離滅裂だ。
「本当は友達からっていうのが至極真っ当な人間なんだろうとは思うんだけど、ちょっと難しそうなんだ。ちなみに、彼氏でもできたの?」
「彼氏は…いない、です」
 緊張して語尾が固くなっている私に比べ、彼の方は偶然をきっかけに強気になっているような気がした。私はといえば、なんだか出来すぎていると何かを疑ってしまう。何を疑っているのかは自分でも分からない。そのうち、彼の両手が本棚に付いて私は中に閉じ込められた。人に見られたら、と鼓動が跳ね上がる。これはスリルの所為なのだろうか。
「セックスフレンドじゃなくて、できれば彼女として、僕とエンドルフィンを分け合ってください」
 至近距離でつぶやかれたセリフに、吹き出してしまった。遠回しなようで、ひどく露骨な言葉だった。
「白状すると、あれから頭の中で何度も君にキスした」
 その言葉で、何もかもがしっくりと私の中で落ち着いた。中二階に人の気配がないことを確認してから、私は彼の唇を受け入れた。



(Fin)





COPYRIGHT (C) 2008 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.