鎖骨と吐息(後日談2)




 狭いキッチンで湯を沸かし貰い物の緑茶を淹れる。一人暮らしを始めたときに実感したことは家の中では何でも自分でしなければならないが、同時に何でも自分で判断できてしまうということだった。共同生活ではこうはいかない。お茶は飲みたいときに自分で淹れればよい。ただ、他人のために淹れるのは初めてだった。友人が来るときにはペットボトルやら菓子やら、二十歳を過ぎればチューハイの缶やらつまみやら、何かしらが持ち込まれていた。女性ものの細いロングブーツが玄関でにょきりと存在していることがまず高峰には信じられない。以前付き合った女の子とは家に呼ぶ以前に終わっていた。つけっぱなしのテレビからは、正月特有のニュースが流れている。
 友人が来ることもあろうと就職後しばらくしてから買って来た薄茶色のマグカップは、四つセットで同じものを買った。自分で使っていたカップを割ってしまってからはその内の一つを使っているので、つまり今高峰は揃いのカップにお茶を注いでいる。意識しすぎだと自分でも分かってはいるが、向坂佐緒里相手に意識するなという方が無理だった。部屋着として着ているネルシャツが比較的新しい物であるという偶然に感謝している。
 セミロングのふわりと整えられた髪を、落ちないように額の横あたりで留めている。ピンは黒いシンプルなものだった。ざっくりと編まれた物の良さそうなセーターを着ている。部屋に入ってブーツを脱ぐなり「寒い」とつぶやいた彼女を座らせる場所は座面の低い座椅子に毛が生えて横に広がった程度の二人がけのソファしかなく、高峰はその前にあるこれまた低いテーブルに二つのカップを置いた。高峰自身は座布団を敷いてソファの斜向かいに座る。
「寒くないの?」
 寒さを凌ぐための電気毛布は彼女の膝に掛けてやっていた。高峰は立ち上がるとエアコンの温度を一度上げ、加湿器のスイッチを入れる。彼女が風邪をひくという事態だけは避けたい。すると向坂は不満そうに「そうじゃなくて…」とつぶやいてカップに口をつけた。
「そうじゃなくて…何だよ?」
 向坂はソファの更に端へ寄って、隣をぽんぽんと叩いた。
「一緒に毛布掛けた方が、あったかいんじゃないかな」
「お前な…何もしないでいられる自信がないって言ったの忘れたか?」
「楽しみにしてるって言ったの忘れたの?」
 間髪入れずに反撃が来て高峰はうなだれた。思えば、最初から彼女は穏やかな口調なのに折れない女子だった。半ば自棄気味にカップを持って移動する。隣に座ると、腕が触れ合った。高峰が再びカップを置くと、向坂は毛布を広げて二人の膝に掛けた。満足げな表情をする彼女に、何かが切れてしまう。腕を伸ばして、髪に触れた。
「向坂…俺、一応将来性だけはありそうな会社に勤めてるからいきなり失業する確率は低そうだけど、俺自身には正直将来性がある気がしない。同い年の奴らと比べて、給料は少ないと思う。お前の周りは、今働いてる男なんていっぱいいるだろ。マジで、俺と付き合う気なのか?」
 向坂も腕を上げ、高峰の頬にそっと触れた。「髭、ホントに剃ってないね」と笑いながら頬をなぞる。
「何で高峰くんなのか、私にも分からない。大学の頃はね、これでも男の人と付き合ったことあるんだよ。でも、高峰くんからは、年賀状貰っただけで、いても立ってもいられないみたいな落ち着かない気持ちになった」
 楽しそうに高峰の顔のあちこちに手で触れてから、向坂は頬へ唇を落とした。あの頃、彼女の方から触れてくることはほとんど無かった。胸を手で包まれた彼女は頬を染めてどこか苦しそうな困ったような表情をしていたので、それどころではなかったのかもしれない。高峰は彼女の首に手を回し、眼鏡が当たらないよう慎重に唇を重ねた。何度か同じことを繰り返すと、彼女の方から舌を差し込んできた。しかし、胸に手を伸ばすと、顔を離した。
「少しは、大きくなった?」
 悪戯っぽく笑う向坂に、高峰は苦笑した。
「どっちでもいいよ、向坂なら」



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