小説未満


※一次で小説未満の断片詰め合わせページ。

他人と触れ合う

※R15程度



 大学決まったからって浮かれ過ぎじゃないの、と佐良さらが低くつぶやくと弥上やがみは彼女の胸の膨らみに埋めていた顔を上げて浮かれて何か問題でも、と返してまた佐良の肌の味を確かめるように舐め始めた。十八歳にしてこのやり方はいかがなものか、と過去三度ほどの経験を振り帰ってはみたがあまり意味のある比較にはならないだろうと思考を止めた。
 弥上はもどかしいとばかりに佐良の制服のスカートに手を掛けホックを外し、引き抜くと腰から腿のラインを両手で撫で上げた。
「あんたホントに十八?」
「同じ高校に通ってたんだから年齢詐称してたらバレるだろ、普通」
 まったくもってその通りだけれど肌の触れ方が佐良の十八歳男子のイメージからかけ離れている。押し上げられた脚の間を頬ずりされて何とも言えないもどかしさに溜息が漏れた。
「てか、勝手に誰かさんのイメージと比較しないで欲しいんだけどさ」
 あら、ばれてる、という思考が手を口許に動かしてしまった。あからさまに嫌な顔をした弥上は片脚を抱えて佐良の下着越しに昂ぶった中心を押し当ててきた。
「俺もまあ無駄に慣れてるからね。あんたと同じ理由で」
「慣れてるって程経験ないわ、悪いけど」
「その割に理想は高そうだけどな。なんだっけ、あんた読んでたの、『智恵子抄』だっけ?」
 二年間同じクラスで学級委員を任されていた腐れ縁の弥上がまさか読んでいた小説のタイトルを覚えているとは予想しておらず、佐良は目を見開いた。
「何で知ってんの?」
「そりゃいつでも委員会の前にでかい本読んでんだから嫌でも目に入る。毎度タイトルが違うから同じ本読んでるなんて珍しいと思ったら『智恵子抄』ってさ、どうかしてるよ」
 自棄になったような動作で制服の前を寛げた弥上は柔らかなプラスチックのケースを破って装着してから佐良の下着を引き下げて先端を押しつけた。
「うるさいな、ヤらせてくれればいいやなんてどっかの盛りのついた男子高生みたいなこと言ってる癖に偉そうじゃない」
「はいはい、どうせ俗物だよ。その辺の飢えてる男どもと何も違わない。知っててここに来たんだろ」
 押し入ってきた動作は案外優しく、佐良は喉を反らせながらやっぱり慣れてやがるなと思った。
「高村光太郎が憧れてたロダン、あの男愛人一人狂わせてるんだ。智恵子も高村光太郎との関係にバランスを取れなくなった。そんなもんだよ、あんただって狂わされたんだろ」
 工学系のデザイン学科だから芸術に理解なんて無さそうだと思っていたら案外知識はあるらしい。佐良も良く知っている事実は彼に指摘されると痛かった。
「そうだよ。好きで好きで甘やかされて、何でも望むものは与えてくれた。望めば優しく抱いてくれさえしたのよ。でも、それだってお菓子を与えられるのとおんなじ意味だった。だから泣いて責めて、挙げ句の果てにあんたとこんなことしてる」
 気付けば佐良は涙を幾筋か流していた。突き上げられる箇所は初めてでもないのに熱くひりひりとしてでもやめて欲しくはなかった。何度か往復を繰り返して佐良の上に体重を投げ出した弥上は彼女の顔の横でベッドを叩いた。拳の上下が振動になって体に伝わる。
「まあでもあんたはまだまともだよ。俺なんか彼女のウエディングドレスが血に染まってるところしか想像できねんだから」
 年上の女性と歩いていたという噂は本当だったのか、と佐良は弥上の背中をあやすように撫でながらおかしなところに感心していた。きっと色気のある、弥上のような男子高生にとって魅力的な女性だったのだろう。
「捨てられたのね」
「捨てられたのはあんただろ。俺は最初から割り切ってた。不倫に傷ついて慰めてやったら、今度はどっかの医者と結婚だとよ」
「慰めてたら夢中になっちゃったのね」
「だからそれあんただろ」
「私は捨てられたんじゃないわよ。ただ、あの人にとっては女じゃなかった。切り捨てられるよりタチが悪い」
 弥上の体は温かかった。けれどそれは「他の人」であると強く感じさせる温かさだった。望んで望んで自分のものだと勘違いしていたあの肌と違って、最初から異質であることを意識させる重さだった。
「ねえ、弥上、私傷の舐め合いなんて好きじゃないの。だから本当のことを言って」
 あの人にとって私はなんだったんだろうという疑問を口にする前に弥上は答えた。
「単純にあんたが女の子として欲情に値するからちょっと魔が差したんだろ。俺と一緒で」
 それが本当ならまだ救いようがあるかもしれないと佐良は思った。



(12/04/23)

他人と触れ合う(2)

 弥上の通う大学のキャンパス内、夕闇に沈んでいく景色の中、佐良は街灯に照らされたベンチに座っていた。佐良が通っている大学からは歩いて十分程度。地下鉄の駅の反対側に位置しているという、相変わらずの腐れ縁には笑ってしまう。呼び出した弥上は待ち合わせの時間ちょうどに姿を現して、佐良の隣に腰掛けた。しばらくまるで口を開かないので佐良も図書館で借りた本から顔を上げなかった。街灯の灯りだけではやや暗く読みにくいし、頭は文字を追っていない。それでも顔を上げなかった。運動系のサークルだろうか、スポーツバッグを背負った賑やかな会話の途切れない集団が前を通り過ぎていった頃、弥上は佐良の肩に手を伸ばした。顔を上げると、街灯の下でも判断できるほどマイナスの感情に満ちた彼の瞳とぶつかった。
「随分と疲弊してるわね」
「分かるか?」
「今度はどんなふうに夢中になってどんなふうに突き放されたの?」
「傷をえぐるなよ」
「じゃあ何のために私を呼んだのよ」
「慰めてもらうために決まってるだろ」
 肩に回された手に力がこもる。佐良は目を細めて弥上を見上げた。
「嘘ばっかり。同類がいるって確認したいだけでしょう」
 弥上は疲弊したままの表情で笑った。泣きそうな顔に見えたけれど彼は泣かなかった。
「で、そっちはどうなったんだよ」
「もう会わない。そう決めた」
「とか言って無理なんじゃないの?」
 高校生の頃から続く十歳年上の男性との関係はいつの間にか相手の結婚によって不倫と表現できるものに成り代わり、あれほど憧れていた信頼していた男性はただの優柔不断な優しい人に成り代わっていた。それでも、好きだった。
「奥さんに赤ちゃんができたんだって」
「へえ。偶然だね、俺の相手もおめでたなんだそうだ」
 心底興味のない声だった。その声が怖かった。弥上との腐れ縁はそれなりに長いものになってしまっているけれど、怖いと思ったのは初めてだった。佐良は自分の告白よりもずっと勇気のいる質問を絞り出した。
「ねえ、まさか、あんたの…?」
 いつの間にか校内はすっかり闇に包まれていた。街灯に照らされた自分たちはたぶん誰かが見たら滑稽な存在だろうと佐良は思った。これだけ近い距離で、それなりに色のついた話をしているのに、それはお互い別々の話。
 弥上は突然佐良の肩に額を押しつけてきた。驚いたところで泣き声ではなく震えるような笑い声が体に響いてくる。
「いいや、違う。時期的にも、物理的にも、俺って可能性はまあゼロに近いな」
 絶対に違うと言い切らないところが弥上らしい。
「その人は、幸せそうなの?」
「ああ。そうだな、幸せそうだった」
「それなら、仕方がないわね」
「そうだな」
 佐良が彼の背中をさすると、引き寄せられて抱きしめられた。佐良は眉を寄せて「ちょっと!」と小さく咎めたけれど弥上はやめなかった。人通りは少ないが、向かいの図書館あたりから見られている可能性だってある。
「ねえ、ここではやめてよ」
「場所変えていいのかよ」
「抱きしめるくらいなら相手になってあげてもいいわ」
「それだけで済むと思ってんのかよ」
 どうしてだろう。お互いに許されない相手ばかりを追いかけて、傷ついて仲間がいることに安心し、それだけならきっと健全なのにそれ以上も求めてしまう。本気で追いかける関係には終わりが来るのに、弥上との関係には終わりがない。ただのはけ口と表現してしまえばいいだけなのに、そう割り切ることを佐良は拒んでいる。
「私、本当にやめなきゃいけないのは、弥上との関係なんじゃないかって最近思うの」
 体を離した弥上の目は潤んでいた。少しは、泣いていたのだろうか。
「じゃあ、いっそあんたとはじめてみようか」
「まるでついでみたいに言うのね」
 弥上相手に何かがはじめられるかどうか、佐良にはまだ思い描けなかった。ただ、立ち上がった弥上の手に引き上げられて、目の前の小憎らしい男が自分の中で特別であることだけは実感していた。



(13/02/03)

水を求めて

 昔賑わっていたのかもしれない海水浴場には私たちの他に犬連れの男性と小学生くらいの男の子が二人と一匹だけ。波しぶきと遊ぶ彼らからは随分離れているけれど間には誰もいない。私はTシャツを脱ぎ捨てた。家から着てきた水着はひまわり柄のビキニに長いパレオ。曇りがちの夏の日は海で遊ぶのにちょうどいい気候で、波打ち際に寝そべるとハーフパンツにサンダル履きの彼が腕組みして覗き込んできた。
「泳がないの?」
「んー、泳ぐのはあんまり。こうしてる方が好き」
 目を閉じるとただ水の音と遠くから吠える犬の声だけが聞こえてきた。目を開くと、彼は私の隣に座っていた。
「もっと賑わってるところの方が若い子には面白いんじゃないの?」
「若い子とか言っちゃうところがおじさんっぽい」
「まあ、そろそろそういう歳だしね」
 穏やかに笑う彼は今年社会人になったばかりの私より十年上で、結構有名な化粧品の会社に勤めている。でも、私は彼の会社の化粧品は絶対に使わない。品質云々の問題じゃなくて、ただの意地で。
「やっちゃんから連絡来る?」
「ああ、元気みたいだよ。お盆には戻ってくるらしいから、三人で食事しようか」
「うん」
 やっちゃんは彼の妹で、私の幼馴染みだった。勤め先が遠いので、一人暮らしをしている。昔はやっちゃんと私が二人で彼にまとわりついて遊んでもらったものだった。今、やっちゃんは兄である彼と少し距離を置いている。実はお盆に帰ってくる彼女と買い物の約束をメールで済ませている。食事はその後になるかもしれない。
 上半身を起こして、私は彼のTシャツに頭を預けた。彼は私の手を握ってから、穏やかに笑って口づけをした。ほんの、軽く。
 彼は誰にでも優しい人だ。だからちゃんと「遊び」だと確認できる女性じゃないとこれ以上の線を越えることはしない。それでもいいと言う女性はたくさんいるし、だから彼が今どのくらいの女性と関係を持っているのか私には分からない。やっちゃんが距離を置こうと決めたのは優しいけれど納得はできない彼の行動を見続けてきたからだ。そして私は毎回のようにやっちゃんから「お兄ちゃんだけはやめておけ」と釘を刺されている。でも彼と一緒に過ごす時間は居心地が良すぎて他の男性と過ごしたいと思えない。
 彼が女性と二人でいるところを目撃したのは二回だけだ。その二回とも、相手は驚くほど綺麗な人だった。おそらく会社の女性なのだろう。職業柄もあるのかもしれないが、隙のないメイクとスタイルと雑誌の中から出てきたみたいな服を着ていた。
 くらべれば、まあ私はどう考えても野暮ったい。だけど私がせがめば彼は車を出してくれるし、どこにでも付き合ってくれる。妹分の特権だった。
 ああ、だけどもう駄目だと彼のまぶたに口づけながら私はようやく実感することができた。この人は私にとってオアシスみたいな存在だったけれど、この水はもう涸れて、どこか別の場所へ移動してしまうのだろう。私はちゃんと私の水を求めて歩きださなきゃいけない。



(12/05/05)

日陰のゲーム

 職場の若い後輩達に誘われてやってきた砂浜は、案の定場違い甚だしく、真冴まさえは元気に泳ぎ遊ぶ五人のメンバーを眺めながら少しの後悔を噛み締めていた。正直なところ海には二十分ほど浸かった時点でもう遠慮したいという気持ちになった。
 漁師小屋を改造したという「海の家」は普段からカフェとして営業しているらしい。彼女はそこでアイスティーを啜る。やたらと香り高く出された時には目を見張った。出入り口の近くは海の家らしく水着の若者達が楽しそうに焼きそばを頬張っているが、奥の一角には普段から利用しているのであろう客達がちらほらと椅子に落ち着いてはいつの間にか帰って行く。色は紺で裾のフリルは長め、ワンピースの水着を着た真冴はすっかりその一角に落ち着いてしまった。途中後輩達が食事を目的に現れた時だけは合流したが、海に出て行く気は失われていた。クーラーが入っていない小屋の中は海辺のヒルガオに囲まれている所為か、もしくは海の風が吹き抜ける所為かあまり不快な感じがしない。本を読み始めた真冴に後輩の一人が気を使ってやってきたが「ここが気に入っただけだから」と可能な限りの笑顔を見せた。もう、「若者」にカテゴライズされる年齢ではないことを痛感してしまったことは、気付かれていても隠しておく。
 おそらく、小さな子を遊ばせているお母さん方とのほうが自分と歳が近いのだろう。普段仕事をしている間は意識しないで済む「持つ者」「持たざる者」の差を感じ、不安に近い何かが胸の端の方にわずかながら広がった。その染みが太陽の下へ出ることをためらわせる。

 隣のテーブルにゲーム盤がおかれていることに気がついたのは、食事を挟んで二杯目のアイスティーを飲み干した頃だった。緑色の盤面の上に並ぶ白と黒のマグネットはいわゆるオセロで、こんなところで二人オセロを始めたのかと真冴が顔を上げるとそこには一人の人物しか座っていなかった。彼の視線はオセロの専門書とおぼしき本と盤面の上を行ったり来たりしている。集中しているのか、真冴の視線に気付く様子もない。もしくは慣れているのか。しばらく観察して気付かれないと踏んだところで、盤上を遠慮無く眺めることにした。幾度かの黒と白の応報で、真冴が全く予想しなかった手の流れが見えた瞬間、思わず「あっ」と声を上げてしまい、相手がこちらへ視線をずらしてきた。
 ああ、まずい、と思ったけれどもう遅い。彼は眼鏡の奥から不思議そうにこちらへと視線を寄越している。年齢の分かりにくい男性だった。黒髪にはごくところどころに白髪が交じっているが、真冴と同じくらいの年齢といわれても納得できそうだし、もっと年齢を重ねているかもしれないと思わせる印象もあった。
「やってみますか?」
 低くないのに落ち着いた声の色をしていた。
「歯が立つとは思えません」
 幼い頃に家族と遊んだゲームだが、目の前で繰り広げられる「それ」が異次元の世界であることだけは真冴にも認識できた。
「隅に黒を置いてハンデをつければいいだけです」
 確かに隅を狙うゲームという程度は認識できているが、それで果たしてなんとかなるものなのか、目の前にある男性にしては細く骨張った手に勝てる自分は想像できなかった。
「それでもあっという間に負けそうです」
 首を横に振ると、男性は眼鏡のフレームを押し上げて真冴を真正面から目線で捉えた。
「それなら、前に座っていてもらえませんか。一人で研究するにもその方が調子が出るんです。本を読んでいてかまいませんので」
 断る理由を見失って、真冴はゆっくりと二度頷いた。

 何かに夢中になっている男の顔というものは案外いいものだ、と平常時に見れば可もなく不可もないといったところであろう顔立ちの男を文庫本越しに盗み見ながら真冴は思った。ページを捲り話を追いながら時折男の表情を確認するみたいに目を上げる。話が中盤に差しかった頃、ふと顔を上げた男と、目が合った。
「ウチに来ますか? 近所なんですが」
 これでついて行ってしまえば、あとで若い連中にからかわれるんだろうな、と予想はついたけれど幸か不幸か真冴はそれを受け流すだけの経験値を積んでしまっている。案の定男を横にして「先に帰るね」と伝えると面々に半笑いをされてしまった。何とでも想像すればいい。
 麦わら帽子をかぶると男は目を細めて「似合いますね」と言った。「それはどうも」としか返せない。とりあえず斜め前を歩く男が犯罪者でないことを祈りながら、真冴は彼の後ろを歩き始めた。



(12/06/07)

籠り会い

 実際に疲れているかどうかはともかく、雰囲気が疲れている。私が男に対して抱く印象はいつもそんなものだった。今時このたたずまいで残っていることが貴重なのではないかと思うほどの古くさい二階建てのアパート。畳の部屋。狭いユニットバス。几帳面だから掃除は行き届いているけれど、本棚と机とベッドで埋め尽くさてしまうような部屋は三十代の男の部屋には見えない。実際学生の頃と変わっていないと男は言う。机の上には近所の図書館で借りた本が何冊か。図書館にも古本屋にも近い今の部屋を男は気に入っているらしい。
 男とは偶然実家近くのスーパーで顔を合わせた。お盆の時期で、互いに実家へ顔を出していて、買い物を頼まれたところまで行動が一致していた。中学の頃のクラスメイトだった男は、疲れた印象以外あまり変わっていなかった。あの頃少し高めの印象だった身長も、今では中肉中背と表現できる。スーパーから歩く途中の道すがらぽつりぽつりと言葉を交わして、お互いが比較的係わりのある職業に就いていると知ってから連絡を取り合い始めた。
 好きだとか付き合おうだとか口にしたことはなかった。女は口にしてもらいたいものだというのが世の通説らしかったが、私は生憎そういったタイプの女性ではなく、むしろこの男に好きだなどと言われたら疑ってしまいそうだった。金曜日にメールで土日の予定を確認して、週末の一日を男の部屋で過ごす、それ以上でもそれ以下でもない関係。男の部屋がある街は商店街に活気がある。だから途中でお総菜を買って部屋に向かう。男はご飯を炊いて待っている。炊飯器もあるが、私が部屋に行く日はガスで炊く。私が買ってくる総菜は美味しいと言う。センスがある、なんて表現されると不思議な心持ちになる。総菜選びにセンスが必要とは思わなかった。男は普段ご飯と梅干しとインスタントの味噌汁と野菜ジュースで生きているらしかった。定職に就いてはいるが収入は多くないのだろう。
 私自身、料理は比較的普通程度にできるつもりだが、商店街を通るとどうしても何かを買いたくなってしまうのだから仕方がない。世の中からは言い訳と笑われるだろうか。男に作ってくれと言われれば作るつもりだが、彼は言わなかった。いわゆる将来に繋がるような行為を避けているのかもしれない。お互いに。
 残暑が厳しい日、男の部屋の古いクーラーが時折カタカタと音を立てている。炊きたてのご飯に、とろろ昆布の味噌汁に、鶏と枝豆の炒め物、オクラのごま和え。黙々と食す。二人とも食事中には口をひらかないと躾けられた。食事の後、部屋に着くまでかなり汗をかいていたからシャワーを浴びたいと言うと当然のように男も服を脱いだ。
 シャワーを浴びながら抱き合って口付けを交わす。君と会うようになってから何かを欲しいと思うようになってしまったと言う男にじゃあ何が欲しくなったのかと尋ねれば、お総菜とか、という子どものような答えが返ってきた。その場で身体を繋げたけれど、壁に押しつけられた背中が痛いしきちんと奥までできなくてもどかしかった。ベッドで、とねだると目を細めて頷いた。何かを誓う必要なんてない。今は、まだ。



(12/07/27)

瞼の裏に残る

 『鳥人』という例えを使う事があるけれど、人間は鳥になんてなれない。所詮は翼を持たない動物だ、どんなに重力へ抗おうともすぐに地に引き下ろされてしまう。それでも人は跳ぶ。何度重力に負けても。空だけが視界を埋め、すべてから解き放たれたかのような浮遊感、何に触れることもなく柔らかなマットへ落ちていく背中、あの一瞬のために。

 なんの部活に所属する気にもなれず、丸二年が過ぎ、進路は無難という理由だけで国立文系を選び、そうして高校三年になった。新しい教室は学校の中で新館と呼ばれる比較的新しい建物で、三年にもなってまさか一階の教室が宛がわれるとは思っていなかったから新鮮だった。
 図書館に行って勉強をしなければという気持ちはあるのに、何のためかと反抗する誰かが心の中に住み着いていた。教室で友人に借りた漫画を読み始め、いつの間にか一人になっていた。顔を上げて教室から校庭を見渡した。運動部の三年はこれを最後に引退する夏の大会に向け練習に熱が入っているようだった。
 ずっと避けていた光景だった。分厚いマットレス、容赦ないバー、背中を反らせて跳躍する選手達。中学までは毎日があの繰り返しだった。全国大会に出場し、陸上で推薦という話まであった。でも跳び続ける日々は、あっけなく終わった。夕方、自転車で買い物へ行く途中、車輪が滑って転んだ。それだけ。それだけで、私は選手として一線に立つことができなくなった。
 日常生活にほとんど支障はない。ただ、種目によっては体育ができない。身体的なハンデに特別配慮してくれるという理由で選んだ高校は確かに居心地が良かった。数が多いわけではないが友人もいるし、走り方がおかしいとからかったりする男子もいない。けれどこの先どう生きていけばいいのかは分からないまま二年が過ぎた。
 我が校の陸上部は、全国までは行かないまでも県大会でそこそこの成績を残しているという話を聞いたことがあった。でも私にできる反応はひとつだった。ふーん、そうか。そうなのか。それだけだった。
 なのに視線を外すことができなかった。思わず窓を開ける。風が通りすぎた。一人の選手が跳んだ。柔らかなフォーム。バーをひらりとかわすような。昔好きだった選手の名前が口をついて出た。荒削りだったけれど、何故か姿が重なった。

 次の日、隣のクラスの知らない男子から呼び出され、一体何の用かと警戒心をむき出しにして向かった先に、跳ぶ男がいた。彼は「陸上部の鴨居だけど」と名乗った後で、かの選手の名前を出した。もしかして好きなのか、と尋ねられて私は昔好きだったのだと答えた。昨日練習中の部員に聞こえるほど大きな声を出した記憶が無かったので、羞恥心が警戒心に取って替わり気付けば火照る首に手を当てていた。
 まさか俺を見て言った訳じゃないよな、と念を押されるような言い方をされて、初めて私は彼の顔をまともに見上げた。あまり印象に残らないタイプの顔立ちだと思ったけれど瞳が好奇心に彩られていて、その深い黒だけは強く刻まれた。目の位置は私より頭ひとつ分高かったけれど、ハイジャンをするのに恵まれた身長かと尋ねられればまあまあと答える程度の身長だ。私はどことは言えないけど少しフォームが似ている、と答えた。彼はまあ目指してるんだから少しは似るのが当然なのか、とやや疑問を含ませた声色で独り言みたいにつぶやいた。
 もっと言ってもいいのなら。そう口にしたら相手の答えも聞かずに続きが滑り出た。
 もっと言ってもいいのなら、踏切の時の体重の落とし方が少し足りないような気がする。あと背中でバーをかわした後は気持ち脚を手前に丸める感じで。背中の柔軟性がもっと欲しいからストレッチをより入念に。ジャンプ力も欲しいから縄跳びとか膝を痛めない程度の強化が必要かな。
 いやごめんいっぺんに言われても覚えられねえわ、と遮られてようやく我に返る有様だった。ちょっと待ってて、と隣のクラスに入り、やがて彼はノートとペンを持ってやってきた。鴨居という男子が隣のクラスだったことすら初めて知る。彼は私に先ほどの言葉を繰り返してくれと頼み、そして私の言葉を一つ一つノートに書き記した。彼は最後、顧問に相談してからメニューに入れてみるわ、助かると言って自分の教室へと戻っていった。
 私は何故彼に呼び出されたのか良く分からないままチャイムの音と共に席へ着いた。

 その日から私は放課後教室で勉強をしながら彼の跳躍を待つようになった。たいていは一時間もすると視界の片隅に分厚いマットが現われる。彼は最初に私が教室の奥から見ていることを確認し、跳躍を始める。私は何度かの跳躍を見て、今一番彼に伝えた方がいいと思うことを見出すと、教室を後にする。次の日、私は二時間目の後の休み時間に教室を出る。行き先は図書館。二度目に彼が教室へ呼びに来たとき、待ち合わせは図書館にして欲しいと告げた。可能な限り男女の仲を疑われない場所がそこしか思い浮かばなかったのだ。彼はまあ俺がワガママ言えるわけがないしそっちに合わせるよと返してきて、だから私たちが情報交換する場所はほとんどが図書館だった。それだって彼氏彼女の関係を疑われる可能性はあったし実際疑われていたらしかったけれど、どうにも彼がそういう方面に疎そうだという印象通りに向こうはまったく気にしていない様子だった。
 私はスポーツ関連の雑誌や記事を読みながら、彼と筆談で会話をした。彼は字を書くこと自体があまり好きではないようで、読みにくい文字をあまり早いとは言えないスピードで書き記した。私に対して字が上手いと筆談で褒めてくれたけれど、私は硬筆でも毛筆でも賞など取ったことがない。
 時々は雑談もしたけれど、書かれる内容の中心は跳躍のことだった。昨日のジャンプがどうだったか。何が足りないか。どこを強化するべきか。何を意識すべきか。何度か私は現役選手じゃないから信じすぎないで欲しいと釘は刺したけれど、彼は顧問と相談するから心配するなと誠実に書いてくれて、だからその誠実にこちらも応えたいと思った。勉強の合間にトレーニングやスポーツ医学に関する本を読みふけってしまったこともある。
 誰かが跳ぶところを見続けることは、苦痛になるのではないかと思っていた時期があった。だから同じ中学の友人から陸上部のマネージャーにと誘われても断った。けれどどうやら私は跳躍という競技そのものが好きなようだと気がついた。彼の跳躍は日に日に変化していった。こっそりと県大会が開催されている陸上競技場へ向かい、彼の姿を観戦する頃には進路も決まっていた。怪我をしたからこそできることもあるかもしれないと信じたい気持ちが芽生えていた。勉強は以前よりずっと意味のあるものに感じられるようになった。
 彼は最後の県大会で、自己ベストの記録を出した。関東大会出場まであと五センチだったというのは後で聞いた話だ。陸上部員の生徒達はもちろん、彼にも気付かれないように行ったつもりだったけれど、「来てただろ」と若干にやけた顔で言われたので自分で思うほどにはあの場に溶け込めていなかったのかもしれない。

 彼が部活を引退して、教室から跳躍を見ることもなくなったけれど、自分ができないなりにスポーツに関われるような道を選ぼうと決めたから、寂しいなどと思っている暇はなかった。まずは受験勉強だったし、何より自分が動けない以上もう一つ別の分野で武器を持っていなければならない。
 彼と筆談する機会もなくなった。私はこれを機に噂を払拭できればなんて考えていたから、積極的に彼へ話しかけようとも思わなかったし、どちらかと言えば避けていたと思う。だから学校近くの図書館前で黒縁眼鏡の男子高生から話しかけられて、その声と見た目のギャップに私は大いに驚いてしまった。彼…鴨居瞬が眼鏡をかけているところを私は見たことがなかった。
「え、何でそんなに驚いてんの?」
「だって、眼鏡」
「ああ、部活引退したから。コンタクトツーウィークの使ってたんだよ。しばらく眼鏡にしとこうと思って」
「意外と似合うのね」
「『意外』は余計だろ」
「はいはい。これから勉強するの?」
「いや、ちょっと雑誌のバックナンバー借りて帰るつもり。鳥羽はこれで帰んの?」
「うん、今帰るところ」
「じゃあちょい待っててくれよ、すぐ借りてくるから」
 そう言い残して彼は図書館に入っていった。本当は名字で呼ばれるのは好きではなくて、だから仲の良い友人には下の名前で呼んで欲しいと頼んでいる。でも、彼に名字を呼ばれるのは嫌ではなかった。その事に気付いて、ああ気付きたくなかったと思ったけれどそういう類の些細な事実はこれまでだってたくさんあった。
 進路を聞かれるたびに、決めた理由を色恋に絡めて答えるのは絶対に嫌だった。たとえば私が彼の事を好きなのだとはっきり自覚してしまえば、この先進路選択の理由を聞かれるだけできっと気恥ずかしい思いをする。私は嘘をつくのがあまり上手ではないから、余計に。それが嫌で、ずっと気持ちの高揚を恋だの何だのの類と理由づけすることを避けてきた。今だってできることなら避けたい。
 しかしこうやって嬉しそうに図書館から出てくる、選手ではない姿の彼を見てしまうと、無理かもしれないと思ってしまう。眼鏡姿というのもよろしくない、などと見当違いな恨み言すら心に浮かぶ。陸上選手とちょっとしたアドバイザーだなんて今は関係なく、同じ高校の生徒同士なのだと思い至ってしまう。
「なあ」
「なあに」
 駅までの道が半分になった辺りで彼は立ち止まり、私は足を止めて彼を振り返った。細い路地は人通りが少ない。一台の軽自動車がゆっくりと通り過ぎてから、彼は口を開いた。
「最初に俺が鳥羽のこと呼び出した時、いきなり知らない男から呼び出されて驚かなかったのか?」
「え、いや、驚いたけど。てゆか私あの時驚いてたでしょ?」
「そうだったか? あんまそう見えなかったな」
「いや、最初は驚いてたよ。でもすぐ鴨居からあの人の名前が出てきたから、それで納得しちゃった部分もあるかな」
 私たちの間で『あの人』はかの選手のことを指す。そのくらい二人で『あの人』のことを話してきた。
「やっぱ俺のことはあの時まで知らなかったんだな」
 彼の言っていることの意味が飲み込めずに私は首を傾げた。
「俺中学ん時はM市に住んでたんだ。鳥羽と同じ。で、やっぱり陸上やってた。ハイジャン。中学ん時は全然跳べなかったけど、試合には出てたから鳥羽のことは知ってた。鳥羽のジャンプも必ず見てた」
「えっ…ええっ、何でそれ言ってくれなかったの?」
 中学の頃ハイジャンをやっていたことは彼に話していたけれど、それ以上のことは言わなかったし彼も尋ねてはこなかった。むしろ知っていたから聞く必要がなかったのだろうか。私自身はどんなに記憶を掘り起こしてもまったく彼の事を思い出せなかった。情けない。
「最初入学したとき、鳥羽見かけてああ同じ高校入ったんだって思った。けど陸上部入部したらいないからさ、直接声かけようかと思って。そしたら、鳥羽と同じ中学の奴から、事故でもう陸上はできないって聞いて、俺ちょっとショック受けてた。一人で。同じ市で全国まで行ってる鳥羽はさ、俺とかまあ他にもいるだろうけどともかく憧れだったんだぜ」
 憧れなどという単語が彼から出ててきて思わず両手で頬を押さえる。いや憧れってたぶんそういう意味では無いから、と自らに言い聞かせながら瞬きを繰り返す。彼の瞳の深い黒から目を逸らせない。
「それでも鳥羽と一回話してみたかった。で、あの時やっと理由が見つかった」
 彼は頬に当てていた私の手を両手でつかみ、私たちは両方の手を繋いでいるような格好になった。
「ありがとな。県大でいい成績出せたの、三分の一くらいは鳥羽のおかげだと思ってる」
 微妙な数値に「三分の一か」と笑ってしまったけれど彼は真面目な顔をしてだって顧問もいるし同じ部の奴らもいるし自分の努力もあるだろ、などとぶつぶつ言っていた。実のところは一瞬キスされるのかなんて期待した自分を笑い飛ばしていた部分もあった。
「私もありがと。鴨居のおかげで、進路真面目に考えられるようになったから」
「やっぱあれだろ、スポーツ系考えてるんだろ?」
「ううーん、私はもう走れないから体育大学は無理。だけど、教える人にならなれるかもしれないと思ってる」
「そっか。教える方か。大学入ったら俺のジャンプも見に来てくれよ」
「いや、それはさすがに…だって別の大学だったら完全に部外者だし」
「部外者じゃなければいいんだろ」
「え、同じ大学に行く確率は低そうだけど」
「そうじゃなくて、彼女なら別に試合とか見に来てても平気だろ」
「ああ、彼女…ってえええ?」
 どこかの漫才みたいな切り返しになってしまったけれど気にしている場合ではなかった。束の間『彼女』の意味すら良く分からなくなる。彼は繋がっていた両方の手を解いて、片手に変えると私を引っ張った。つまり手を繋いで歩きだした。
「言っただろ。ずっと憧れだったんだよ」
「でももう私は跳べないし」
「鳥羽はもし今『あの人』が同じ記録が出せなかったら『あの人』のジャンプを否定するのかよ」
「いやだってあのフォームは記録にも記憶にも残ってるし」
「鳥羽のフォームだって記憶に残ってるよ。俺の」
 返す言葉がない。今もうこの瞬間に彼女なのかとか疑問は色々あったけれど握られた手のひらが熱を持って尋ねる余裕すらない。とにかく進路希望の理由については何かそれなりに別の理由を考えていざという時うろたえないよう頭へ叩き込んでおかなければいけない、それだけははっきりしていた。



(13/04/18)

不必要な告白

 酒が入っていたけれど、前後不覚という訳でも無かった。場所は自宅近くの居酒屋。友人の女性と知り合いの男性、彼ら二人の友人の男性、そして私という四人のメンバー。そこそこに盛り上がって店を出たら昨日まで何の面識もなかったはずの男性が、家まで送ってくれることになっていた。断ることもできたけれど、まあまあの好意的な感情を持つことのできる結構な年上の男性相手に恐れを抱く年齢でもなかった。三十歳を過ぎても、一向に「大人の女性」になった気がしない。しかし図々しすぎて「女子」を名乗ることもできやしない。隣で淡々と好きなミステリー小説を挙げては私に意見を求める「友人の友人」である彼の目は酒の所為かうっすらと潤んでいるようにも見えた。車のヘッドライトを映しては、まばたきによってかき消えていった。「大人の女性」ではないので彼が何を思って私の隣を歩いているかは分からなかった。単に本の話がしたいだけかもしれないとも思った。
 アパートの前で「ありがとうございます」と頭を下げた後、なにやら物足りないという顔をしている彼に「入りますか?」と声をかけたのは、淡々としているのにやたらと良く喋る彼が話し足りないのだろうという同情心に近かった。仕方がない。放っておけない。そういう類の感情だったし、別に押し倒されても構わなかったけれど同時にそれはないのだろうという根拠のない予感もあった。友人の話では独身で仕事のできる男性ということだったけれど、お酒を飲んでも落ち着いていて、ぎらぎらしている様子は皆無だったから。
 根拠の存在しないその予感は、あっという間に裏切られてしまったのだけれど。
 コーヒーが飲みたいという彼の希望を「私が嫌いなのでコーヒーはありません」と一刀両断しカモミールティーを差し出したら予想に反して「これはこれでいいですね」と頷き始め、飲み終わったところでキスをされて、そうしたらお茶の効果はどこへいったのか分からなくなるくらい夢中になってしまった。同い年の彼氏と別れたのは半年前、別に男性を絶やしたくないと思っている訳でもないし、今更恋に飢えているわけでもないはずなのに。深く探れば探るほど体温が上がっていく肌は離れがたく、首筋や耳を口に含むとうろたえたような顔をして天井を仰ぐ彼は年上なのにひどくかわいかった。
 おそらくお互い好きに体をまさぐりあって、繋がっては離れてを繰り返して一晩を過ごた休日の遅い朝。顔を洗って歯を磨いて今日の予定は大丈夫なのかと尋ねたら彼は深刻な顔で「今日は午後車を車検に出すことになっているから、一時には帰らなければならない」と言った。それは仕方がありませんねと受け流しながら彼の求めるがままに新しい歯ブラシ(偶然在庫があった)を差し出し、私は空腹に耐えきれず料理を始めた。材料が不足しているから冷凍しておいたキーマカレーを鍋で温めご飯にのせる。もう一品は解凍した冷凍枝豆と小さく切ったトマトをオリーブオイル塩コショウであえたサラダ。お腹を空かせた子どもかと突っ込みたくなる表情をした彼の前にカレーとサラダを置くと、「君は何者だ」などと大げさなことを言う。ごく普通のアラサーですとしか答えようがない。
 私が洗った皿を慣れた手つきで拭く彼は一見淡々としているけれどおそらく上機嫌だ。たったの一晩で何となく分かるようになったのは大人の女性になりかけている証拠なのかどうか。「夫婦みたいですね」などと言い出す彼に一体どこの乙女かと突っ込みたくなるところをぐっと抑えたけれど、まだまだそれは序の口だった。結果的に。
「俺、実は好きになった女性と性行為に至るのは初めてなんです」
 思わず目を剥いて彼を見上げた。彼は皿を丁寧に拭いている。いつ私を好きになったのかだとか、好きじゃない女性とそういうことになるというのは商売関係なのかとか、尋ねてもいいものか迷っていると「帰りたくないなあ」と隣でぶちぶちつぶやいているのが聞こえた。四十を過ぎた男が乙女。斬新、という言葉が頭を過ぎる。それでも「もう一回しましょう」と真剣に提案されて頷いてしまう私だって大概だ。この先幾度となく要らない告白をされてはそれでも彼の面倒を見てしまうような、気がした。



(13/06/24)

不必要な告白(2)

 スーパーでの買い物の間中『ミステリーのトリックと物語の相関関係』について語り続けている彼の言葉を時折「んー私は話さえ面白ければいいです」と流しつつ、野菜やら豆腐やら魚やら肉やらをカゴへ入れていった。最初はこの人ミステリーについてかなり知識の深い女性じゃないと無理なんじゃないかと思ったこともあったけれど、どうやら深く語り合うことよりただ話を聞いて受け流して欲しいのだと気付いてからは気が楽になった。多くの男性は自分が深く興味のある話を受け流されるとムッとするものだと考えていたのだけれど、彼は全くと言っていいほどに気にしていない。むしろ自分が熱心に語る話を半分受け流されることを面白がっている、喜んでいると思われる節さえあった。もしかしてこの人はマゾヒスティックな傾向があるんじゃなかろうかと疑っているけれど、その傾向を私が好意的に受け取ってしまっているのだから的中したとしてもどうしようもない。
 最初買い出しへ行くとき、家で本を読みながら待っててもらっても構わないと伝えたら、彼は残念そうな顔をして「行きたいんですが」と言った。案外食材にこだわるタイプなのかと思えばそうでもなく、本当にただ一緒に買い出しがしたいだけなようで、いつも積極的にかかわるのは荷物持ちだけだった。
 彼は私が料理をしている間、新聞か雑誌を読んでいる。しかし気付くと料理の経過をじっと見ていたりするので油断はできない。「見られると緊張しますからやめてください」と前に頼んだからあからさまに見ることはなくなったけれど、それでも興味があるのか時々こちらを見る。気付いたときには「みーなーいーでー」と声を上げると慌てて手元に目を戻す。それこそミステリーを読んでいてくれればきっと集中できてしまうのだろうに、料理の間はそれをしない。
 絹ごし豆腐をホイッパーでペースト状にしてパン粉を混ぜ込み、ふやかしてから肉を混ぜる豆腐ハンバーグはひき肉料理の中で唯一失敗がほとんど無いレパートリーだった。豆腐の量と合い挽き肉の量を同量にしてもジューシーでハンバーグらしく出来上がる。みじん切りの玉ねぎはワット数を落とした電子レンジで透明になるまで加熱して冷ましたものを混ぜる。焼き上がったら大根おろしを載せて、ソースはきのこ類を炒めた後醤油とみりんを加えて片栗粉でとろみをつけたもの。冷凍しておいたほうれん草と油揚げの味噌汁をお碗に注ぎ、ご飯を茶碗に盛る。
 彼は私の作るごはんを美味しそうに食べる。美味しいと口にも出す。それだけのことが案外特別なのだとこの歳にして思い知るのは幸せなのか不幸なのか今の私には分からない。好きな小説の中で主人公の女性が「一緒に歳をとってくれる男はあらわれるのかしら」とつぶやくシーンがあるけれど、きっと彼は一緒に歳をとって欲しいと申し出れば「喜んで」と答えてくれるだろうという気がしている。でも口に出すことができない。彼から言って欲しいというわけではなく、この冬場の布団の中のようなぬくぬくとした関係が、男女の関係として「正しい」のかどうかが分からない。
 片付けの時は私が皿を洗い、彼が皿を拭く。私から濡れた皿を渡されるのが「いい」らしい。一体どう「いい」のか私には今ひとつ理解できないけれど、皿を拭く手つきは丁寧で危なげがないので結局は任せている。

 目を覚ますと、灯りを点けたまま二人して眠っていた。片付けの後、シャワーも浴びずにベッドの中に縺れ込んでしまったのだ。行為の後で一時間ほど眠ってしまっただろうか。ぼんやりする頭を片手で押さえて、彼を起こさないようにベッドを抜け出した。彼は朝のシャワーでも構わないようだが、こちらは薄化粧とはいえ外出前にメイクを施している。落としてから寝たい。灯りを間接照明に変え、彼の額にキスをしてからシャワールームへ向かった。
 結局あなたは、私のことをどういう相手だと思っているのかを、知りたい。
 という告白は、今のところこの関係を続けるには不必要だと気付いているから、しない。



(13/07/15)

間違った反応

 終業後の時間、帰宅する同僚たちに「お疲れさまでした」と声をかけながら自動販売機のコーナーへ向かった。温かいお茶を求める間、財布を鞄に収めていると再びの目眩を覚え壁に頭をつける。またか、と思うと同時に人の気配を感じて視線を横に向けると二の腕をつかまれた。驚きに「えっ」と声を上げて腕の主を確認すると、それは同じ職場で別の課に所属している男性だった。デスクの場所が近く、社内のリクリエーションで同じ班になったことがあるから顔と名前は一致するけれど、それ以上のことは良く分からない人だ。
「病院に行った方がいい。顔色が悪い」
 あまりに深刻そうな顔でそう告げられ、今の私はそんなに顔色が悪いのかと思うと同時にそこまで心配される事態でもないことが羞恥心を生む。言葉を発しない私に彼は続けて言った。
「定期的に目眩が起こってるんだから、ちゃんと調べた方がいい」
 彼の発言に私は目を丸くした。定期的に目眩に襲われることを知られている。つまりは、観察されている。同じ課の先輩や後輩にも指摘されたことはないのに。一方の彼は自分の失言に気付いたのか私の腕を放して「いや、偶然、前にも見かけて…」と小さく言い訳しながらも目が泳いでいる。ここで「何この人怖い」くらいの気持ちになるのが女性として普通だろうと思うのに、その様子を見て私は「何この人かわいい」と考えていた。それまで凡庸な印象しかなかった人だけれど、焦った様子がひどく魅力的だった。私の男性の趣味はどうやら世の一般から照らし合わせて間違っているようだ。今まで気がつかなかった事実にやや打ちのめされながら、私はうっすらと耳を染めている彼に「違うんです」と言った。
「あの…私、生理の前になると目眩がするんです。一度病院にも行ったんですけど、体質だって。定期的なものだから、把握して気をつけるようにって、言われてるんです」
 自動販売機のコーナーに人が来ない幸運に感謝しながら小さい声で説明すると、彼は「そうか、すまない、その、余計なことを」とうろたえ、私の告白の内容が内容だったためか頬まで赤く染めていた。自動販売機からお茶を取り出して「よかったら、これからご飯一緒にどうですか?」と誘うと、彼は「あ、是非!」と答えてから声の大きさに自分で驚いたのか手で口を押さえた。笑いそうになりながら表情を抑えて「お茶飲む間少し待ってもらえますか」と尋ねると「もちろん」と今度は通常の音量で返事がきた。私が紙コップのお茶に息を吹きかけ冷ましながら飲みはじめると、横顔を観察されている気配が止まない。時折顔を合わせてみると、目を逸らされた。
 この人に「しかも私目眩の後、欲情する体質なんです」と言ったら果たしてどんな反応をしてくれるだろうと想像しながら、私はお茶を飲み干した。



(13/10/20)

降りかかるのは何の粉か

 学校の最寄り駅、いつも降りる北口とは反対の南口からほど近いその店を見つけたのはほんの偶然のことだった。何しろ駅周辺には高校生が楽しめるような施設がほとんど存在しない。駅から学校へと延びる道の間に、いくつか男子高校生の胃袋を満たす元気なおばちゃんの店が存在する程度。それも仕方がないことで、十分と少し電車に乗ればゲーセンだってメイドカフェだってファストフードだって溢れている大都市へたどり着ける。住宅が並ぶベッドタウンに、たまり場になるような場所が作られるわけもない。
 南口まで足を運ぶことになったのは、学生証を道に落とすという何とも情けない理由から。しかも夏休み明けの始業式早々、先生から軽いお叱りと共に紛失を知らされるというスタートだった。駅から十五分歩く警察署まで時間ギリギリに足を運ぶと、帰りには自己嫌悪と暑さで足取りがかなり重くなっていた。拾ってくれた人には感謝だが、いつ落としたのかまったく心当たりがない自分には舌打ちをしたい。「ああ何か飲みたい自販機でも無いのか」と探しているところで見つけたのが、その店だった。
 木造一軒家の前に「一軒かふぇ」という看板。つまりは古民家を改造したカフェなのだが、だいたいのそういう店が備えている「ハイセンス」さや「お洒落」さがぱっと見その店には欠けていた。何しろ最初に抱いた感想が「田舎のばあちゃんちみたい」。だからこそ金欠の高校生が入ってみるかという気になった、という部分もある。営業時間は十七時からで、どうやら開店したばかりなようだった。
 木の扉を開けると、小さく「こんにちは」という声が響いた。若い女性の声だった。田舎のばあちゃんの声を想像していた身には不意打ちだったのだが、何しろ喉が渇いていたので中に進んでいった。コンクリートの土間部分にカウンターが設置され、椅子は六席のみ。店としては小さく、奥に居住スペースがあるようだった。カウンターの向かいには大きなガラスの格子戸があるがすべてにすだれがかけられていて室内はやや暗く、まだ明るさの残る夕方でも灯りが必要だった。カウンターの両端に間接照明が灯っている。
 カウンターの奥から現われたのは同世代に見える女の子だった。眼鏡をかけているが、銀のフレームが似合っていてなかなか可愛らしく、単純にもどきりとしてしまう。お好きな席へどうぞ、と勧められて一番端の席へ座ると、和紙にプリントアウトされたメニューを渡された。思ったほど高くない、つまり手持ちで払える金額に安堵してアイスコーヒーを注文。グラスに氷が落ちる音や液体が注がれる音が響いた後で、コルクのコースターとアイスコーヒーがカウンターに置かれた。客席側がやや低く仕切りがあるので作業中に向こう側の手元は見えなかったが、グラスが置かれたとき彼女の指を見て、その光景がいつまでも離れなくなってしまった。細く白い綺麗な手なのに、ところどころ赤い発疹ができていた。手際がよい仕事ぶりは慣れを感じさせるし、水仕事をしている以上発心程度は仕方がないのだと考えながらも、その手に浮かぶ赤に違和感を持ち同時に魅力を感じてもいた。アイスコーヒーは苦みと酸味のバランスが良く飲みやすいのに美味しかった。

 以来「美味しいコーヒーが飲みたい」と「彼女に会いたい」気持ちが膨れあがり、また手持ちに余裕があるときは部活帰りにその店に寄っている。幾度か通う内に彼女は打ち解けて世間話をしてくれるようになったが、同時に「ライバル」も現われた。同じ高校でロボット部のエースと呼ばれてそこそこ顔も整い、まあ正直なところを言えばよく知らない上にちょっとむかつくくらいの男子高生。彼の名は梶山といって、同じクラスになったことがないので直接会話をしたことはなかったが、公立高校では異例の活躍をしているらしいロボット部でプログラミングを担当しているという彼は同学年の有名人だった。その梶山とどういうわけか「一軒かふぇ」で顔を合わせる。こちらは美術部が終わり次第まっすぐ立ち寄るためか、向こうの方がたいてい後からやってくる。離れた席に座るのだが、見目がいいので何だか彼女を取られてしまうんじゃないかと意識してしまう。

 学校の廊下で聞き覚えのない「高垣、」という声を聞き振り返ると、そこには梶山がいた。怪訝な顔で対応すると相手も気まずそうに顔を逸らす。ライバルが何の用だと首を傾げながら「何か用?」と尋ねると「あのカフェの、彼女」と言い出した。
「あの女の子が?」
「野球やってる幼馴染みがいるって話、聞いたことある?」
「ああ、あるけど…」
 煮え切らない態度に何となくピンときて「案外臆病なもんなんだな」と腕を組んでしまった。
「今度、写真見せてもらったら? たぶん心配してるような関係じゃないよ」
 敵に塩を送るのは柄でもないが、彼とでは彼女に対する感情の種類が違う。それは理解している。彼女には「いつかモデルになってもらいたい」だとか「あの指をそっと撫でてからデッサンさせてもらいたい」という気持ちはあるけれど、それ以上ではない。

 珍しく先に座っている梶山の隣に座ってやると、身を固くしているのが分かった。対する彼女は何故か嬉しそうな笑みを浮かべている。コーヒーが出てきたところで彼女に「幼馴染みの写真、もう一回見せてもらえる?」と頼むと嬉しそうに一枚の写真立てを持って来てくれた。
 日に焼けた肌、引き締まった顔立ち、短く切りそろえられて、でも女性らしい顔立ち。彼女自慢の幼馴染みは女子高生でプロ野球選手を目指している。今は東北の学校で寮生活を送っているらしい。身体が弱く外へ出ることも学校へ行くこともままならなかった彼女の数少ない友人。
 別の客が入り彼女が対応しているタイミングで、「ほら、女の子」と梶山に写真を指さしてやると彼はやけに複雑そうな顔をしている。何をためらっているのか知らないが、これ以上塩を送る必要もないと肩をすくめてコーヒーを飲んでいると、ドリップのコーヒーを淹れながら彼女が「付き合い始めたの?」などと聞いてくるから目を見開いてしまう。
「誰と誰が?」
 素っ頓狂な声を出してしまったが、彼女は余計に嬉しそうな顔をする。
「そこのお隣の二人」
「いやいや、まさか」
 即時に否定するが彼女は笑顔を引っ込めない。隣を見るとうつむいて耳を赤くしている梶山がいる。さっさと否定しろよ勘違いされてどうするよ、とスカートの裾を握りながら心で叫んでみるが彼は何も言わなかった。

 溜息をつきたい気持ちで店を出て駅へ向かうと、後ろから「高垣、」と声をかけられた。振り向き、睨み付けてやる。
「あんたねえ、彼女に勘違いされてどうするのよ。もうちょっとちゃんと否定しなさいよ」
 梶山は早歩きで追いついてくると目の前で足を止め、それから息を飲み込んで、口を開いた。
「勘違いじゃないよ、俺の方の気持ちは」
 彼の発言が理解できるまで少しの時間を要した。そして「私とあんたほとんど話したこと無いと思うんだけど」と言おうとして口をつぐんだ。彼女と会話している間、静かな店内で彼が時折こちらを窺うようにしていた光景。彼女を気にしているとばかり思っていたけれど、同時にこちらのことも知られていた、ということだ。こちらはあまり梶山のことを知らないが、ライバルと認める程度に仕草や発言は悪くなかった。突き放せばいいのに、彼の真剣な眼差しがこちらを混乱させる。
 突然降りかかってきた「当事者」へ、どうにも対応できそうにない。



(14/08/03)

切れ端の感情

 高校の二年に上がると同時にキャリア教育と呼ばれる授業が始まり、手始めにとさせられたのが両親もしくは親戚の職業について聞き込みを行い一枚にまとめる、というものだった。小学校や中学校じゃあるまいしまさかこんなものを貼り出されたりはしないだろうと高をくくって提出したため、後日それが他の生徒の参考にもなるようにと掲示されていたときには驚いた。だがよく確認すれば枚数は限られており、選ばれた生徒のものだけが貼り出されていると分かって胸をなでおろした。
 枚数を確認する際に目に入った一枚に読み入ってしまったのは、偶然読み取った職業名からだった。燃えさかる火の中へ、父の名前を呼びながら飛び込もうとした母を全力で止めた人々を表す名詞だ。以後母親は「助けられなくてもいっそあの人と一緒に逝ければよかった」と「いいえ息子のあなたが生きていてくれたのだから頑張るわ」という二つの言葉の間で揺れ動き続けている。彼女と暮らす日々に、親不孝にも慢性的な疲れを感じている自分にとって、あまりに正しすぎる職業をその一枚は詳細に表していた。
 件の一枚を書き上げた人物は、それまで会話を交わしたこともない同じクラスの女子生徒だった。正しくまとめあげられた一枚を読んで以来、不本意ながらも彼女の名前は脳内の片隅に居座り続けた。やはり彼女も約十七年間を正しく生きてきたのだと感じる程度には、無意識に観察を重ねてしまった。積極的に話しかけたわけではない、黒縁の眼鏡をかけ根暗と称され実際に根暗な自分が接していいタイプの女子生徒ではなかった。本来ならば。
 だから放課後図書館で勉強中、彼女がわざわざ隣に座ってきた時必要以上に意識せざるをえなかった。しばらくして彼女がノートの端に「わたしと付き合ってください」と書いて見せてきたときには二度、三度とその文字を確認した。彼女がテキストをなぞるふりをして自分の手の動きに注視している間、ただただ混乱していた。ろくに話をしたこともない。彼女はクラスで目立つ女子生徒という訳ではないが、かわいらしく清潔で何より正しい女の子だった。自分とは違う場所で生きてきた人だ。そんなことをさせられるタイプではないはずだが、罰ゲームでやらされているとしか思えない。
 短期間で出せた結論はその程度で、自分はノートの端に「恋とかそういうのはよくわからない、体目的でいいなら付き合う」と素早く書き上げ、すぐに文字を消しゴムで消した。彼女はしばらく体を固まらせ、やがて手早くテキストやノートを鞄へ押し込み図書館を出て行った。クラスの女子生徒とあまり会話をしない自分にとってみれば、これに懲りてもう二度と馬鹿な罰ゲームは行われないといい、という平和的な発想しか浮かんでこない。自分が女子生徒の間で「キモい」やら「ひどい男」やら噂されるなんてことは今さらだった。むしろ男子生徒には同情されるだろうと思った。
 図書館の終了時刻後、校門を出ようとした自分の目の前に現れた彼女に「一緒に帰ってもいい?」と尋ねられ、再び混乱した。彼女の歩調に合わせ、常よりも遅い足取りで駅への道へ向かうが、半ばを過ぎるまで彼女は口を開かずこちらも口を開くことができずにいた。
「それでもいいから、付き合って欲しいの」
 突然かけられた言葉は、ノートの端に書いた言葉の返事だった。
「嘘だろ、やめておけよ」
 反射で出た言葉は、制止だった。本来彼女の側にいる人がするであろう行為を、自分がしていることに皮肉を感じた。
「覚悟したから、大丈夫」
 まっすぐに見つめられて、まさか自分の出した条件を反故にするわけにはいかなくなった。

 女の子の体はどこもかしこもやわらかく、終わった後のぐったりとした様子を眺めているのも楽しく、経験やら免疫やらがない自分には強すぎる刺激だった。痛がらせれば彼女の体は強張ってしまうから、優しく扱う努力をした。
「キミは男の子だから、相手がどんな女の子でも構わないんだよね」
 飽きず眺めていたいと思う気怠そうな彼女が、ふとこちらをまっすぐに見ながらそう尋ねてきた。
「いや、誰でもいい訳じゃない。ある程度好みというものはある」
「でも私はキミだからこんなに嬉しくて欲しいと思うのに、キミは私じゃなくても大丈夫なんだよね」
 なんて正しい発想なのだろうと感心している間に、彼女がしがみ付いてきた。やわらかな体にこちらが反応してしまいそうだったが、それ以上に悲しむ彼女がかわいらしく、気づいたら頭や背中を撫でていた。これが「情」というものなのか、まだ自分には分からない。


(15/06/21)

切れ端の感情(2)

 高校の二年に上がると同時に一人一役と割り振られた私の係は「文化祭の会計」。どちらかといえば定期的にこなす作業が得意な私には、不向きと思われる仕事だった。夏休みの終わりからたまり始めた領収書を、整理するところまでは綺麗にこなしていけたが、収入がうまく見込めなかったこともあり、出し物は最終的に赤字に終わった。クラス全員からの集金を終え落ち込んでいる私に追い打ちをかけるように、出納簿と会計報告の提出期限が迫る。提出前クラスの誰かにチェックをしてもらわなければならないという条件をクリアするため、昼食を食べながら周囲に「誰かお願い」と頼んでみるも皆一様に「チェックなんて自信ない」という返事。とりあえずセルフチェックだけでも進めなければと部活がない日の放課後、電卓の数字とにらめっこしている私の横に立った彼は「それ、見るだけならやってもいいけど」と言った。
 彼はクラスの中で密かに「ガリベン」と呼ばれている男の子だった。私はそれまでガリガリ勉強をするというのがどういうことか理解できていなかったけれど、彼こそがまさしくそうなのだと思うくらい、その呼称は彼にしっくりと寄り添っていた。彼が勉強以外に興味を示さない理由として、父親を亡くしていて奨学金が必要だ、という話はその頃すでに私の耳に入っていた。きっとこの男の子はしっかりしているのだというイメージは強く、その時の私はただ頼りになるクラスメイトが現れたと感動し、お願いしますと頭を下げて会計簿を差し出した。
 次の日に戻ってきた会計簿は付箋紙とメモに溢れていて、内容の的確さと分かりやすさに彼は本当に同じ高校生なのかと疑いそうになった。彼の協力によりどうにかこうにか会計の仕事を乗り切った私は、彼を意識するようになった。彼は目立たない存在だった。まず口を開くことが少ない。休み時間には時々同じクラスの男子生徒に話しかけられて勉強の話をしているけれど、女子生徒と会話をすることはまれだったし、笑っているところもあまり見ない。会計簿の件以来、話しかけられることもなかったし、私も機会がつかめず話しかけられなかった。かっこいいとか背が高いとか運動ができるとかそういうタイプの男の子ではなかった。もしかしたら眼鏡をはずせば印象が変わるかもと思うものの想像でしかない。それでも、教室で無意識に彼の姿を探してしまう。
 やがて私は、年頃の女子高生らしく結論を出した。私は、恋をしている。

 彼は放課後図書館へ移動して勉強をしている。その事実をつかむのは簡単だったけれど、会話のチャンスをつかむことは難しかった。打開策を見いだせない私がとった行動は、かなりの強硬手段。図書館で隣の席に座り、勉強しているふりをして自分のノートに「わたしと付き合ってください」と書いて彼に見せる、というものだった。私の書いた文字を見た彼は、目を見開いて驚いていた。それから、困惑の表情。やがて彼の手が伸び、私のノートにさらさらと文字を書いた。「恋とかそういうのはよくわからない、体目的でいいなら付き合う」という言葉を理解すると同時に、文字は彼によって消された。証拠が隠滅される。彼の意図が分からなかった。迷惑に思われているなら、普通に断ればいいはずだ。回りくどい方法を好むようには思えない。私は立ち上がり、荷物をまとめて図書館を出た。
 階段を駆け上がり、屋上の踊り場で泣いた。少なくとも、私が向けるものと同じだけの好意を向けられていないことは理解できたからだ。しばらく泣いた後で「体目的でいいなら」という言葉について考えた。漫画や小説やドラマの中で、女性たちが苦しむ原因になっている類の言葉。平凡に成長した自分に降りかかってきた、初めての土砂降り。自覚すると同時にわきあがったのは、好奇心だった。体目的の男の子は、そうする時に抱きしめてはくれないのだろうか、キスはしてくれるのだろうか、終わった後で背中を向けてしまうのは本当なのだろうか。
 涙を拭いてトイレで鏡を確認し、それほど目が赤くなっていないことに安堵した。私は図書館が閉館する時間まで教室で本を読んで過ごし、昇降口を出た。少し遅かったのか、彼はすでに校門を出る手前だった。小走りに追い付き、一緒に帰ってもいいかを尋ねる。彼は眉をひそめながらも「別に、いいけど」と答えた。
 私が意を決して「それでもいいから、付き合って欲しいの」と申し出ると、彼は「嘘だろ、やめておけよ」と返事をした。条件を出した彼が止めるだなんて不自然だと思ったけれど、「覚悟したから、大丈夫」と言えばそれ以上彼からの制止は無かった。

 分かったことがある。体目的だったとしても、抱きしめてくれたりキスをしてくれたり終わった後でも背中を向けず、こちらをずっと観察している男の子は存在するということだ。全員かどうかは分からないけれど。
 私は案外好奇心が旺盛なようだった。どうして口にしてしまったのだろう。
「お父さんは、火事で亡くなったの?」
 彼は抑揚のない声で「ああ、そうだよ」と答えた。ぽっかりと穴が開いたような目をしていた。眼鏡を外した時の彼は私と同じ歳なのだと実感できるくらいには少し幼く見えたけれど、そのいくらかの幼さすら一片も残っていない。終わった後で私を眺めている時の目とあまりにも違う。私はそれ以上の会話を続けることもできず、体にかかるタオルケットを握りしめた。
 もう一つ分かったことがある。恋をしている相手を、同時に怖れることができるとういことだ。


(15/08/24)

切れ端の感情(3)

 私だけ好きなのはやっぱり辛いよ、という言葉を残して去って行った彼女は一年後、泣きそうな表情でバイト先のコンビニエンスストアに現れた。ペットボトルの水と共に「友達に、ここでバイトしてるって聞いたことがあったから」という言葉を差し出されて、偶然という可能性は消え去った。彼女は彼女の意思でここに来たのだと悟る。バイトの終わる時間を尋ねられ、その日は深夜のシフトであることを説明し、早く帰れと告げたが、彼女は首を横に振った。ちらりと店舗の奥を見てオーナーがまだ休んでいることを確認、店内と店の前に人の気配が無いことも確認。そうして仕方なくポケットの中のカギを出し、彼女の携帯を借りて住所を打ち込んだ。一人暮らしをしているアパートの一室の在り処。
 日に日に自分が父親に似てくると口にして不安定な精神を大きく揺らし続けた母親は、田舎の祖父母の元へ帰っていった。それでもまだ母に帰る場所があるだけマシな方だ。いくらかでも仕送りがあるだけマシな方だ。経済的にはぎりぎりだったが、一人の暮らしは心がいくらか休まった。ただし、ひっきりなしに入るバイトに追い立てられる生活ではあったが。
 オーナーが姿を現したら早めに切り上げたいと頼むつもりだったが、結局時間まで彼が姿を現すことはなかった。オーナーも疲れているのだろう。店内の仕事は完璧で尊敬できるが、店の人手不足を解消するところまで頭を回す余裕が無いようだった。頼りにされているのが分かっているのでシフトの打診を断れない。結果深夜のシフトは増え、昼夜逆転の生活が出来上がりつつあった。収入が増えるのは嬉しいが、専門学校での授業にやや支障が出ており、何とかしなければという気持ちもある。だが禁止されている食料の融通をきかせてくれる店長に感謝の気持ちもあり、睡眠不足に出口が無い。
 そういう状況で現れた彼女は、悪いとは感じつつ面倒としか思えなかった。しかし現金なもので、部屋にたどり着き灯りのついている窓を見て、ほっとしている自分がいた。心配などするつもりは無かったはずだが、安心しているという事実は変えられない。あの頃から心配せざるをえない何かを彼女は持っていた。チャイムを鳴らすと、鍵とチェーンの開く音がして彼女が姿を現した。潤んだ瞳に、たぶん自分と同じくほっとした顔。その瞬間またこの女の子から逃れられなくなる予感がした。
 扉を閉じて鍵をかけると、部屋の中には絞ったボリュームで音楽が流れていた。スピーカーは処分品として店先に出されていて気まぐれで買ったものだ。携帯を無線でつないだのだろう、穏やかな女性のヴォーカル。このところ音楽を聴く余裕などなかった為、ひどく新鮮な心地がした。何か話そうとしては口を閉じる彼女に、疲れているから仮眠を取ってから話を聞く、と声をかけるとまたほっとした顔をした。あらかた両親と喧嘩でもしたのだろう。彼女は絵に描いたように健全な女の子だった。男の趣味を除いて。
 いつも自分が使っている布団を敷いてから、以前キャンプ好きの友人が勝手に置いて行ったシュラフを出す。こんなことで役に立つとは人生何が起こるか分からない。布団で寝ていてくれ、と言い残してシャワーを浴びて出ると、今度はシュラフが見当たらない。仕舞ったわ、と彼女が当然のように言う。一緒に寝よう、と見上げてくる瞳が、柔らかな肌の記憶をよみがえらせる。
 結局、帰る途中別のコンビニで買った道具の封を切って肌を合わせた。恋情にしては薄汚れている、愛情ほど高尚ではない、友情にしては色が付きすぎている、醜さを伴ったこの情は一体何なのか。考えるには疲れすぎていた。



(16/06/12)

切れ端の感情(4)

 見た目だけなら一分も違わぬワンルームマンションが二棟並んだうちの一つ、一階の一番奥が彼の部屋だ。目の前に広がるのは病院の駐車場で、人目にさらされているものの日当たりが良い。ハンガーに掛けられて部屋干しされていた洗濯物をベランダへ出し、フローリングに敷きっぱなしになっている布団を干した。片手では数えられない程度、二人で共有している綿の塊だ。できるだけ心地のいいものにしておきたい。
 休前日、彼は深夜バイトに勤しんでいる。今日は土曜日。部屋の前で待たれるのは困る、と眉を寄せた表情で差し出された合鍵を有効活用させてもらう。世の中の大人にしてみればおままごとなのだろう。たぶん彼にとっても。でもおままごとで構わなかった。
 喫茶店のホールスタッフと説明していたアルバイトが、実はメイド喫茶だったことが判明して親と喧嘩した日、頭に思い浮かんだのは別れた片思いの相手だった。私の片想いなのに、彼は私の体だけでなく私が持ち込む面倒事ですら拒まず受け入れる。案の定その日彼は私を部屋に泊まらせた。彼がただの体目的だと割り切った男の子なら、私はきっともっと簡単に彼のことなど忘れられたはずだ。
 メイド喫茶のアルバイトは続けている。イギリスヴィクトリア朝時代のパーラーメイドの仕事をできる範囲で再現した店で、スカート丈を含め一般的なメイド喫茶とは違う店だ。ただし、私の熱弁が両親に通用したわけではない。結局は粘り勝ちだったのだと思う。今では諦め気味の親より彼の方が反対している。『ファンにストーカー行為されたらどうするんだ』という理屈には『どんな職業だってストーカー行為に遭う可能性はある』と返しているが、遭う確率が違うと複雑な顔をされる。最後の手段は『じゃあ彼氏として親に紹介させてくれるの?』という言葉だ。脈絡がない上狡いやり方なのは理解している。後ろめたい顔をさせたい訳じゃない。ただこの部屋をある程度快適にするためにもお金は必要なのだ。紅茶の知識にはじまり英国十九世紀当時のものとはいえ礼儀作法まで身について、人間関係も良好、アルバイトとして今後現在以上の環境に出会える確率は低いだろう。
 『容姿を上手く利用してるよね』と大学で何度かすれ違いざまにかけられた嫌味に、苛立ちを抑えられない時期もあったけれど、アルバイトのおかげで開き直れるようになった。完全とは言えなくともパーラーメイドの再現なのだ、容姿を利用しなくてどうする。肌を守るためにも質のいい化粧は欠かせない。結果やっぱりお金が必要だった。もちろんヴィクトリア朝時代に詳しい客から『どこがパーラーメイドだよ』という苦情を受けることはあるけれど、お金と環境のためなら聞き流せる。
 冷蔵庫を開き、ここへ来る途中スーパーで買ってきたハムときゅうりと玉子を取り出す。きゅうりは千切りにする。スーパーの中のベーカリーで買ってきたクロワッサンを開いてトースターに並べる。玉子を溶いて塩コショウを振り入れて混ぜ、フライパンにバターを溶かしてスクランブルエッグを作る。温めたクロワッサンにハムときゅうりを並べ、さらにスクランブルエッグを載せサンドイッチにする。牛乳をコップに注ぐと部屋の主が戻ってきた。
 幾度となく「もうやめたほうがいい」と私に向かって別れの類の言葉をほのめかしてくる彼でも、「おかえりなさい」と声をかけた瞬間はどこか嬉しそうに表情を緩め「ただいま」と言う。エプロンはスカイブルーの生地に、チェック柄のポケット。シンプルなデザインだけれど、どうやら彼はこれを身につけた私の姿を気に入っている様子だった。容姿は利用させてもらう。私自身が彼の容姿ではなくもっと別の形容しがたい部分に惹かれている点と比較すると、少し悔しいけれど。
 『母親』と『火事』という二つの言葉をきっかけに全ての表情を失ってしまう彼を恐れる気持ちはあるし、彼から心を開かれる立場になれるとも思えない。それでも私が持ち込む面倒事を拒絶されるまでは、この部屋に通うつもりでいる。



(17/01/04)

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