てさぐりくらべ(後日談)




 『あけましておめでとう』しか送られてこなかったアドレスから、突然『今すぐ来い』という文章が送られてくれば誰でも驚くのではないだろうか。携帯電話の画面を眺めながら香苗はそう考えていた。送り主は窪井摂。卒業式以来、三回新年にメールが送られてきただけで一度も会っていない先輩は、相変わらず私的なコミュニケーションにぶっきらぼうな言葉を使っているらしかった。

 香苗が高校二年に進級してすぐ、二人の一年生が新聞部の戸を叩いた。一人は女子大生である小平叶の近所に住んでおり、彼女を憧れの女性と公言する幅野雪枝はばのゆきえ。もう一人は常にコンパクトデジカメを持ち歩き誰かの後ろ姿ばかりを撮影しているやや変わり者の浅木政親あさぎまさちか。部長である窪井は、それまで香苗以外の新入部員を認めなかったことが嘘のようにあっけなく彼らを迎え入れた。そして窪井と結城は彼らに厳しく接して新聞という形ができるようになるまで教え込むと、夏休みに入る頃には引退宣言をしてしまった。
 引退以降も結城は時折部室に顔を出し、受験勉強をしている姿を見る事もあったが、幅野を苦手としている窪井はほとんど姿を見せなかった。幅野は見た目小平に匹敵すると言えるほどに美人だったが、口を開くと止まらないタイプで、「俺は駄目だあいつとは話が噛み合わない」と愚痴る窪井を香苗は何度かなだめた事があった。同時にあの人は口が悪すぎますと泣きついてくる幅野をなだめるのも香苗の役目だった。それでも必要な事はきちんと伝えた窪井とそれを飲み込んだ幅野は、新聞部員として優秀だと香苗は思ったものだった。
 卒業式の日、窪井と結城は二人揃って部室に姿を見せ、香苗に「二人からの礼だ」と封筒を押しつけて去っていった。後輩二人は中身に興味津々という様子だったが、香苗は誰にも見せずに自宅の部屋でそれを開いた。中にはワイシャツのボタンが二つと、「二人分の第二ボタンだ」という殴り書きのようなメモが入っていた。
「二人とも、馬鹿ですか」
 部室では笑って送り出した香苗だったが、そのメモを見た瞬間、泣いてしまった。
 ボタンは、今でもアクセサリーケースの中に入っている。

 指定された場所は高校の近くの居酒屋だった。誕生日を迎えていて良かった、と二十歳になったばかりの香苗は口の中でつぶやいた。突然夕飯はいらないなんてメールをすれば母親が後で怒るのは目に見えていたが、飲み会の日を勘違いしていたという言い訳を添えて送ることにした。焼け石に水、という言葉が頭の中に浮かんだが、突然呼び出された先輩に何を言われるのかという不安と期待に掻き消されていった。



 記憶の中にあるのは制服姿だけだからなのか、現れた名取はやたらと大人びて見えた。元々浮ついたところのない後輩だったが、この年齢の女性にとって三年の月日は大きいってことだろうな、と里志は考えていた。素直に綺麗になったな、と思う。ただ目の前で分かりやすく顔つきを変えてしまう同級生のように表には出さないよう気をつけた。
 卒業式以来、つまりは三年間会っていなかった彼女をここに呼び出したのは一緒に飲んでいる窪井で、しかも酔った勢いだった。その窪井は自分の隣に名取を座らせ、勝手にカシスオレンジを注文している。おそらく名取が購買でオレンジジュースの紙パックを良く買っている姿を思い出したのだろう。
「名取、聞け。里志のヤツ、小平先輩と同じ大学に通ってたんだ。先輩はもう就職してるけど」
「窪井先輩、いくら私でもそれは知ってます」
「そうか。それでな、コイツ小平先輩と付き合ってるらしいんだよ、信じられるか?」
「…ええ、と、身長的にはお似合いだと思います」
「そんなことどうでもいい。何で名取驚かねーの?」
「いえ、むしろ窪井先輩が何でそんなに驚いてるんですか?」
「小平先輩はな、そういう対象じゃねーんだよ」
「それは窪井先輩にとってじゃないですか」
「お前相変わらず冷てーな」
「もしかして窪井先輩私を突然呼び出した理由ってそれですか? 冷たいとかそういうこと以前に自分の行動振り返ってくださいよ」
「冷たい。里志後輩が冷たいぞ何か言ってくれ」
 酔っぱらうと窪井は本音が出る。普段がっちりと固めている心のガードが、少し緩まると表現すればいいのか。それを里志が知ったのは、二十歳を過ぎて二人で酒を飲むようになってからだった。ザルと周囲に言われる里志は、それでも二人のやり取りに笑いを抑えられなかった。里志は飲むと笑い上戸になる。店員の持って来たカシスオレンジを文句も言わずに飲む名取にやっぱオレンジ好きなんだな、と考えながら里志は口を開いた。
「名取、摂は突然名取に会いたくなったんだよ。俺ののろけが嫌になって」
「黙れ里志」
「摂、三ヶ月前まではお前の方が彼女持ちだっただろ? 逆転だな」
「窪井先輩、彼女居たんですか?」
「そうそう、大学入学してから取っ替え引っ替え。続かない続かない」
「うわー…」
 名取が『駄目な先輩』と言わんばかりの表情で窪井を見る。すると里志の足が強く踏まれた。
「痛っ…摂いくら酔っぱらってても暴力反対。名取、摂の足押さえてて」
「えっ結城先輩何言ってるんですかそんなこと出来ません」
 焦る様子の名取にこっちも酔うと本音が出るタイプだな、と里志は頭の片隅で考えていた。純粋に酔っぱらえない事は楽しさを半減させると語る先輩も居るが、里志はこの場で冷静な思考が残っているからこそ楽しめると思う。
 二人で飲む時には今度から名取も呼ぼう、里志はこっそりとそう決めた。



 酔っていつものように頭が回転してくれない。『来い』などというメールを突然後輩に送ってしまった事を摂は後悔していた。結城から「小平先輩と付き合いだした」と打ち明けられて、高校の頃のあの部室が、あの場所で抱いていた新聞という存在への執着が、二人の「かなえ」に対する複雑な気持ちが、突然頭の中によみがえった。しかしそれらは風のように心の中を通り過ぎていき、摂は何かしなければ気が済まないという状況に陥った。その結果が突然後輩へ呼び出しのメールを送る、という行動だった。
 現れた後輩は綺麗になっていたし、あの頃より手強い大人の女性になっていた。楽しかったし、会えて嬉しかったという気持ちはあるが、酔って迷惑をかけるという自分らしからぬ行為に落ち込んでもいた。
 駅で路線の違う彼女を改札前から見送り手を振った。名取は一度だけ振り返った後、階段の向こうへ見えなくなった。すると、結城が突然摂の背中を押した。
「摂、俺はまたお前と飲む時名取を呼ぶつもりだけどさ、お前はどうする?」
「どうするって何だよ、異論はないけど?」
「話が違うんだよ。お前はお前で個別に約束取り付けなくていいわけ?」
「何で俺が名取と個別に…」
 言いながら声が小さくなっていったのは、反論の材料が少ないと気付いたからだった。
「つまり、お詫びしとけって言いたいのか?」
「まあそれもあるけどな。お前珍しく分かりやすかったよ摂。名取を見る目が明らかに他と違ってたぞ。カシスオレンジ持って来た店員さんが美人だったとか覚えてないだろ」
「そんなの覚えてんのはお前だけだ。そして俺はお前に背中を押されるのが超絶悔しい」
「くだらんやり取りしてる間に電車行っちまうぞ?」
 摂は「ちくしょう」とつぶやきながら改札へと歩きだし、結城に「ありがとな」と後ろ姿で言い捨てて定期入れを自動改札へ押しつけた。短い電子音が鳴ると同時にもう一度背中を押された気がして、摂はホームへ向かって走り出した。



(後日談 終了)



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