体温中毒(2)




 昔読んだミステリー小説に、婚約者に対して口付け以上の手を出さない男性が出てきたな、と倉沢の唇を柔らかく噛みながら葉常は思い出していた。『待てないかもしれない』と言った日、倉沢は葉常の唇に自分のものを静かに押し付け、葉常はそれを受け入れ十倍ほどにして返した。
 最初の頃の倉沢は非常にぎこちない仕草で葉常の口付けに応えていたが、最近では慣れたのか葉常がもっととせがんでも困った表情をしなくなった。今葉常は椅子に座る倉沢の上に跨ってしがみ付き、ついでに耳朶を噛んでいる。
 倉沢は食事の後で、仕事関連の調べものを済ませなければならないからここで送りますと謝ったが、葉常は終わるまで待つと言い張った。そうして葉常は彼の自宅へ上がり込み、倉沢が自宅のパソコンの前に釘付けになっている間、途中で購入した小説を読んで待っていた。やがて「終わりましたよ」という言葉をかけられた葉常は椅子に座ったままの倉沢にしがみ付き、今に至る。
 件の小説の男は、真面目な考え方の人間に見せかけて、実は婚約者の姉と心も体も愛し合っていた。婚約者である女は、過去その姉に自分の殺人の罪を着せていた。男を先に愛したのは姉で、復讐の意図はなかった。
 自分に姉も妹も居ないが、兄はいるな、と自分が噛んでいた倉沢の耳の形を観察しながら葉常は考える。倉沢の耳は肌の色と同じく白く、比較的大きかった。窪みを指でなぞると、倉沢はくすぐったそうに身を捩った。
「葉常さんは、僕の体の不思議な場所が好きですね」
「そうですか?」
 好きになった男の観察は飽きないものだと以前から思っていた葉常は、首をかしげた。
「そうですよ」
 倉沢は突然葉常の頭を引き寄せると、珍しく自分から唇を求めてきた。件の男は果たしてカラダの一部に変化があっただろうかと考えた葉常は、答えはノーだろう、という結論を一人勝手に出した。唇に当たる柔らかい感触と、太腿の辺りに当たるものが、もどかしい。いっそシャツを引き千切ってやろうかしらとすら思ったが、倉沢が顔を離して口を開いたので葉常はそれを思い留まった。
「本当は、もっと、きちんとしたデートの時に、渡したかったんですが」
 倉沢は葉常を乗せたまま椅子を少し回転させると、机の上の引き出しから小さな箱を取り出した。いくら装飾品に疎い葉常でも、それが指輪のケースであろうということくらいは分かった。
「婚約指輪です。受け取ってもらえますか?」
 倉沢の手から受け取り、葉常が箱を開けると、そこにはシンプルな銀のリングがあった。目を瞬かせて倉沢を見詰める葉常に、彼は困ったような表情で下を向いた。
「サイズが良く分からなかったんですが、店に持って行けば調節してもらえるそうですから。それとも、やっぱり早すぎましたか?」
 葉常は首を横に振ってから、思い描いていた疑問を口にした。
「倉沢さんの分は、ないんですか?」
「婚約指輪ですから。結婚指輪なら、僕の分も必要ですが」
「婚約指輪と結婚指輪は、違うんですか?」
「本当なら葉常さんのほうが詳しいはずだと思うんですが」
「だって、あまり興味がないんです」
 からかうような笑みを見せる倉沢は珍しく、葉常は直視できずに首筋に顔を当てた。
「興味がないから、いらないですか?」
「倉沢さんの分もお揃いで買いましょう。これを結婚指輪にすればいいんです」
 すると倉沢は声を立てて笑った。本気で言ったのにと葉常が眉を寄せ彼を睨みつけると、「怖い顔をしないでください」と頭に手を当てて彼女を宥めた。
「僕はほら、以前の経験の時に色々調べたんですよ。でも、あの指輪、やっと捨てられそうです。今度本物を買いましょう」
 嬉しくないわけはなかったが、けれど葉常の中には指輪というカタチを素直に受け入れきれない気持ちがあった。指輪に翻弄されてきた自分自身と、指輪を女避けの道具にしていた倉沢。葉常は、二人の関係においてはそんなもののために倉沢の何かを割いて欲しくなかった。
「捨てるだなんてもったいないですよ。もしそれも二つ揃っているなら、使い回せばいいんです」
「本当に、興味がないんですね」
「倉沢さんの体温さえあれば、私はそれでいいんです」
 そういえば件の小説の男も指輪はちゃんと贈っていたな、と思い出してから、葉常はもう一度倉沢にしがみ付いた。



(Fin)



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