ビルの合間の空(1)





 地下鉄銀座駅の改札をくぐり、地上に出たのは、久しぶりだった。ビルの合間に見える空は、相変わらず無機質な印象だった。

 麻柚夏まゆかは長年使っていたビジネスバックのファスナーが壊れてしまったため、同じメーカーの直営店がある銀座へ探しに来た。背の高いガラス張りのブランドショップが並ぶ大通りを通り過ぎ、細い脇道へと入ると、以前と同じ場所に直営店がある事に安堵した。
 店は幾分か模様替えされていたものの落ち着いた雰囲気は変わらず、麻柚夏は無事に壊れた鞄の後継にあたるデザインのものを見つけることができた。値段を確認すると、思っていたより少し高い金額が店員の口から提示された。表通りのショーウインドーに飾られているバックの十分の一程度の金額とはいえ、転職し収入の減った麻柚夏には痛い金額だった。少し考えた末、もとより三年以上使うつもりでいた麻柚夏は結局その場で購入を決めた。機能的で、丈夫で、それでいて女性が持っていてもそれほど違和感を与えないデザインのバックというものは数が少ない。世の中のデパートに溢れている鞄は、機能性を無視しているとしか思えない女性向けのデザインバックと、デザイン性を無視しているとしか思えない男性向けのビジネスバック、そのどちらかばかりで、麻柚夏の求めている鞄は到底自宅の周辺では見つからない。
 麻柚夏は紙袋を抱えて再び大通りに戻り輸入盤のCDを扱う店に入った。メモを取り出して探すと、目的のものはすぐに見つかった。手にとってレジでの支払いを済ませ、振り返ると、目の前に人がいた。驚いて目を瞬かせ麻柚夏が顔を上げると、そこには、男性が立っていた。少しだけ視線を上げた位置にあるその顔は、以前彼女が溺れた男の顔だった。
 日頃冷静を心がけている麻柚夏ではあったが、困惑の表情を隠しきれていないという自覚があった。相手は、苦笑した。
「そんな顔、されるほどのことをしたんだなあ。久しぶりだから、自覚が薄かったよ」
「…お久しぶりです」
 相手に感情を乱されたということの悔しさに、麻柚夏は努めて滑らかな言葉を紡いだ。
「うん、久しぶりだな」
「じゃあ」
 そのまま彼を避けて通り出口に向かう麻柚夏は、腕をとられて身を堅くした。彼はあの時とよく似た服装をしている。眩暈がしそうだった。
「どこかで、飲み物でも、ご一緒しませんか?」
 それは、あの日のセリフと同じだった。



 以前麻柚夏は銀座の近くにオフィスを構える大手のウェブデザイン会社に勤務していた。デザインは好きだったが、最新技術をいち早く取り入れることを重視し、顧客とのコミュニケーションをあまり重要視していない会社の方針に、麻柚夏は時折違和感を感じることがあった。また、給料がいい代わりに、納期前は睡眠三時間が当たり前だった。入社して半年後、会社への泊り込みに限界を感じ、麻柚夏は仕方なく実家を出て職場の近くへと引っ越した。
 肉体的には若さでなんとかなっていたものの、精神的にぎりぎりの生活だったと、転職してからの麻柚夏は回想する。渦中にいる時には少し疲れているくらいでなんともないと考えていたが、冷静に考えれば最初からあの生活は麻柚夏の行動に少しずつ異常をもたらしていた。
 納期の直後で時間に少し余裕がある日でも、学生時代のように読書と散歩をする休日は過ごせなくなっていた。銀座の高級な店で食事をし、使わないにもかかわらず機能美を追求した高級文房具を買った。仕事で目を酷使するため、なるべく目を休めようと読書はしなくなった。同僚には銀座の高級ブランド品を買いあさるといった発散方法を取っている人間もいたが、もともと興味の薄かった麻柚夏にはどうしてもきらびやかな物たちには興味が持てなかった。自宅へ帰り、機能美に溢れた文房具を眺めることが毎日の唯一と言える楽しみになってしまっていた。
 さらに、どういうわけか性欲が強くなった。仕事ばかりの生活で恋人もいなかった麻柚夏は、休日に官能映画を借りて見るようになった。



 男に声をかけられたのは、そんなある日だった。見上げた空は高く秋を思わせる日だったが、やはり麻柚夏にはどこか作り物めいて見えた。銀座を歩く途中、彼女は大通りから離れた場所に質の高いビジネスバックの直営店を発見し、中に入った。麻柚夏は鞄を手にとってしばらくポケットなどをチェックした後、それを購入した。紙袋を持って店を出ようとすると、「あの」と後ろから声をかけられた。それが、彼だった。
 どこかで飲み物でもと誘われ、麻柚夏は驚いた。就職してから、そういった誘いは皆無に等しかった。理由は自分でも理解していた。麻柚夏の服装はウールのロングスカートにごく普通のノンアイロンブラウス、無地のカーディガン、そして足元はヒールが一センチにも満たない黒いありきたりな布のブーツ。銀座では目立たない、良く言えばシンプル、悪く言えば平凡な服装。自宅にある雑誌は「ウェブ・クリエーター」のみの彼女には、銀座で男性に誘われるような格好はできなかった。
 カフェで向かいに座った彼は、服装のみ取り出せばまるでモデルのようだった。顔立ちはまあまあだけれど華がないといった雰囲気で、モデルではないだろうな、と麻柚夏はごく客観的に考えた。もちろん、それでも自分自身に比べたら銀座という場所に相応しい、おそらくは同じ会社にいれば同僚の女性達から噂の的になるだろうと思われる容姿と服装だった。
 ブラックのコーヒーを目の前にした彼は、名刺を取り出して自己紹介を始めた。
「西山文彦といいます。仕事は、広告業です。」
 差し出された名刺には、誰でも知っている会社名が印刷されており、そんなことがあるだろうかと麻柚夏は訝しい表情を隠さなかった。偽の名刺ならば、いくらでも作れる。それこそ、作ろうと思えば麻柚夏にだっていくらでも作ることができる。大したソフトも必要なく、そこそこのプリンターさえあれば仕上がりも現物と遜色ないものになる。名刺には簡単に複製されないためであろう、社章が浮き上がっていたが、それでも麻柚夏はすぐに信じることができなかった。彼女の表情を読み取ってか、西山文彦は苦笑した。
「信じられないのなら、貴女が調べた電話番号で会社に電話してみてください。失礼ですが、働いていらっしゃるのでしょう?」
 麻柚夏が自分の名前と会社名を告げると、彼は「思ったとおりだ」と言った。
「どういう意味でしょうか?」
 見た目の印象より自信過剰な言葉の告げ方に、麻柚夏はすでにこの場を去りたいと思っていた。
「そんな顔をしないでください。そういう雰囲気が好みなんです。ともかく、会社名を出して電話していただいて構いませんよ。出先でない限りは私が出ますし、そんな人間はいない、とも言われないはずです」
 確かに、嘘はついていないかもしれないな、とその落ち着いた様子から麻柚夏は感じていた。だが、それででもその場から立ち去りたいという気持ちは変わらなかった。高校時代大学時代と郊外の自然が多い校舎に通い、勉学に熱心な男性としか付き合ったことのない麻柚夏には、その自信に満ち溢れた肩書きと態度が水と油のように自分と親和性のない異質なものに感じられた。
「この名刺を出してそんなに引かれるのは初めてです。仕事ばかりで、時間の合わない男は駄目ですか?」
「いいえ、ただ、ブランドや肩書きにあまり興味がないだけです。そういう物に惹かれる女性は他にたくさんいるでしょうから、私はこれを飲んだら帰らせてください」
「……」
 西山文彦は麻柚夏の言葉に反応せず、足元に置いた紙袋を指差した。
「その鞄のブランド。良いですよね。私も使っています」
 足をすくわれた感覚だった。麻柚夏は彼を睨みつけた。
「相手を不快にさせるのがお上手ですね。広告業が、勤まるのですか?」
 彼は乾いた笑みを浮かべると、コーヒーを飲み干した。
「それは失礼しました。でも、中身を見もしないで決め付けるのは、良くないことだと思いませんか?」
 そう言って立ち上がると、彼は伝票を手にとり「メール、待ってます」と言った。拍子抜けしている麻柚夏の元に、彼の名刺と飲みかけの紅茶が残された。







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