ビルの合間の空(2)




 三週間ほど経ったのある日、麻柚夏は九時に帰宅すると、コンビニエンスストアで買ったおでんを食べた。疲れていて食事を作れない時は、どうしてもコンビニエンスストアで夕食を購入することが多かった。前日までの陽気とは裏腹に急に冷え込んだその日、店の中に充満するだし汁の匂いに惹かれ麻柚夏はおでんを買ってしまったのだった。
 夕食を食べ終え、デザートに柿と梨を剥いた麻柚夏は、自宅ではあまり起動しないパソコンの電源ボタンを押して果物の入った皿をデスクの端に置いた。梨を口にしながら、ウェブメールのサイトを開き、アドレスとパスワードを入力する。彼の名刺のアドレスの欄にも、ウェブメールのアドレスが印刷されていたからだった。
 少し時間を遡ったその日の昼、麻柚夏は忙しくて放っておいた名刺の束をスキャナで取り込んでデータ化する作業中、彼から貰ったそれを手に取った。あまり気が進まなかったが、最大手と言われるような会社の知り合いもひとりくらいいたほうがいいのかもしれないという考えが頭を過ぎり、麻柚夏は記された西山文彦の会社をウェブ検索した。そしてさも仕事の用件という様子を装って、そこに電話をかけてみた。彼は出張中ということだったが、その会社に勤めており、部署も間違っていないことは分かった。
 たまにメールのやり取りをするくらいの関係というのはどう作ればいいものかと、ディスプレイの前で麻柚夏は思案した。『川崎麻柚夏』という名前と、出会ったビジネスバックのショップの名前、声をかけられたこと、それらを画面に打ち込んだ後で、彼女の指はしばらく止まった。そこで、ふと、机の端に置いてあるまだ返していないレンタルDVDショップの返却袋が目に入った麻柚夏は、借りてきた官能映画の合間に見た最近の映画の感想を、物語の核心に触れず当たり障りのない範囲の言葉で打ち込み送信した。

 次の日も自宅のパソコンを起動した麻柚夏は、ウェブメールに返信が届いている事に気付きどこかで期待する気持ちとどこかで臆する気持ちと半分半分にメールを開いた。そこにはごく当たり前の挨拶のほかに、仕事の関係で休日はできるだけ話題の映画やDVDを見たいと思っていること、けれど休日まで仕事を持ち込むなと恋人に不満をぶつけられ、しかも最近別れたこと、が記されていた。そして最後に友人で構わないから一緒に見てもらえないだろうかという控え目な依頼が加えられていた。
 たまには映画に出かけるくらいはいいかもしれないと返事を打ち始めた麻柚夏は、途中で突然疲れを感じて目の芯が重くなった。凝り固まった肩をぐるりと回してほぐしてみたが、焼け石に水だった。やはり休日に映画館に出かけるのは人ごみの中で疲れそうだと思った麻柚夏は、友人として、自宅で一緒にDVDを見るくらいなら付き合っても良いと打ち込んで返信した。
 だが返信ボタンを押したした後で、その方が余程彼に気があるみたいではないかと麻柚夏は後悔した。そして、すっぱりと断りのメールが来ることを期待した。

 どこかで分かってはいたが、麻柚夏の期待に反して西山文彦は是非、というメールを返信してきた。お互い忙しいから休日が合わないだろうと前置きして麻柚夏が提示した休日にも大丈夫だという返信が戻り、二週間後に二人は麻柚夏の自宅でDVDを見ることとなってしまった。



 どんな格好をするべきか悩んだ挙句コットンシャツにネルのロングスカートを着ていた麻柚夏は、扉を開けて彼の服装に一瞬目を瞬かせた。やはり雑誌でモデルが着ているのではないかと思うようなジーンズとシャツだった。「何かおかしいですか?」という彼に質問に首を横に振って、麻柚夏は彼を招き入れた。見とれたというわけでもなく、何かがおかしいというわけでもなかった。ただ、彼の服装やたたずまいは、麻柚夏にとってどこか自分と違う世界の人間に思えた。
 麻柚夏がお茶を淹れてソファに座る彼の前に差し出すと、彼は部屋のコルクボードを指差した。
「あれは、貴女が撮ったんですか?」
 コルクボードには、学生時代彼女が趣味で撮っていたポラロイド写真が貼られていた。夕日に焼ける雲や、雪の中の山茶花や、陽の中のクローバー。余白の部分には、撮った日付と場所だけを油性マジックで記してある。今はもう人の手に渡ってしまった実家に住んでいた頃、近所でよく撮っていたもので、引越しの際も捨てられず飾っていた。
 麻柚夏の両親は弟二人が独立した後、都心から急行電車で三十分かかる場所に建つ自宅マンションを売り、さらにそこから乗り換えて電車で三十分下った駅の近くに小さな一軒家を購入した。まだ役所に勤めている麻柚夏の父親は、定年間際で三十分の電車通勤を初めて経験することとなったが、両親は狭いながらも一軒家に満足している様子だった。学生時代写真を撮り続けた愛着のあるあの街は、既に麻柚夏の帰る場所ではなくなっている。
 突然自分の写真から自分の置かれた身を再確認した麻柚夏は、軽く首を振って西山文彦へと視線を戻し、「昔の趣味です」とだけ答えた。
「センスが、ありますね。ウェブデザインが本職ですか?」
 彼が専門誌に目をやったのを確認した麻柚夏は頷いて自分の名刺を取り出した。社交辞令だとしても他の物ではなく写真を褒められたことで、会話くらいはできそうだとほっとしていた。
「会社に、電話しましたね?」
 名刺を見た後で彼は麻柚夏の目を覗き込み悪戯めいた表情をした。特に隠すつもりもなかった麻柚夏は、「ええ、素性を確認させていただきました」と答えた。
「僕に、興味が出ましたか?」
「一人くらい、西山さんみたいな知人がいてもいいかと思いました」
「それは、光栄です」
 麻柚夏が自分の淹れたお茶を一口飲むと、彼も湯飲みに口をつけた。沈黙が落ち、彼女は思わず借りてきたレンタルDVDショップの袋を引き寄せた。
「どれが、いいですか?」
 何日か前に朝の民放テレビで紹介されていた映画のディスクを三本、麻柚夏はテーブルの上に並べた。彼は「じゃあ、これを」とアメリカの心理サスペンスを指差した。麻柚夏は黙ったまま彼を見て頷き、ケースから取り出したディスクを再生した。

 再生を終えたプレーヤーからディスクを取り出した麻柚夏の横で、西山文彦は唸っていた。
「どうでした?」
 麻柚夏が尋ねると、彼は首をひねった。
「なんだか、納得がいきませんでした。あの場面で、女性が反対側へと走った理由が分かりません」
「そうですか?私は、なんとなく分かりましたけど…」
 それをきっかけにして、ひとしきり映画についての議論が続いた。ふと、喉の渇きを感じた麻柚夏は二人分のカップを持った。
「緑茶と紅茶とコーヒー、どれがいいですか?」
「それは、まだ居てもいいっていうことですか?」
 不意の質問に、麻柚夏は口をつぐんだ。彼とは決して意見が一致することがなかったが、だからと言って話をする事に違和感や不快感は感じない。これは「話が合う」という事になるのだろうか?と黙ったまま思考をめぐらせていると、西山文彦は吹き出した。
「そんなに難しい質問でしたか?今までの映画についてのやり取りのほうが、よほど難しい内容だったと、僕は思いますけど?」
 彼の笑った顔が、少しだけ自分に近い存在に思えて、麻柚夏はカップを持ったまま立ち上がり、「緑茶を淹れます」と言い残してキッチンへと向かった。

 お茶を持って戻った麻柚夏は、彼の笑顔に油断したことを心底後悔した。彼はレンタルDVDショップの袋を、覗き込んでいた。大人気ない態度だと分かりながらも、彼女はその袋をひったくるように取り上げずには居られなかった。
「そういうのも、見るんですね」
 彼はなんとも嬉しそうにしていた。中には、一緒に借りてきた女性向けの官能映画が二本入っていた。
「勝手に見ないでください」
「他にはどんなものに興味があるのか、気になりました。その三本は、明らかにごく一般的な選択をしたように思えましたから」
「だからと言って、勝手に見ないでください」
 麻柚夏は自分の頬が赤くなっていると自覚していた。恥ずかしさに顔を上げられなかった。
「そんなに後ろめたい事でもないじゃないですか?男の部屋なんて、比較にならないくらいえげつないものがたくさんあります」
「知ってます」
 麻柚夏には弟が二人居る。しかし、それと袋の中身を見られたことは別の問題だった。
「つまり、見たいんですけど」
「男性が見ても、面白くありませんよ」
「そうですか?男は大概そういうものが好きですよ」
 見上げれば、西山文彦はからかうという様子もなく表情からは純粋な興味が読み取れた。反論に疲れた麻柚夏は、半ば自棄になってR指定の印が付いたディスクを取り出した。

 再生が停止した部屋で、麻柚夏は西山文彦と口付けていた。
 再生の最中は、考えていたよりも物語が面白かったこともあり横を見ることはなかった。しかし、終わった後彼と目が合うと麻柚夏は頬が熱くなるのを止められなかった。彼の顔が近づいてくると、つまりあんな誘いのメールを送ってしまう時点でこういう展開を期待してきたのかもしれないと、あきらめに似た、けれど少しの高揚を伴った気持ちが心の中に湧き出た。
 結局、麻柚夏は目を閉じた。

 それから後は、砂がこぼれ落ちるように、身体の関係を持った。




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