ビルの合間の空(4)




 自分が傷ついているという事実にすら打ちのめされ、初めから分かっていた事ではないかと自己嫌悪に陥っていた心が少し回復すると、麻柚夏は思い切って転職を決めた。転職先は以前実家があった場所の近く、私立の高校のウェブサイトデザインを請け負うような小さい会社だった。経営者兼上司の男は面接の際顧客とコミュニケーションをとることを最優先すると言い、麻柚夏はその言葉に転職を決意した。実際、そこは学校の情報主任や事務の担当者にPDFファイルの作り方を説明するところからはじめるような会社だった。だが、余程の緊急事態がない限りは残業も減り、その代わり給料も格段に減った。ただ、土地柄家賃が安いために暮らしていけないことはなかった。
 麻柚夏はデジタルカメラを購入し、写真を撮り始めた。常に持ち歩いて気になる風景を撮り、麻柚夏のパソコンの中にはたくさんの写真データが保存されるようになった。新しい会社は新しい会社なりにストレスもあったが、それでも写真の数が増えるごとに麻柚夏の中の性欲は鳴りを潜めていった。
 写真を見ながら、麻柚夏はこれを西山文彦は見たいと言うだろうかと、一度だけ考えたこともあった。けれど、その気持ちも日常の中にまぎれていった。



 あの日のように、西山文彦と麻柚夏は向かい合って座っていた。目の前にのテーブルにはコーヒーと紅茶のカップが置かれている。
「あの後、メールしたけど、返事がなくて。しばらくしたら、アドレスがなくなってた」
 ウェブメールは企業のダイレクトメール受け取りにしか使っていなかったため、あの後麻柚夏はそのアドレスを一切開かなかった。三ヶ月ログインのないまま過ぎると、自動的にアドレスは消える。
「ええ、放置しましたので」
「ひどいなあ、かなり努力して謝罪文を考えたのに」
 あの出来事の直前の、砕けた言葉遣いに麻柚夏は顔をしかめたくなった。今更、そんな親しい間柄になど戻れはしないと、彼女は口を開きかけたがそれこそ今更意味のないことだと口をつぐんだ。だが、その様子を見た西山文彦は片眉を上げた。
「何ですか?言ってください。責めればいいんですよ。それとも、男を責めるだなんてプライドが許しませんか?」
 何故こうも核心を突く部分を攻めてくるのだろうと、麻柚夏は忌々しげな顔で西山文彦を睨んだ。
「ええ、その通りです。そんな無駄なことにエネルギーを使う女に成り下がりたくありません」
「君にとっては無駄でも、僕にとっては意味がある。殴られたとき、初めて君の心を少しだけ手に入れられた気がした。それなのに、それを最後に君と連絡すら取れなくなった。覚悟して会社に電話したこともあったけど、あろうことか退職してた」
 興奮気味に言葉を重ねる彼に、やはり殴るべきではなかったと後悔しながら、麻柚夏は勤めて冷静に言葉を返した。
「…転職、しましたから」
「…冷静だね。君は一体どういうつもりで僕と付き合っていた?それとも、付き合っているとすら思っていなかったのかな?」
「平気で何人もの女性と付き合っていた人間に言われたくありません」
 冷静になりきることができなかった麻柚夏は、思わず顔を上げ彼と目を合わせた。目尻に溜まる涙に引っ込めと念じていると、彼は怪訝な顔をしていた。
「……君は、全く気づいていなかったのか?」
 今度は、麻柚夏が怪訝な顔をする番だった。彼は口を開こうとして躊躇し、もう一度口を開いた。
「ここでは、言い辛いな…」
 西山文彦は伝票を手に取りながら、「引っ越したから少し遠いけど、家に来ないか?」と小さな声で言った。彼の不可解な言葉にひっかかった麻柚夏は、一拍置いてから頷いた。




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