ボーイフレンド





 男と出会う場所は合コンでもバーでもクラブでも、お見合いでも出会い系サイトでもない。常にざわめきに包まれていながら決して騒ぎ立てるような人間がいない、『大人しい』場末の飲み屋だった。友人には不思議がられるが、八木沢委織やぎさわいおりにとって多少なりとも惹かれる男性に出会うことができるのはそういう場しかないのだから仕方がなかった。
 惹かれる男の素性は毎回違った。自宅でプログラミングをして生計を立てている男性だったり、インディーズのバンドのベースを担当している男性だったり、化粧品会社で広報部に所属している男性だったり。それは委織自身が意識しているわけではなく、直感に従うとそうなってしまうというだけなのだが、しかし不思議な事に共通点が一つだけあった。別れ方、という。
 彼らは顔をゆがめて別れを告げる。そのくせ時折委織と出会った店に一人でやってきて委織を息苦しいほどに見詰める。だが委織が別の男性をその店に連れて行き、見せ付けるように微笑むとひどく傷ついた表情をして二度と来なくなる。その度に委織は振ったのは貴方なのにね、と心の中でつぶやいてみる。

 その店は焼き鳥が美味しい。雑居ビルの二階に店を構えており、雨が降っていない日の五月から十月にかけて、マンションのベランダを広くしたような外の空間が開放される。プラスチックのビールケースの上にナイロン製のクッション、脚の表面には錆の浮き出た小さなテーブル、そして上を見上げると高いビルとビルの合間に挟まれるように広がる空を仰ぐことができる。香ばしく焼き上げられ歯を立てればサクサクと音が鳴る鳥皮を頬張りながら、委織は上を見上げた。視線を感じる。この間別れた男だという、予感がした。



 初めて会ったその日、彼は空を見上げていた委織を立って上から覗き込んできたのだった。委織が目を瞬かせると、相手も目を瞬かせてから彼女の隣に腰を下ろした。男が店員からおしぼりを受け取っている横で、委織はレバーの串にかじりついていた。店のレバーは外側がパリッと焼けているのに中はしっとりとして生臭さがない。美味しい串焼きは委織の機嫌を押し上げた。
「良く食べるんだね」
 委織の目の前に展開されている料理の図を眺め、彼はそう言った。勢い良くホタテのサラダを頬張る委織に、彼は楽しそうな視線を向けた。その時にもう、付き合う事になるだろうという予感がした。

 男は会社の役員をしていると言った。親戚の叔父が大きくした会社で、能力を買われて出世したという。その割に外見は色白で線が細く、そんな世界で仕事をしているように見えなかった。委織が素直にそう伝えると、彼は楽しそうに「これでも会社では鬼上司だよ」と笑った。それから君のほうこそきちんと働いているのか心配だ、職に困ったら推薦くらいはしてあげようとも言った。その声色がビジネスの話になった所為か急に低く迫力を帯びたので、委織は彼の職業を信じざるを得なかった。
 委織は残業の少ない、もしくは時間給の事務の職を転々としながら少しずつ資格を取り続けていた。彼女が持っている資格を割り箸の袋にボールペンで列挙していくと、男は表情を変えてウチに来ないかと誘ったが、公私混同という言葉が好きではない委織はそれを断った。振られてしまった後居辛いだろうという寂しい予感も頷くことができない原因の一つだった。

 委織は中性的で色白な男に、自分の口紅を塗るという行為を好きになった。何度目か寝た後で気まぐれにそれを始めると、男は最初戸惑った表情で「何をするんだ」と委織を止めようとしたが、きっと似合うし私だけがそれを見たいのだと説明すると不服そうな表情をしながらも了承した。委織は男に口紅を塗った後でその唇に吸い付くのも好きになった。けれど、自分のそういうところが男を遠ざけていることにも、なんとなく委織は気付いていた。それでも、やめたくなかった。
 最後の日に男は、口紅を取り出した委織の手を振り払い、「君にはもう付いて行けない、別れよう」と告げた。何度も男達に言われた、似たような語句の一つだった。



 委織を振った男は決して委織に話しかけない。遠くから、ただ見るだけだった。男と別れてから二度目にその店に行く際、委織は友人の男性と待ち合わせた。これが、いつもの方法だった。

 鳥皮をすっかり胃に納めたところで、待ち合わせをしていた友人が姿を現し委織の隣に腰を下ろした。
「で、今度振られた男はどれ?」
 挨拶代わりがそのセリフなのか、と文句を言いたくなったが、毎回渋る彼に頼み込んで来てもらっている委織はその言葉を飲み込んだ。
「気付いてるんでしょう?カウンターの端に居る人よ」
「ああ、またこっちを良く見てんなあ…てか、今度は色白ビジネスマンって統一性なさすぎだよ八木沢さん」
 住屋遼一すみやりょういちは委織が大学を卒業してすぐに事務員として就職した最初の会社である予備校で、講師をしていた男だった。銀縁の眼鏡を掛けて一見口を開かない人間に見える彼は職場の同僚にも敬遠されがちで、委織も初めはあえて話し掛けなかった。が、ある時ぽつりと独り言のように冗談を言う姿を見かけて吹き出してしまって以来、頻繁に会話を交わすようになった。委織が転職を決めた時に携帯の番号を交換し、以来時折二人で飲んでいる。転職後に付き合った男に振られた際、気まずいからと頼み込んで男と出会った店に来てもらったのも住屋で、それから毎回振られる度に彼に連絡を取る事になるとはその時の委織は予想していなかった。
「仕方ないじゃない惚れた腫れたなんてそんなに簡単に理性で操縦できるもんじゃないでしょう?」
 一緒に飲むようになってからの彼の恋愛遍歴を知っている委織は唇を尖らせた。彼は二度ほど女性と付き合ったが、どちらも短い期間で終わっている。
「そんなの知らん。勝手に向こうから付き合いたいと言われるのに結果的には振られてばっかりだからな」
「偶然ね、私と同じだわ」
「一緒にすんな」
「失礼ね」
 こちらをちらちらと窺う自分を振った男を見ながら、委織はおしぼりで手を拭いていた住屋の手を故意に引き寄せその二の腕に胸を押し付けた。男はそれを目の当たりにして目を閉じ眉を寄せると、次の瞬間カウンター席を立ちあがり、会計を済ませて店を出て行った。おそらく、もうこの店には来ないのだろう。男の後姿を見ながら委織は住屋の手を解放しスモークサーモンサラダに取り掛かった。
「いつも思うんだけどさあ、ここでこんな事をせずに八木沢さんから話しかけたら簡単に縒りが戻ったりするんじゃないのかね?」
 最早委織に手を取られても表情一つ変えることのなくなった住屋は、生ビールを飲みながら委織を横目に見た。
「そうかもしれない。でもきっと、そうしたとしても同じことの繰り返しなんだと思う」
「そういうところで変に賢くなるから逆に長続きしないんだよなあ」
「ここ三年女と二ヶ月続いたことの無い人に言われたくないなあ」
「八木沢さん、もう君と飲むのはやめた方がいい気がしてきたんだけど?」
 フウなどとこれ見よがしに溜息をつく住屋の表情が笑みを含んでいない事に気付いた委織は、言い過ぎたかもしれないと気付いた。
「でもいつも来てくれる」
「もう男に振られたときは呼ぶな」
「いつもありがとう」
 否定の言葉を飛び越して真っ直ぐに住屋の目を射て委織が告げた言葉に、彼は項垂れた。
「あーー、どうせ呼ばれりゃ来る男だよ。暇で悪かったな」
「暇だなんて思ってない」
「八木沢さんて振り回すのの天才だよな」
 ウーロンハイ三杯目で酔ってきた脳では住屋の言葉が上手く理解できず、委織が首をかしげると住屋は黙ったまま残りのスモークサーモンサラダに手を伸ばした。



 店を出て最寄の地下鉄の駅まで歩く途中、住屋が怪訝な表情で後ろを振り返ったため、委織も立ち止まり後方に視線を向けた。すると驚いた事に先ほど店を出たはずの男が電柱に寄りかかってこちらを見ていた。
「何度も八木沢さんの振られ現場に立ち会ったけど、こういうストーカー染みたのは初めてだな」
「そうね…話さないとかな。先に帰っていいよ」
「俺は納得いかねえな。あの男の気持ちが分からないわけじゃないが、気味の悪いやり方は好きじゃない…撒くぞ」
 最後の言葉が良く聞こえず聞き返そうとしたが、住屋はそんな間も与えずに突然委織の手を取って走り出した。委織は意味も分からず路地をあちこち走らされ続けた。五回ほど狭い路地裏の角を曲がったところで振り返ると、男の姿は見えなかった。まだ走り続けそうな住屋を止めるため、委織は彼の手を引っ張って手近な建物に連れ込んだ。しばらく、息を潜めて様子を見るつもりだった。
 そうして走りこんできた男女に、受付の女性は当然のように「一泊ですね、五千円です」と告げた。そこは、いわゆるラブホテルだった。

「えーと、俺は何で八木沢さんといかがわしいホテルの一室に居るんだっけ?」
 引っ込みが付かなくなったもののまさか住屋に財布を出させるわけにもいかず、委織は料金を払って避妊具を受け取ると彼の手を引っ張ってエレベーターに乗り込んだのだった。
「えーと、少ししたら住屋君は帰って大丈夫なんじゃないかな。ここは私の避難場所だから」
「さっき俺は終電ぎりぎりだって言ったの忘れたとは言わせんぞ」
「あ、そうだった」
 脱力した委織が「うーん」と唸りつつベットにどさりと腰を下ろすと、「寛ぐんじゃないトラブルメーカー」という声が飛んできた。
「んー…巻き込んでごめんなさい」
 委織が頭を下げると、住屋も脱力したのか彼女の隣にどさりと腰を沈めた。



 で、何で私たちこんなことになってるんだっけ?と考えた瞬間に体の中に潜り込まれ、委織は無意識に声を漏らしてしまった。今、委織が裸で抱き合っているのは住屋遼一だった。
 ベットに腰掛けていた二人は、もう仕方がないから泊まろうという結論になり、委織がシャワーを使って、その後住屋もシャワーを浴びたいとバスルームに入った。委織は罪悪感もありソファで寝るつもりだったが、住屋が出てくるまでは大丈夫だろうとベットに寝そべって鞄の中に入っていた転職情報誌を広げていた。するとシャワーから上がってきた住屋は、「八木沢さん無防備も大概に」と冷静に告げ、そのくせ乱暴に委織を押し倒してキスをした。

 行為の後、委織の体の上からごろりと体を回転させて隣に身を沈めた住屋を、委織はまじまじと見詰めた。
「もう後悔してるから、それ以上見詰めないでくれ」
「んーと…住屋君、私と付き合いたい?」
「断る。これ以上振り回されるのは御免だ」
 予想していた答えだったが、委織は苦笑をもらしてしまった。
「もしかしてこれって、セックスフレンド?」
「その言葉好きじゃないな、どうにも」
 『ふーん』と相槌を打ちつつ、委織は住屋の方に体を向けた。
「じゃあ、どこが違うの?」
「セックスフレンドは複数居るだろ。俺は他の女と寝ないから、八木沢さんも他の男と寝るなよ」
「今後も?」
「そう」
「それって、付き合うのとはどう違うの?」
「結婚を前提にしていない」
 仕事の同僚達に言わせれば、『男の都合』と敬遠されそうな理屈だな、と思いつつも委織の頭の中に浮かんだのは何故かティーンエイジャーのような言葉だった。
「じゃ、ボーイフレンドだ」
「八木沢さん幾つになった?」
「残念ながら二十代も後半に」
「だよな、俺と一つしか違わないもんな」
「そんなの分かってるけど。でも、他に言いようが無いし」
 住屋との関係がどのくらい続くのかは予想がつかなかったが、けれど委織はこの関係が終わりになったとき、ようやく自分も男性と続けることができるようになるのではないかという気がしていた。思っていたより『私』は成長していないのかもしれない、と過去を振り返って少し苦い気持ちにもなっていた。それでも、委織はそのボーイフレンドという結論を、気に入っていた。







COPYRIGHT (C) 2007 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.