エアリアルシート






 夜の遊園地に男と二人で来るのは初めてだった。ライトアップされた園内は思っていたより綺麗で、思っていたほど興醒めでもなかった。委織がふと気付いて周囲を見渡すと、住屋遼一は「どうした?」と尋ねてきた。
「いい匂いがする」
「いい匂い?」
「うどんかも」
 委織は住屋の腕を取ると、引っ張って出汁の匂いのする方向へと向かった。


 そこは前に委織が勤めていた…つまりは住屋が現在勤めている予備校で、福利厚生事業として割引券を配布している遊園地だった。にもかかわらず委織が一度も来た事が無かったのは、行けばたいてい同じ職場の人間に会うと聞かされていたからだった。
 そんな委織が今その場所に居る理由は、住屋がチケットの処遇に毎年困るのだと言った時、どういうわけか『じゃあ一緒に行こうか』と委織自身が言ってしまったからだった。何故そんな事を口にしてしまったのか今でも彼女は自分の発言に疑問だが、さすがにもう委織の事を覚えている人間が減ってきているに違いない、と無意識に判断したからだろうと委織は思っている。
 これまで付き合ってきた男達とは、居酒屋とホテルと互いの家以外の場所で会ったことがほとんどない。委織自身、世間で騒がれているようなデートに興味が持てない人間だった。派手なイルミネーションにも、高級ホテルから望む煌く夜景にも、クリスマスにも、バレンタインデーにも、どうしてそれほどまでに世間の女性が騒ぐのかが委織には理解ができない。


 だが、こうしてうどんを食べながら色とりどりの電球で飾られた回転木馬を眺めるのもごくたまにならば悪くない、と委織は学食を思い出させる味のスープをすすりながら思っていた。
「前から思ってたんだけど、八木沢さんてさあ」
 冷凍食品の解凍ものであろう枝豆を目の前に、ビールを傾けてから住屋は口を開いた。
「花より団子色気より食い気だよな」
「ここ三年彼氏いない歴が三ヶ月以上になった事がない女性対して使う言葉じゃないわよ、住屋君」
「いいかげんその君付けやめないか?」
「自分がさん付けは嫌だって言ったのよ、覚えてないの?」
 委織は住屋と職場を同じくしていた頃、先輩である彼を『住屋さん』と呼んでいた。委織の転職後飲み屋で「男の友人にさん付けはないだろう」と言いだしたのは、他でもない住屋である。以来委織は彼を『住屋君』と呼んでいる。
「ボーイフレンドに君付けはないだろう」
「むしろ相応しい気がするけど。高校生みたいで」
「また訊くけど、八木沢さん幾つになったっけ?」
「もう一度言うけど、残念ながら二十台も後半になりました」
「そうだよな、高校生の女の子は男の子と遊園地に来ていきなりうどん食べるとか言い出さないよな」
「あんまり口うるさく言うと、もう二度と居酒屋とホテル以外には一緒に出かけない意思を固めるわよ」
「ボーイフレンド対する発言じゃねえな、それ」
 住屋はふて腐れたのか、ビールと銘打たれたおそらく発泡酒ではなかろうかと思われる飲み物をごくごくと飲み干した。ふと委織が視線を上げると、高校生の集団が楽しそうに目の前を通り過ぎていく。その中の一人の大人しそうな男の子が、一人の元気そうな女の子をひっそりと見詰める姿を目の当たりにして、確かに高校生みたいという言葉は無理があるなと委織は考えた。心の中でだけ男の子に『恋愛は憧れるような部分だけじゃなくて、結構痛いところもあるよ』と語りかけてから住屋に視線を戻す。
「高校生みたいというのは撤回します」
「いざ目の前にすると無理だろ、やっぱり」
「あの子達に失礼すぎると思った」
「高校生は三ヶ月と空けずに男見つけて寝たりしないっての」
 住屋のぼそりとつぶやくような言葉に委織は思わず周りを見回す。周囲のテーブルに座るカップルたちが特にこちらを気にしている様子はない。向かいの席の女性はソフトクリームを舐めながら、楽しそうに目の前の男性と会話を続けている。
「住屋くん、もしかして疲れてる?それだけで酔っちゃったの?」
 普段滅多なことでは酔わず、冷静に突っ込み役をこなす住屋の気だるい様子に委織は首をかしげた。銀縁の眼鏡を押し上げる仕草も、いつもより緩慢だった。
「ちょっとふて腐れてるだけだ。気にするな。で、それ食い終わったらどうするんだ?」
「なんだかご機嫌斜めだから、住屋君の乗りたいものに乗る、で手を打ちます」
「そんなもんで誤魔化そうってか」
 否定的な言葉と裏腹に、住屋は嬉しそうな表情をした。委織は「子供か?」と言いたくなったがこれ以上機嫌を損ねても困るので口をつぐんだ。


 十五分後、委織は自身の言葉を猛烈に後悔していた。遊園地には、観覧車があったのである。そして、あろうことか住屋は大の高所好きなようだった。自分から言い出した手前断れず乗り込んだ委織だったが、やがて我慢できずお行儀が悪いと思いつつも座ったまま膝を抱えうずくまった。委織は重度の高所恐怖症である。
「おい、大丈夫か?」
 話しかけられて委織は顔を上げた。窓の外は暗く景色は見えなくとも、目を開けているだけで徐々に自分が上昇している感覚が強くなる。委織は慌ててもう一度顔を膝に埋めた。
「そんなに怖いなら、先に言えよ」
「前は暗くて外の景色があんまり見えなければ大丈夫だった。高所恐怖症って、歳とともにひどくなるの?」
「聞いた事ないけどな…気分も悪いのか?」
「ううん、怖くて顔が上げられないだけ」
「八木沢さん、もしかして注射とかも駄目なタイプ?」
「ううん、注射は全然怖くない。だって肉離れとかに比べたら大して痛くないし」
「何でそこで肉離れが出てくるんだ?」
「昔運動部だったときにやっちゃったから。あ、なんか話してると気が紛れて良いかも」
「気が紛れれば良いの?」
「うん」
「八木沢さん、ちょっと顔上げて」
「えー…」
 委織が不満の声を上げつつ少し顔を上げると、住屋が楽しそうな表情で覗き込んできた。
「うわ、楽しんでる、趣味悪い」
「まあね」
 彼は委織の顔に手を伸ばすと突然上向かせ、やや乱暴に唇を合わせた。毎回毎回雰囲気がないししかもここでこんなことをして人に見られたらどうするのだと抵抗しようとしたが、観覧車が揺れるので委織は大人しく彼を受け入れておいた。
「揺れるのも怖いわけ?」
 唇を離した住屋に嬉しそうに尋ねられたため、委織は渾身の力を込めて彼の頬をつねった。
「いっ…痛いぞこら!」
「人はそれを自業自得と呼ぶ。誰かに見られるわよ?」
「この中に灯りは無いんだから、周りからはほとんど見えないんだよ。顔上げて隣のゴンドラ見てみれば分かるだろ」
「それはイヤ」
 委織はもう一度自分の顔を膝へ押し付け、しばらく沈黙が落ちた。やがて、口を開いたのは住屋だった。
「委織」
 名前で呼ばれても意外に違和感はないんだな、と思いながら委織は「なあに?」と下を向いたままで返事をした。
「他の男だったら、腕とかに縋るだろ?」
 委織はしばらく考えた後で、「そうかもしれない」と答えた。
「何で俺にはしないの?」
「付き合ってるわけじゃ、ないし」
「セックスはするのに?」
「だって、自分が付き合わないって言ったんじゃない」
「違う。セックスはするのに、こういう時に縋るのが何で駄目なの?」
「だって、住屋君が困るでしょう?」
「困るかどうか訊けば?」
 鋭い、責めるような言葉だった。住屋は普段素っ気無いながらも、どちらかと言えば穏やかなイントネーションで話すことが常だった。驚いた委織が顔を上げると、彼はもう一度、委織を壁に強く押し付けながら長い長い、そして深いキスをした。

 唇が離れると、住屋は困った表情をして顔をそらし、窓ガラスの向こうへ視線を向けた。観覧車は既に下っており、だいぶ低い位置に来ているのか委織が顔を上げていても恐怖はなかった。観覧車の中でキスをするなんて客観的に見たらきっと浮かれたカップルなのに、どうして私たちはこんなに苦い感情を持て余しているのだろうと、近付いて来た回転木馬を空中から眺めながら委織は考えていた。








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