メモリーコントロール






 四つ目の資格試験は、難易度が高く一年スクールに通ったがまだ合格できるレベルに到達できていない気がしていた。それでも試験直前である以上可能な限り勉強するしかないため、委織は休日を中心に机に齧り付いていた。その資格が取れたら、女性でも続けられそうな仕事探しのほうを本格的に始めるつもりだった。
 恋人ではなくボーイフレンドであるところの住屋遼一とは、土曜日の夜一緒に外食をして外泊し、朝にはもうそれぞれの自宅へ戻るというカタチが続いていた。さすがに試験直前の土曜日は勉強をさせて欲しいと電話で申し出ると、突然不機嫌になり「メシを差し入れしてやる」と言って電話を切った。
 本当に来るのだろうかと疑問に思っていた委織だったが、住屋は言葉通り土曜日の七時に委織の家に現れた。彼を家に上げるのは、まだ三度目だった。住屋はデパートの地下フロアで買ってきた惣菜を広げ、少し楽しそうに「食え」と言った。二人で食事を平らげると、彼はてきぱきと片付けも済ませてしまった。その様子を見て、そういえば一度だけ入ったことのある住屋の部屋はひどく片付いていて驚いたなと委織は思い出していた。委織は床に物を置くことは絶対にしないものの、お気に入りのCDが机の上に何枚か出ていたりと少し雑然とした部分が常に存在している。
 お腹が満たされた委織が住屋にお茶を淹れ、「じゃ、私勉強するから、お茶飲んだら適当なところで帰ってね」と手を上げると、彼は「おい待て」とその手をつかんだ。
「それは早すぎるだろう!メシを持ってきてやったんだからもう少し茶を飲んで話すくらい時間を割いたらどうなんだ?」
「えー?じゃあ、二十分だけね」
「せこいよ八木沢さん…ここまでやるからには、受かるんだろうな?」
「結構難しい試験なのよ。多分、受からない確率のほうが高い」
「受からなかったら、どうするんだ?」
「もう一年、この生活が続くだけ」
「だけ?一年は『だけ』っていう長さじゃないだろう。今までほとんど一緒に出かけることもしないで我慢して…試験終わったら、落ちてても旅行くらい行かないか?」
 委織は住屋の顔を見ることができず目を泳がせた。今まで付き合った男は、委織が求めなければ居酒屋とホテル以外の場所を求めては来なかった。ましてや、旅行など。委織自身も、一緒に美味しいものを食べて、抱き合えればそれ以上を男に求める必要はないと思っていた。だが、住屋とはたとえ会話が弾まなかったとしても一緒に居たいと思うことがあった。互いの家に行かないように委織が意識しているのは、テレビを一緒に見たり、雑誌を二人で眺めたり、居心地がいいあまりそういう時間を思いのほかたくさん『浪費』してしまう所為だった。住屋となら、ホテルからの夜景すら楽しめるかもしれないとすら思う。けれど委織は、そういう居心地のよさに流されてしまうのが怖かった。だからどうにかして柔らかい否定の言葉を選ぶ。
「…だって、住屋君私と付き合うわけじゃないって、自分でそう言ったじゃない。ボーイフレンドとは、一緒に旅行に行ったりなんてしないよ、きっと」
 彼自身が言いだしたこの言葉に、住屋が弱い事を委織は知っている。
「じゃあ、付き合おうか」
 住屋の真っ直ぐな視線に、委織はたじろいだ。予想していない言葉だった。彼のあの日の言葉が蘇る。結婚を、前提に、という。
「八木沢さん今の資格だけでも十分なんじゃないの?確かに俺はそんなに高給取りじゃないけど、二人で働くんだったら収入の多い仕事じゃなくてもなんとかやっていけるだろ?俺は家事も苦手じゃないし」
 委織は住屋の目を見ることができなかった。最近ではほとんど思い出さなかった光景が蘇る。物を言わぬ母の、涙。黙ったまま家を出て行った父親。あれ以来ほとんど会ったことがない故にぼんやりとしか像を結ばなかった父親の記憶が、突然鮮明になった。若い頃の父親の目は、住屋の目に似ていた。
「母のようには、なりたくないの」
 やっと絞り出した委織の言葉に、わずかながらも事情を知る住屋はしばらくの沈黙の後で「そうか…突然ごめん」とつぶやいた。
「父親は、何で出て行ったんだ?」
「他に女性ができたみたいよ。若い頃は大恋愛だったって言ってたのにね」
「苦労、したんだな」
「お金には、多少。でも私ももう中学生だったし、母が頑張って働いてくれたから、そんなに。母なんて結婚していた頃より生き生きしていたくらい。でも、やっぱりブランクがあるし女性だから、仕事で苦労はしたみたい」
 母親から直接言い聞かされたわけではなかった。けれど、やはり母の姿を見て思うのは一人でも生きていける力を若い頃に付けておくべきだということだった。それから、男に振り回されたくないという願望もきっと育ってしまったのだろうと、委織は彼と話していて初めて気が付いた。だからこちらに振り回されてくれそうな、そんな男ばかりと付き合って、深入りされないように振り回していたのだろう、続くはずがない、と。
 もしこんな姿を母に見られていたら心配をかけたのだろうな、と委織は思った。母親は委織が就職してすぐ、病気であっという間に帰らぬ人となった。父は、葬儀にも現れなかった。時折、墓参りに来ている形跡はあるものの。
「男が、信じられない?」
 委織は顔を上げて住屋を見た。そしてしばらく考えた後で、口を開いた。
「と言うよりは、人間の感情っていうあやふやなものを、信じられないのかもしれない」
「俺も、裏切りそう?」
「住屋君が、っていうんじゃないの。それを言ったら私自身の感情だって信じられないし。ただ、今初めて気付いたけど、住屋君私の父親に目が似てる。驚いた」
 住屋は眉を寄せて、静かに溜息をついた。
「嫌な偶然だな」
「偶然じゃ…ないのかも。意識したことはないけど、父親の不在が寂しかったのかなあ」
「俺でよかったら、傍にいるけど」
 住屋の手がそっと委織の頬を撫でた。しばらく見詰め合った後で、委織は首を横に振った。
「私、住屋君にボーイフレンドになってもらってよかった。でも、もう私は両親に影響されない恋愛をしないといけないんだろうし、これ以上住屋君を私の過去に付き合わせる訳にもいかない」
 委織は住屋の頬を両手で包み込んで、踵を上げて額に唇を押し付けた。それから銀縁の眼鏡を片手ではずして、まぶたにも、頬にも、最後に唇にも。
「ボーイフレンド、解消するね」
 住屋は険しい表情で委織の耳に口を近づけた。
「断る、と言ったら?」
「住屋君は、優しいから断れない」
 住屋は目尻を下げ情けないような困惑の表情を浮かべた。そんな表情も、最後かもしれないと思うと本当は手放したくないのだという気持ちが湧き上がる。けれど委織は自分の記憶の奥にあるものに気付いてしまった以上、戻れないと思っていた。
「…今は俺が居ても、昔を思い出させるだけなんだろうな」
 委織は返事の代わりにもう一度キスをして、解放の印に彼へ眼鏡を戻した。住屋は何も言わず、鞄を手にとって委織の部屋を出て行った。ドアの閉まる音を聞いてしばらくしてから、あの日の母親と同じように自分が物も言わずに涙を流し続けていることに気付き、委織はほんの少し笑みを漏らした。





 その後、委織は目的の試験に受かり資格を取得し、新しい就職先を見つけた。女性向けの専門書籍を扱う出版社で、男女の割合は半分、上司には女性も居る会社だった。委織は資格を生かして正規採用された。職場の雰囲気も悪くなく、何とか長く続けたいと委織は思っている。
 委織は住屋とあれ以来会っていないが、一度だけ女性と腕を組んで歩いているところを偶然見かけたことがある。委織の新しい職場近くのいわゆるデートスポットなる場所で、夕闇の中住屋はこちらに気付かず、女性のほうも後姿しか見えなかった。ただ、細い手首に巻かれた華奢で高価そうなブレスレットと白いコートが目に焼きついた。あんな真っ白いコート汚れやしないかしら、と考えつつも委織は目尻から落ちそうになった一滴の涙を拭った。自分から振ったのだとしても痛いものは痛いんだな、と過去の自分を反省しながら、委織は夕焼けに染まる空をしばらく見上げていた。





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