ガラス戸を揺らして




 実家に顔を出して母親の「あんたいいかげんその歳で彼女はいないの」という心ないひと言に胸を痛める男は現代日本に結構な数いるのではないだろうか。いたるはそう考えながら玄関で両親に片手を上げた。また来る、とは言ったもののできればしばらく来たくないというのが本音だった。
 玩具店を継ぐ予定だった兄が結婚を機に勤め人をやめた途端、今度は別の職を継ぐことになった。こうなれば致にいい話が舞い込むことが両親の楽しみなのだろうと理解はしているが、そもそも付き合うというのは一人でできることではない。彼女が欲しいと思ったところで簡単にできると思うな、と脳内では言い返すが、口にすることはできなかった。まさか兄が嫁実家の父親と意気投合してそちらの家業を継ぐとは予想していなかった、というのが両親の本音だろう。実家の店舗部分は兄が勤め人時代に蓄えた貯金を使っての住居改装リフォームが決まっている。もうすぐ生まれる兄の子は向こうの実家が総出で育てるという雰囲気が両親の話からだけでも十分に伝わってきた。致としては店を継げと言われないだけ恵まれてはいると自覚しているが、突然家族から結婚だとか孫だとかという無言の期待をかけられた次男としては軽い気持ちで女性と付き合うという気分にもなれなかった。一度合コンにも参加したことがあるが、こちらの重さが伝わって引かれるという苦い経験に終わった。あまり考えずに誰と付き合いたいかを主眼に置けばいいだけだと同僚からからかい半分心配半分のアドバイスをされ、何とも歯切れの悪い返事をしたのはつい最近だ。
 そもそも致はあまり器用な性格をしていない。職場ではレンタル複合機のメンテナンスを担当して外回りをしているが、機械の様子を目から耳から感触から細かくうかがいすぎるため時間を取られ、上司からほどほどにしろと月に一度は小言をくらう。自分が時間をかけすぎた分は他の職員がフォローに回ってくれているのだから小言は当然で、むしろ自分はこの職に向いていないのだろうかと悩むしかない。
 ガレージを締めっぱなしにした店舗の入口脇にある玄関から実家を出た致は、仕事があるだけマシ、店継げと命令されないだけマシ、と自分に言い聞かせながら母親の小言を振り払った。この気分を引きずって週末を迎えたくはない。精神状態は趣味であるプラモデルの出来にかかわってくる。
 現在のところ店舗兼住宅となっている致の実家は駅から続く商店街の一番端に位置している。駅に向かう道の途中には小さな公園があり、致も小学生まではよく友人と作ったプラモデルを手に持って戦わせていた。アニメのシーンを再現しては、どの機体が一番かっこいいか主張し合ったものである。その友人もこの間結婚したのだったと記憶を巡らせていると、ブランコに座る人影が目についた。一瞬まさか霊の類かと頭を過ぎったが、その人影にはきちんと足がついていた。制服を着た、女子高生に見える。いくら商店街脇とはいえ物騒ではないかと彼女に近付いた致は、街灯に照らされた彼女の顔立ちを見て逆に尻込みをした。正直に言って好みのタイプだった。ナンパと間違えられないだろうかと足を止めると、彼女の方がこちらを見て目が合ってしまった。
「乗りたいの?」
 一瞬何を言われたのか理解できずにいた致の様子を感じ取ったのか彼女はブランコから立ち上がって揺れるそれを指さした。
「ブランコ、乗りたいの?」
「いや、遠慮しておく」
「じゃあ、どうしてこんなところに」
 それはこちらのセリフなのだが、と言いたかったが飲み込んだ。
「こんな夜更けに女の子が一人で物騒じゃないかと思って」
「確かに、殺人事件に適切なシチュエーションかも」
「いや、そこまでは言ってないけど」
「優しそうな青年が表情一つ変えずに少女の胸を突き刺す」
 穏やかな口調のままミステリー小説を彷彿とさせる言葉を紡ぐ唇に致はぎくり、とした。まさかこの子本当に霊の類か、しかしその割にはっきり見えるな、と頭のてっぺんからつま先までをまじまじと眺めると、彼女は吹き出した。
「もしかして、私が幽霊かと思った?」
「いや、今この瞬間もわりとそう思ってる」
 彼女はさらに笑うと「じゃあ、今から私はあなたに取り憑きます」と宣言した。いや、冗談でしょう、と口をついた致に黙ったままにっこりとした表情を向ける。まさかな、と自分を奮い立たせるように声を出し、公園の出口に向かって歩きだした。一歩公園から道路へと踏み出して、後ろを振り返る。すぐ後ろで、彼女が笑っていた。
「えっと、何で俺に取り憑くの?」
 どう対処すべきか思案しながら尋ねると「私が見えるみたいだから」と返された。少女の制服を観察してみたが、このあたりの高校の制服ではないようだった。致としては九割九分この子は人間だと思っているが、夜の暗がりの中残りの一分でもしかしたらと感じてしまう。もしくは新手のオヤジ狩りかと思い浮かんでオヤジというフレーズに自分でダメージを受けつつ、周囲の気配をうかがうがそのような人影は見あたらなかった。
 とりあえず、駅までたどり着けば自分の家に帰るだろう。致はそう結論付けると駅への道を歩き始めた。時折後ろの気配をうかがうと、彼女は「連れ」には見えない程度の距離でついてきていた。改札を定期で入ると、彼女も定期入れらしきものをかざして中に入る。自動改札が開いていたので霊ではないだろうと考えながら、電車に乗って十五分。一人暮らしの自宅にたどり着き、後ろを振り返ったところで致は溜息をついた。
「君、どこの高校? 名前は? さすがに入れるわけにはいかないし、だからって放っても置けない」
「名前は、ルミ。ねえ、一晩でいいから泊めてよ」
「悪いけど、犯罪に巻き込まれたくはないし犯罪者にもなりたくない」
「それってちょっとは私に魅力があるってこと?」
「自分に魅力があるって分かってて言ってるでしょ」
「いかがわしいこと、してもいいから」
「これってあれでしょ、男の理想の姿で現れて、生気を奪ってうんぬんとかいう…」
「雨月物語? それとも、サキュバス?」
 殺人事件のくだりといい女子高生にしては専門性を帯びた知識に致は違和感を覚えた。まさか本当に霊なのだろうか。おそるおそる手を伸ばし、綺麗な卵形をした顔の頬にそっとふれた。そこは温かく、手に触れた感触は女性に他ならなかった。
「入れてくれるでしょ?」
 期待に満ちた目で見上げられて、致は両手を上げたくなった。以前もどこかでこんな目で見詰められ、誰かのワガママを聞いていたような懐かしい気持ちがこみ上げる。「降参するよ」とドアを開けると、ルミはにっこりと笑った。






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