花冠の行方 十八歳

「奈緒、S高の男子にこないだ何か言われてたでしょ? 付き合ってくれとかそういうの」
 現役合格を謳う予備校の広い教室で、癖のある文字を連ねている友人は大したことでもないという口調でぼそりとつぶやいた。
「誰にも見られてないと思ってたんだけどな…どっから見てたのよサヤ」
 詰め込まれているとしか表現できない教室で、隣に座る友人は早綾(さあや)という名前であり、私は彼女をサヤと呼んでいる。
「通りすがりにちょっと見かけただけよ。ちなみに返事はどうしたの?」
「もちろんお断りした。受験に専念したいから」
「嘘八百とはそのような発言を指す」
「ちょっとそれどういう意味? 百パーセント真実だけど?」
 私もサヤも、板書の月を書き写しながら互いの顔を見ずに会話していた。古文の先生はあっという間に月の図を書き終えると、ささやかな私語も許さぬほどの勢いを取り戻しまた解説を始めた。『寝待ち月』という言葉はどこかのんびりした響きだと思う。
 古典の授業が終わると私たちは荷物をまとめて立ち上がった。次の授業は私が生物、サヤが化学で別の教室だ。階段に向かいながら相変わらずサヤはぼそぼそと話しかけてきた。耳打ちしたり、ひそひそ話したり、そういうことをしないところがサヤらしい。音量を絞って堂々と話している方が案外周囲からも目立たないものだ。
「真実は十七歳年上である叔父さんの存在がちらついて同級生の男子に興味が持てない、のほうでしょう」
「そんなことないから。大学生になったら学内に彼氏作っちゃる予定だから」
「またまた」
「サヤこそ人気のある男子に告白されては断ってる癖に」
「男は仕事して稼いでナンボ」
 サヤは予備校近くの百貨店入り口で交通整理をしている警備員の男性と付き合っている。本人は付き合っているという表現を否定するけれど、時々一緒に出かけて身体の関係まで持つのは付き合っている以外の何者でもないはずだ。サヤ曰く『彼は契約社員だが彼の誘導スキルは他の追随を許さないので、この世から車が消えない限り彼の仕事が絶えることもまたない』らしい。三つ編みでお堅そうな美人のサヤに対し、三十歳のサヤの彼はどこか冴えない風貌だが、確かに彼が誘導している姿はちょっとだけかっこいいかもしれない。
 このたくさんの高校生が出入りする予備校で、私とサヤがなんとなく一緒に居る理由は結局そこなのだろうか。同じ穴の狢。
 三○五号教室へ歩きつつ後ろ姿で片手を上げるサヤを見送り、私の方がずっと重傷だけどと溜息をつきたくなった。サヤは高校を卒業すれば大手を振って彼と付き合える。少なくとも、彼が健全育成の名の下裁かれることはなくなる。けれど、私と叔父さんの間には年齢以外にも壁がありすぎた。叔父と姪。たとえ彼が養子故に法律が制限していなくとも、母が泣く。それから、物理的な距離の壁。生き方に対する信念の壁。考えればきりがない。
 まあその前に、肝心の叔父さんには女だと思われてないしね。
 改札口前で手を振る叔父さんを見つけて心の中でつぶやいた。予備校終了の時間がいつもより遅くなる木曜日に、叔父さんは迎えに来る。頻度は二週間に一回程度。ただし、それも叔父さんがまた国を出るまで、つまりあと二ヶ月の習慣だ。車で迎えに来てくれればかっこいいのに、という気持ちがないわけではないが、叔父さんが車嫌いなので仕方がない。彼にとって車は物資を運ぶものであって、レジャーや通勤に使うものではない。電車が利用できる場所で荷物もないのに車に乗るという行為は叔父さんにとって理解できないものらしい。
 叔父さんはまず私の重たい鞄を奪って肩に掛ける。周囲からは娘の鞄を持つ若く甘い父親だと思われているかもしれない。私は堂々と叔父さんの腕に手を伸ばす。拒否されない。叔父さんは姪の私に甘い。多分キャラメルよりも甘い。ただし、姪として。
 叔父さんは懐にいつもキャラメルを忍ばせている。死なないための非常食らしい。帰宅ラッシュとは正反対の電車に二人並んで座ると、叔父さんはポケットからそれを取り出して私に差し出す。本当はキャラメルなんてあまり好きではないけれど、叔父さんから貰った物なので食べる。何でも。もしかしたら毒でも。
「叔父さん、今度はどこの国に行く予定なの?」
「まだ分からない。決まったら一番に奈緒に教える」
「叔父さんが戻ってくる頃私は大学生だね」
「ああ、そうだなあ。早いなあ。あんなにちっちゃかったのになあ」
「うわー叔父さんがオジサンみたい」
「奈緒にとったら俺なんかオジサンに決まってる。何とでも言え」
 さりげなく「大人」をアピールしてみるが通用しない。頬を軽く膨らませると頭をぽんぽんと叩かれた。
「また、花冠を作るの?」
「作るよ。写真、また奈緒に送る」
 前に現地赴任した半年間で、一度叔父さんから写真付きのメールが送られてきた。向こうではカメラもパソコンもネットワークも貴重なはずだから、私用に使っていいの? と疑問に思ったのだけれど、現地のスタッフが家族と連絡を取るために利用許可されているのだという。
 添付されていた写真は、少女が花冠を頭の上に載せてはにかんでいるものだった。白い小さな花だった。少女はとても痩せていた。
「そっか。半年後にはちゃんと帰ってきてね」
 生きて。無事に。幼い子があっけなく感染症で死んでしまう、おそらく体の弱い私が行けば、三日と持たずに日本へ強制送還されてまうだろう土地で。一生、私が知識以上に理解できはしないだろう場所で。
「ああ、日本はあまり好きとは言い難いけど、奈緒に会いに帰ってくるよ」
 叔父さんにとっては、私が初めての遠慮の要らない家族なのかもしれない。私はいつか、叔父さん以上に遠慮無く振る舞える男性に出会えるのだろうか。大学という場所に期待しつつ、一抹の不安が残る。






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