His Lover Is(前)




 就職してまだ一ヶ月の私は新人研修に追われていて、金曜日であるその日も帰宅は八時頃だった。たいていは父も母も食事を済ませて、父は職場に戻っているかテレビの経済チャンネルを見ている、母は後片付けをしている、そういう時間である。だから父も母もテーブルに座って私を待っている、という状況に驚いたし、何かあるな、と思った。すると案の定父は重い声で「真咲 まさき、座りなさい」と言った。
 話の内容は、ひと言で表現すると会社の倒産だった。実のところ「倒産」という言葉に至るまでには父や従業員の皆さんの努力と苦悩が秘められているのだが、そこは説明しない。というか私は完全に説明できる自信がない。父と母の姿を見て育った私は、せめて自分くらい両親の世話にならないようにと、まず倒産のないと思われる職業に就いてしまったからだ。ともかく、大きいとまでは言えないけれど小さいと言い切れるほどでもない父の会社は、倒産してしまった。幸い借金が膨大なわけではなく、ヤミ金融にも手を出していない。だがもちろんまったく金を借りていないわけでもない。父は同じ経験をしている従兄を頼り、海外で働きながらチャンスを探すと言った。さすがの私も目を見開いた。家も家財も何もかも、明日には持って行かれてしまうらしい。良く見回せば家の中が随分とすっきり片付けられている。私は四月から仕事を覚えることに夢中だったけれど、よくよく振り返れば母はここのところ妙なくらい片付けに精を出していた。
 私の住む先は決まっていた。これから頼るお父さんの従兄の、そのまた息子。私より五歳上で、大きな企業の研究職に就いているらしい。私の荷物は母の手で既にほとんどがその家に送られていた。お父さんいくら何でも年頃の娘をよく知りもしないはとこ(しかも男)の家に放り投げますか、と主張したいところだったけれど、父の苦労も知っているから黙っておいた。大学生であれば父と母に付いていくという選択肢もあったけれど、今の私は仕事という責任を持っている。若い時分に海外を経験なんて運が良くなければできはしないものだ。
 だから私は、母の作ったおにぎりを片手に残りの荷物整理を始めるよりほかなかった。旅行用のカートに荷物を詰めていると、母がやってきて「何かあったら、相続放棄だけは忘れないようにしなさい」とつぶやいた。父も母も私を甘やかしはしなかったし、逞しくなれと言われて育った。家の中は経営が苦しくてもずっと明るかった。だけど、その言葉にはやるせなくなって少しだけ泣いた。

 空港までは来ないように、と言われ、私たちは駅で別れた。落ち着いたら連絡すると手を振る父と母は笑顔だったし、何度か会ったことのある父の従兄は記憶の中で信用に足る人物だったから、私も泣かなかった。
 私は、私のことを考えなければならない。それが父と母の望みだ。
 メモに記された住所は電車を乗り継いで下ること四十五分。地方都市の為か駅周辺のロータリーは今まで使っていた駅より広く綺麗に整備されていた。私の職場までは一時間弱、と算出してから携帯電話の地図を頼りに歩いた。道は分かりやすかった。駅から十分ほどで着いたそこは、目を疑う程度には不思議な住宅だった。
 周囲は宅地開発中なのか、林が伐採され区画整理されている途中といった様子。ぽつぽつと建っている住宅はどれも家族向きのごく平凡な一軒家だったのに、表札に「秀島」とある家は明らかに周囲から浮いていた。焦げ茶色の木材で囲われた外壁。一階に玄関はなく、細長い窓が幾つも連なっている。二階入り口までの階段は家の周りを半周するかたちで螺旋状に繋がっている。運び込む家財道具などなかったのがある意味幸運と言えなくもない。家は全体的に小さく、土地は周囲の一軒家と比べ半分程度しか無さそうだった。旅行用のカートを持ち上げるのに少々手間取りつつ階段をあがる。二階の玄関前に立ち、呼び出しボタンを押してカメラを意識していると、ぼそぼそとした男の声が答えた。
「はい、どちらさまでしょう」
「あ、私、夏井真咲と申します。父と母から紹介されて参りました」
 父の従兄である宗叔父さんとは父の職場で何度か会っているのに、その息子である彼とはうんと小さな頃に会ったきりらしく記憶がない。当たり障りのない職場対応用の声を引っ張り出して伝えると、「今行きますよ」と聞こえてからプツリと機械音が途切れた。

 カートを玄関横に置くように言われ、通された場所は一階だった。見た目の印象より広く見えるリビングだった。おそらく、物があまりない為だろう。細長い窓には全てを覆う大きなロールスクリーンが引かれていたが、南向きで光は十分に入ってくる。キッチンに向かう形で置かれたカウンターテーブルに、椅子が二脚。勧められて座った後、目の前に置かれたマグカップには、ミルクティーの色をした何かが入っていた。まじまじと中身を眺めていると、秀島氏が「ああ」と小さく口にした。彼は比較的整った顔立ちながら顔色は今ひとつ青白く、陽の光に当たっていなさそうである。
「ほうじ茶ラテ、飲めますかね?」
「飲めますが…家でそんなお洒落なものを出されたことがないので驚いています」
「牛乳を電子レンジで温めてインスタントほうじ茶を混ぜただけなんですけどね」
 語尾が妙な上がり方をする。研究職の男性とはこんな話し方をするのだろうかと考えながら、とりあえず相手を安心させようとカップに口を付けた。意外に美味しく、気分が少しほぐれた。
 互いに名前と仕事を説明する簡単な自己紹介を済ませた。秀島氏は父の話のとおり研究職に就いていると言った。企業の名前については、聞いたことがあるようなないような、つまり私の不勉強のためか大企業かどうか判断ができなかった。
「あの、私の荷物が届いていますでしょうか?」
 一番気になっていた点を尋ねると、彼はまた「ああ」と語尾を上げて口にした。
「届いてますよ。二階の部屋にあります。あまり広い家じゃないですから、君のスペースは四畳半しかないんだけどね、我慢してもらえますかね」
「と言うか、私がこの家にお邪魔してしまってもよろしいんでしょうか?」
「構いませんよ。君のお父さんには小さい頃遊んでもらった記憶があります。残念ながら君の記憶がないのですが、彼の娘さんですから心配はしていません。ただ、一つだけ、確認しておきたいことがあるんですよ」
 彼の声色から、それが大事なことなのだろうと察して私は思わず背筋を伸ばした。すると彼は立ち上がり、二階に上がってから再び戻ってきた。手に、何かを持っている。
「この子は、僕の同居人でなおかつ恋人のミミです。君がこの子を同居人として許容できるかどうか。それがこの家に住むための条件です」
 彼が持っていたのは、幼い頃に遊んだリカちゃんによく似た、けれどまるで本物の生き物かと思うほど精巧にできた人形だった。年齢は二十歳くらいを想定しているのだろうか人形にしては大人びた表情。肌の質感が本物に似すぎていて怖い。
「てかその子人間じゃありませんよね。同居人って言うのおかしくないですか?」
 元々幼い頃は工場のおっちゃんにかわいがられて育った人間だ。要するに上品は本来あまり得意ではない。仕事用の仮面はすぐに壊れてしまう。ああ、また修復しなければ。
「まあ、厳密に言えば、その通りだね」
 秀島氏は予想に反してあまり表情を変えなかった。気を悪くしている様子はない。仮面の修復は放棄。
「その子は人形ですよ? 世話をしろとか言われても、できません」
「そんなことを君に任せる訳がないじゃないか。君はただ、この子が居ることと、僕にとって非常に大切な存在だということを許容できればいい」
 父や母が聞いたらひっくり返りそうな気もしたが、幸い私には免疫があった。エミール・ガレの『手』という彫刻作品にほとんど恋をしていると言っていいほどの男に出会ったことがある。思えば、彼と秀島氏はどこか似ているかもしれない。
「あなたが私の大事なぬいぐるみのオコジョさんを馬鹿にしなければ、私もその子を許容すると約束します」
 秀島氏は何度か目を瞬かせた後、意外そうな顔をして笑った。そうして、私は彼の家に居候させてもらうことになった。





COPYRIGHT (C) 2010 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.