His Lover Is(後)




 私が秀島氏の家に居候するようになってから、一年が経った。両親からは月に一度、私の携帯電話にメールが届く。宗叔父さんの会社で働いているらしく、メールの文面では二人とも元気そうだ。秀島氏は相変わらず料理上手で、相変わらずミミを恋人と呼んでいる。私はミミと顔を合わせても怖いと感じなくなった。ただ、いまだに秀島氏とミミの取り合わせには違和感を覚えてしまう。
「秀島さんは、人を恋人にするつもりがないんですか?」
 秀島氏の作った鮭フレークちらし寿司と切り干し大根の味噌汁をカウンターテーブルの上に置きながら、私は思い切ってそう尋ねた。この一年で秀島氏を兄とはこういうものかもしれないと思うようになっていた。彼はこの先ずっとミミと暮らしていくつもりなんだろうか。
「人を恋人にしない男っていうのは言葉として矛盾してるんだろうな、とは思ってるんですよ」
 秀島氏はどんなに親しい相手にも丁寧語を使う。語尾の妙な上がり方は、おそらく癖として彼に染みついてしまっている。
「言葉の矛盾はともかく、宗叔父さんは心配してないんですか?」
「父さんはミミのことを知りませんよ。ミミのことを知っているのは、前に付き合っていた女性と真咲ちゃんだけです」
「人の女性と付き合ったことがあるんですか?」
 驚いて思わず身を乗り出してしまった。
「失礼な。ありますよ。ただ、ミミのことを告げたら別れを切り出されました。人形に負けるだなんて耐えられない、が最後の言葉だったな」
「それは確かに女性にとって辛いです」
 女である私は秀島氏に同情できそうになかった。
「僕としてはどちらも大切だったんですが…それ自体が女性にとってミミに負けるということなんだと思い知りました。僕が女性と付き合うのは難しいでしょうね」
「なんでそんな他人事みたいに…私秀島さんが心配ですよ」
「真咲ちゃんは僕より自分の心配をしなさい。特に料理の腕とか、ぼんやりした性格とか」
 私は味噌汁でむせそうになりながら秀島氏を睨んだ。秀島氏は最初私に『仕事ができそうにない女性』という印象を持っていたらしい。冬にインフルエンザで高熱を出し、仕方なく自宅から職場に電話をかけた際、熱に浮かされながらも何とか「仕事モード」を保っていた私の声を聞いてひどく驚いていた。『意外と仕事をちゃんとやってるみたいですね』などと失礼なことまで言われ、言い返したかったのだけれどその時には熱で口を開くのも億劫だったのだ。
「職場ではぼんやりなんてしてませんよ。料理は…どうやったら秀島さんみたいなセンスを身につけらるのか教えて欲しいんですけど」
「センスじゃなくて丁寧さと慣れです。真咲ちゃんはぼんやりしててタイミングを逃す。キッチンタイマーを使えと何度言えば分かるんですか」
「つい忘れちゃうんですよ」
「使いなさい。使わないと味見してあげません」
「…はーい」
 途中で話が変わり秀島氏の恋人の話をあまり聞けなかったと気付いたのは、夕飯を食べ終わった後だった。

 ちょっとした、気の緩みだったのだと思う。秀島氏がミミ以外に興味を持ちそうにないという思い込みだとか、私にとって秀島氏が兄に近い存在になりはじめていたりとか。秀島氏は生身の女性に興味が無いとは言っていなかったのだ、ひと言も。
 浴室に入る前、部屋着のワンピースを脱いで下着姿になったところで着替えが足りないことに気付いた私は、その足で自分の部屋まで着替えを取りに行った。実はそれまでにも何度か同じことをしていたのだけれど、秀島氏に見られたことはなく油断していた。下着姿の私は、秀島氏と廊下で鉢合わせをしてしまった。考えてみれば、起こりうるごく当たり前の出来事である。
 驚いておたおたしている私を見た秀島氏は、眉を寄せて「早く部屋へ入りなさい」とだけ言い残し階下へ去っていった。だから私は『まったく、やっぱり秀島さんは人間の女性に興味が無いのかしら心配』くらいに考えていた。次の日、秀島氏が私の部屋に現れるまで。
「真咲ちゃん」
 ノックの後に入ってきた秀島氏の手には、ミミが乗っていた。秀島氏がミミを私の部屋に連れてくるのは初めてだった。
「どうしたんですか、秀島さん」
 秀島氏はミミをベッドサイドのオコジョさんの横にそっと座らせた。そして指先でミミの胸元から腰、太腿にかけてをゆっくりと撫でた。その仕草がひどく性的だったので、目に映る指先の動きと人形のアンバランスさに息を飲んだ。
「これから僕が君に持ちかけるのは、卑怯な取引だ。嫌なら、断ってくれて構わない。ただ、その時には君も僕も一緒に暮らすことは辛くなるだろう。どこか職場の近くにでも部屋を借りて出て行って欲しい」
 ふと、前の日の鉢合わせを思い出して、何かが起こったのだと私は後悔した。それ以上言わないで欲しいと、駄々をこねれば秀島氏は何も言わなかったかもしれない。けれど、いつまでも秀島氏に甘えていてはいけないと知りながら、居心地の良さに甘えてここまでずるずると居座っていた私に問題があるという意識もあったから口を開けなかった。秀島氏はミミから指を離し、私へ向き直った。
「君のお父さんとお母さんが、父の会社を辞めました」
 私は馬鹿みたいに口を開けて「え?」と小さく声に出していた。必至に母とやり取りしたメールを思い出す。宗叔父さんのところで順調にやっていると記されていた、はずだ。
「君のお父さんとお母さんは、近いうち日本に戻るでしょう。ただ、君のお父さんの借金は僕の父が肩代わりしています。元々この辺り一帯は父の持ち物でしたが、君のお父さんの借金を払うために売り払いました。残ったのがこの小さな土地です。もちろん、君のお父さんは少しずつお金を返してくれていたようですし、これからも返すつもりでしょう。しかし、これで当面返す当てはなくなりました」
 自分の思考が硬直していることが疎ましかった。何も考えられない自分が不甲斐ない。とりあえず謝ろう、と決めた直後に、秀島氏は言った。
「君の体で、返すつもりはありませんか?」
 私が水商売などできるはずもない。そのくらいなら多くはない給料でも毎月返してく方がいくらか確実だろう。首を傾げると、秀島氏は目を逸らした。下を向いてから、ためらいがちに私の体を、つま先から首筋まで視線で追った。ミミの体を指でなぞった時の目だった。
「君のスタイルは、ミミそっくりです。まるで、生身のミミです。以前から少し似ているとは思っていましたが、昨日確信しました。胸の形から太腿のラインまで、ミミをそのまま大きくしたようだ」
 秀島氏の視線にぞわ、と背中を何かが走った。悪寒ではない。不快と決めつけることもできない。快感でもない。あえて言えば、好奇心から来る興奮だったのかもしれない。今までミミ以外に男という要素を感じさせなかった秀島氏の、決して表には出せない暗い欲望の類を目の当たりにして。
「秀島さんと寝れば、借金は返さなくてもいいってことですか?」
 秀島氏に対する感情が、突然揺らいだのを感じた。兄のようだと思っていたはずだけれど、それだけではない好奇心を彼に抱いていたのだろう、私は。
「そうだね。取引が成立するならば、父に君からと偽っていくらかまとまったお金を送りましょう。そうすれば君の給料がいくらか上がるまで、返す必要もないはずです」
 きっかけは自分の気の緩みで、結果はバッドエンドでもハッピーエンドでもない。私にも秀島氏にもどちらかなんて分からないはずだ。
「取引は成立です。ただ、一つ、お願いがあるんです」
 ただし、勝ったか負けたかと問われれば、秀島氏に負けたのだという気がしていた。
「唇にも、ちゃんとキスしてください」
 突かれたような表情をした秀島氏は、唇を噛んでから頷いた。

 視界の端でずっと、ミミとオコジョさんが並んでいた。
 避妊具はベビーパウダーと一緒に買ったのだろうか。終わった後に考えられたのは、それだけだった。

 母からメールが届いたのは、次の日だった。宗叔父さんの事業が好調で、日本の京都に支所を作ること。父はその支所で働くことが決まったこと。一日ずっと胸の奥に引っかかっていた棘は、そのメールですっきりと流された。秀島氏が『卑怯な取引』という言葉を強調していたこと、唇を合わせる直前の痛ましい表情。嘘をついてまで、私の体に触れたかったということならば、それはそれで嬉しい気持ちもある自分の気持ちが解せない。
 どうして私に興味を持つ男性は、体の一部分しか見てくれないのだろう。

 部屋には、黒酢の匂いが漂っていた。鶏肉と里芋の黒酢煮は秀島氏の得意料理であり、私の好物だ。黒いエプロンを着けた後ろ姿に、私は話しかけた。
「秀島さん、母からメールが届きました。父が、宗叔父さんの会社の京都支所で働くって」
 後ろ姿は、じっと鍋を見つめている。
「どうして、あんなすぐに分かってしまうような嘘をついたんですか? 秀島さんならもっと巧妙な嘘を準備できたんじゃないですか?」
 秀島氏はコンロの火を止めてから、振り返った。
「あのくらい卑怯で分かりやすい嘘をつかない限り、真咲ちゃんの肌に触れていいとは思えなかったんですよ。だから詰っていい。殴ってもいい」
 秀島氏は普通に抱きたいと言えなかったのだろう。後で、ミミの体に似ているから抱きたかったのだと伝えればを傷つけると思ったから。最初から、契約に見せかけて事実を伝えたかったのかもしれない。
「秀島さん、私、明日ここを出ます」
 明日は休日だ。秀島氏と一緒にテレビゲームをする約束をしていた。もし私が下着姿で着替えを取りに行かなければ、今も有効な約束だっただろう。
「…どこかに、行く当てがあるんですか?」
「今日、ウィークリーマンションの空きを見つけました。仕事帰りに下見もしてきました。明日から入れるそうです」
「真咲ちゃんは、そういうところだけしっかりしてるんですね」
「『そういうところだけ』は余計です」
 秀島氏は小さく笑みを浮かべてからまた背中を向けて鍋を見下ろした。
「夕飯、真咲ちゃんの好物にしておいて正解でした」
「ありがとうございます…お世話に、なりました」
「なんで娘を送り出す父親に対してみたいなことを言うんですか…もっと、殴ったり蹴ったり罵ったりしていいんだよ」
 語尾が上がる癖の代わりに、声が震えていた。この一年で初めて、秀島氏の強い感情を見たのかもしれないと思った。

 旅行用のカートを引きずって、ガコガコと階段にぶつけながら下りていった。残りの荷物は秀島氏が新しい住所に送ってくれる。一番下まで着いてから振り返ると、玄関の前で秀島氏が小さく手を振った。私はカートを置きっぱなしにして階段を駆け上がり、秀島氏の細い体に抱きついた。
「また、遊びに来ます」
「いつでもどうぞ」
 秀島氏と私が恋人になることはないだろう。彼の恋人は永遠にミミなのだ。でも、きっと私はこの家に来てしまう。はずみでまた寝てしまうこともあるかもしれない。私と秀島氏の関係は、きっと秀島氏にだって上手く表現できないに違いない。
 ゴロゴロと音を立てる旅行用のカートを引いて歩きながら、苦しい時でも明るく振る舞うことができる父と母に早く会いたいと思った。





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