不適格な二人(1)




 大学時代の友人との待ち合わせに学祭中の大学を選んだ理由は、単にお互いが確実に知っている場所だったからだ。思いのほか早く大学に到着してしまった治美はるみは、現在部の後輩と交流を持っていない。仕方なく、特にどこへと顔を出すでもなくぶらぶらと見物をしていた。
 ぐるりとキャンパスを歩くと、大学は考えていたよりずっと変化していた。学生会館は取り壊されて新築されたようで、学生時代の雑多で薄暗い空間は消えていた。治美は部活に思い入れが深い人間ではないが、それでもあの頃使っていた建物がまるごと消えて似ても似つかないものになっているという光景はどこか不思議だった。ぼんやりと見上げていると、目の前に同じ姿勢で立っている人物が居ることに気がついた。気配を感じ取ったのか振り返ったその男は、治美の顔見知りだった。
「あれ……もしかして、小塚?」
 彼の片方の眉がわずかに上がり、思い出したような声で治美の名字を告げた。
「久しぶり」
 明るい茶色だった彼の髪は黒くなっていたが、顔立ちはあまり変わっていなかった。大学で二年間同じゼミを取っていた高須賀だった。
「久しぶりだな。あっれ、小塚は普通に就職したんだったっけ?」
「そうよ、普通のデスクワーク。かろうじてまだ続けてるわ。高須賀は似合わない先生だっけ?」
「ああ、似合わない窓際の高校教師」
「教師に窓際なんてあるの?」
「少なくとも上の人間たちには問題児だと思われてんな。まあ首になんない程度はわきまえてんけど。授業組み立てんのも、こっち次第で生徒の反応が変わんのもおもしれえし」
「新聞沙汰になるのは止めてね。バッシングすごそうだもの」
「ああ……せいぜい気をつける」
 一瞬の間を少し疑問に思ったが、聞き流せる範囲だった。高須賀は治美の隣に立つと、先ほどと同じように丸ごと消滅し出現したかのような学生会館を見上げた。
「何か、変な感じだよな」
「うん、同じ場所なのに同じ場所じゃないのね」
 二人で新たな学生会館を見上げたまま、しばらく動けなかった。やがてぽつりと高須賀が口を開く。
「小塚、学祭に毎年来てんの?」
「ううん、卒業以来初めて。友達と待ち合わせなの。あと十五分くらいかな。高須賀は毎年?」
「ああ、サークルの後輩に差し入れ。つっても今年で終わりだな。知ってる後輩はもう卒業だからさ」
「サークルってバスケだっけ?」
「そうそう、バスケ。なあ小塚、今時間ねえならさ、別の日に食事でも行かねえ?」
 治美が視線をやや下げて高須賀に合わせると、右顎を掻きながら「いや、単に学館が変わっちまったの見て郷愁に襲われただけなんだけどさ」とつぶやいた。昔その場所はひげの剃り残しがあったものだが、今は他の部分と同様綺麗に剃られていた。
「構わないけど。メルアド変わってないの?」
「ああ、変わってない。小塚は?」
「ごめん変わった。あとで私からメールするわ」
 腕時計を確認し、そろそろ移動しなければ待ち合わせ場所に到着できないと治美は手に持っていた鞄を肩に掛けた。
「私、そろそろ行くね」
「ああ、メール待ってる」
 その場から動かない高須賀に「じゃ」と言い残して治美は歩き出した。

 再会の次の日、食事はいつがいいの? というメールを送ると直近の週休日を指定された。普段出かける際にはほとんどジーンズだが流石にスカートくらいは、とクローゼットを探すと木綿のワンピースが出てきたのでTシャツと合わせカーディガンを羽織ることにした。
 何かを期待しているかと問われればイエスと答えられそうだが、心が弾むかと問われればノーと答えるしかない。治美は学生時代を思い出していた。高須賀とは一度だけ身体の関係を持ったことがある。ゼミの飲み会でまだ当時売れていなかったロックバンドの話で盛り上がり、他に一緒に行く人が居ないからと二人でコンサートへ足を運んだ。終わった後、浮き上がった気持ちがそうさせたのか公園で抱き合って、そうしたら止まらなくなってホテルに向かった。音量で馬鹿になった耳の所為か自分のしていることがどこか遠くて、結局高須賀と寝たのはその一度きりだった。
 おそらく、食事以上の事はないだろう。けれど、久しぶりに本音を交えた会話ができるかもしれないと期待して、治美は家を出た。

 音楽の趣味が合うと、案外会話は途切れないものだな、と考えながら治美は高須賀の隣を歩いていた。高須賀の行きつけだと言う韓国料理の店は、韓国語も日本語も飛び交う空間で最初不安だったが、石焼きビビンバもカクテキも美味しかった。
 ゼミで高須賀が高校教師になると聞いて当時似合わないと口にした治美だが、年数を経た高須賀は案外高校教師らしいと思える人物になっていた。崩れた言葉遣いは相変わらずなのに、仕事の話になると突然固い言葉や丁寧語が挟まれる。毎日決まったスーツの組み合わせを順番に着ていけばいいから楽だと語る高須賀は、確かに大学当時から流行に興味のない男だった。治美の職場に少数ながら居るような、やたらとスーツやネクタイにこだわりブランドを気にする男の方がきっと高校教師としては浮くだろう、と思った。
 駅へ向かう狭い裏道を歩いている途中、突然高須賀が視界から消えたので治美は立ち止まって振り返った。高須賀は立ち止まって道沿いにあるホテルの入り口を見ていた。ホテルは時間利用料金が記されている類のものだ。
「どうかしたの?」
「いや……何でも」
 その間に記憶があった。新聞沙汰になるのはやめてね、と治美が言った時の間だった。
「そこに入って、誰にも聞かれたくないような話でもしたい?」
 三歩進み高須賀の目の前で足を止めて見上げると、目を逸らして頷いた。
「ああ、すまん。ちょっと、いいか?」
「新聞沙汰をどうにかできるような人間じゃないけど、それでも良ければ」
 高須賀は苦笑して「聞いてもらえればいい」と漏らした。

 ソファやテーブルなどという気の利いたものはないため、治美と高須賀はベッドに並んで腰掛けた。下を向き、膝に肘を立てて手を組んだ姿勢の高須賀はしばらくの沈黙の後でぽつりと語り始めた。
「新任一年目の年に、部活で受け持ってる生徒に告白された。優秀で可愛い子だった。自分だけじゃなくてその子の未来も棒に振るのはいかんと思った。だから付き合ったりできないんだと断った。でも告白されてから意識しちまって、その子に視線が止まっちまうようになった。その子が卒業するまで。まあ、卒業前には彼女同じ学年の男と付き合ってたみたいだけどな」
 高須賀は姿勢を変えなかった。何をそんなに思い詰めているのか、その時点で治美には予想がつかなかった。
「そこまでは、いいんだ。五つ年下の女の子に好意を抱くくらいそんなにおかしなことじゃなし、手も出してねえし。だけど、それ以来制服を着てる女の子にしか目が行かなくなった。さすがに教え子はそんな目では見ないように努力してんだけどな」
「つまり大人の女には魅力を感じないってこと?」
 治美が単刀直入に尋ねると、まだ前を向いたままで高須賀は頷いた。組んでいた手を解いて右顎を掻く。
「そうだな。『お、可愛いな』って思うのは制服着た女子高生ばっかだな」
「卒業したその子と、付き合いたいとは思わないんだ」
「ああ、もう思わねえ」
「職業柄を考えると重傷ね」
「辞めた方がいいのかな」
「何とも言えないけど」
「治す方法ねえのかな」
 自分の欲望に悩むと、出口がない。治美はその痛みを知っていた。
「簡単に治るわけがないわ。経験から言って」
 高須賀が顔を上げた。今度は治美が顔を逸らす番だった。でも、仲の良い友人すら話していない話を高須賀には伝えてみたいと思った。
「会社に入って一年目の時、上司と不倫してた。鏡が大好きな変態で、いつも最中の姿をを見せられた。そのせいなのかは分からないけど、別れた後『他人の男女がしてるところを見る』って行為に一番感じるようになったわ。まさか男女の行為を目の前で見るなんて不可能だから、映画だとか借りてくるしかないんだけど」
「いや、それさあ、鏡があればいいんじゃねえの?」
「試したことない。男単独にはあまり惹かれないから。目の前で自慰してくれれば別だけど」
 ぶっと吹き出して口を押さえた高須賀を見ると、笑っているという訳では無さそうだった。口を押さえたまま複雑な顔をして治美を見た。
「それはちょっと男的に勘弁だな。せめて奉仕してくれって感じだ」
「まあそれは構わないんだけどね。でも奉仕だけで終わりって訳にはいかないでしょう、普通」
「あー、まあな。普通な。俺はもう普通じゃねえけど」
 「普通じゃない者同士ね」と妙なシンクロに治美が笑ってしまうと、高須賀も歯を見せた。
「俺大学の頃誰とも付き合わなかったんだよな。高校の頃は彼女いたんだけどさ。だから、制服を着てない女でやったのって小塚だけなんだ。せっかくだから、鏡のある部屋でも探すか?」
 実のところ治美は自分の性癖について半ば諦めていたが、高須賀は職業上何とかしたいと考えている様子だった。しかし何とかしてあげられるほど自分が魅力的とは思えない。治美に思い描けるのは、一時的な慰め程度だった。
「そんな必要ないわよ」
 治美は立ち上がって高須賀の前に跪いた。脚の間に膝を進め、右の手のひらで彼の両目を隠す。
「目、閉じて」
 手を離すと、素直に瞳が閉じられていた。
「制服着た女の子でも、想像してればいいわ」
 シャツの裾をまくり上げてベルトをはずしても高須賀はなすがままだった。取り出して直に触れると頭上で息をのむ気配がした。欲にとらわれた男が目の前に居る。欲の対象はむしろ自分でなくていい。意外と名案だっただろうかと思いながら、治美は触れていたものを口に含んだ。

 かはっ、という自分の咳と共に唇から流れ出たものがワンピースを汚した。まだ目を閉じたままで息を荒げている男から離れ、洗面台で口をすすぎ濡らしたハンカチでワンピースを拭いた。体の奥が温かく疼く。
 治美はベッドに体を投げ出した。まだ端に座って後始末をしている様子の背中を見上げ、シーツを引き寄せて被る。少しうたた寝をしたいと思った。
「小塚はこれで満足なわけ?」
 不意に話しかけられてくっつきそうだったまぶたが薄く離れた。
「まあそこそこ」
「分っかんねえ」
 シーツの中に潜り込んできた高須賀と指が触れた。中指だけが動いて絡まってきたのでそのまま受け入れた。私たちはまともに見えてちっともまともな社会人ではないなのだろうと考えながら、治美は浅い眠りの海に落ちた。






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