常緑樹の庭(1)




 実乃理が中学校に入るとき、両親は基地の跡地に建てられたマンションを購入した。移り住んで時間が経ち周辺の地理を理解していくにつれ、マンションの近くには木造洋風の古い平屋がぽつぽつと点在していると実乃理は気がついた。以前住んでいた場所では見たことのないその一軒家の雰囲気が気になり、実乃理は両親にあの家はなんだろうと尋ねた。両親はこの辺りが米軍基地であった頃、基地の外国人達が住んでいた家が残ったものだろうと説明した。
 基地の名前を冠した「カフェ」の存在を知ったのは、高校に入ってからだった。と言ってもお茶をするカフェではなく、夜だけ開いている店だった。実乃理はたびたび高校からの帰り回り道をしてその前を通り過ぎた。木枠の窓越しに見える紫や青のぼやけた光を見るたびに、映画「バグダット・カフェ」を思い出し、一度入ってみたいと思った。けれど、優等生ばかりが集まった地元高校に通うようになった高校生の彼女にはそんな勇気はなかった。
 「バグダット・カフェ」は主題歌の「コーリング・ユー」に興味を惹かれて借りた。内容自体は高校生の実乃理には理解しづらいものだったが、主題歌の魅力は引き立っていた。だからそのカフェにも、もしかしたらそんな音楽が流れているのかもしれないと、実乃理は一人密かに期待を膨らませていた。
 カフェ周辺を歩くようになってから、裏手に同じようなつくりの平屋建て一軒家が固まって残ってることを知った。実乃理は剥げたペンキのその家々に惹かれ、時折人気のない路地に入っては家を眺めた。五あるうちの二軒には、いかにも古そうな、けれど綺麗に磨かれた英国の古い型の車が停められており、人が住んでいるのが分かった。他の三軒は、庭の木々に視界を阻まれて中の様子があまり覗えず、人の気配を感じ取ることができなかった。
 ある日、実乃理が帰宅途中その路地に入ると、家の周りのコンクリートブロックが低く積まれた塀に、「住居者募集」と張り紙が付いていた。一般家庭にもありそうなプリンタで印刷されており、ビニール袋に入っている。その家は常緑樹に囲まれ、窓の向こうがよく見えない家の一つだった。夕日に照らされ紫に染まった張り紙を見ながら、実乃理はいつか住んでみたいという気持ちと、隙間風で寒そうだという気持ちの間で揺れながら、高校生の現実にはありえない想像を描いていた。


 高校の図書館で興味の持てる小説を見つけられなくなっていた実乃理は、学校の近くにある市立図書館で時間を過ごすことが多くなった。学校の図書館は予算不足のためかまだ紙の図書カードが使われている。実乃理の気に入った本には既に彼女の名前が二つ以上記入されており探し尽くした感があった。学校のある市の図書館は住んでいる市の図書館より大きく蔵書数が多い上、椅子も数多く揃っている。本を探すには比較的快適な場所だったため、つい足が向いてしまうようになった。
 午後四時半、実乃理は制服のまま気になるタイトルの小説を片っ端から手にとって冒頭部分をつまみ読みしては戻していた。彼女の片ほどの高さの本棚に本を戻し、今日借りる事に決めた二冊を抱えなおして顔を上げると、二つ前の本棚から同じタイミングで顔を上げた白いワイシャツに銀縁眼鏡の男子高校生と目が合った。思い切り目が合ってしまったせいで実乃理は後ろめたい気持ちになり、急いで顔を逸らすと彼の横を通り抜けて貸し出しカウンターへと向かった。すれ違いざま彼が手に取っていた本の題名が目に入ったが、プログラミングという文字以外は全てアルファベットが並んでおり実乃理には一体何のプログラミングの本なのかも判断することができなかった。


 次の日、実乃理は学校の廊下でコーリューブンゲンを両手で胸の前に抱え憂鬱な気持ちで歩いていた。実乃理の交友関係はあまり広くなく、選択教科の音楽には仲のいい友人がいないため一人で音楽室へ向かっていた。廊下の中ほどで実乃理がふと視線を感じ顔を上げると、目の前から歩いてきた男子生徒と目が合った。昨日の図書館の生徒だった。実乃理の高校の制服の夏服は男子が黒いズボンに白いワイシャツ、女子が黒のプリーツスカートに同じワイシャツで、特に男子は近隣の高校と見分けがつかない。同じ高校だったのかと思いつつ、声をかけるわけにもいかず結局目を逸らして隣を通り過ぎた。廊下を曲がる時、後ろを振り返ると彼が理系クラスの二年一組に入っていくのが見えた。実乃理の文系クラス二年八組は渡り廊下を渡った先の東校舎にある。あまり人の顔を覚えることが得意ではない実乃理は、同じ学年にあんな男の子がいたのかとぼんやりと考えながら本校舎の音楽室へと向かった。七月の蒸し暑さは思考を奪う。
 実乃理は苦手のコーリューブンゲンの楽譜を広げていた。選択音楽はほとんどコーリューブンゲンとイタリア語の歌で授業が進む。イタリア語でもドイツ語でもなく、せめて英語、時々は日本語の歌が歌いたい、と実乃理は窓の外の青い空を眺めた。それから、先ほどの男子生徒のことを思い浮かべた。彼の持っていた、分厚いプログラミングと書かれた本。プログラミングというからにはコンピュータ関係の本であることは間違いないだろう。ついつい『いいなあ』という抱いても無駄な類の嫉妬心がわき上がる。実乃理は理数系の教科があまり得意ではなく、機械も苦手である。同じクラスになれば自然と尋ねたりできるかもしれないと思い描いてみた。だが、そもそも実乃理が理系クラスに入る可能性などないことに思い至り、訳もなくコーリューブンゲンを投げ出したい気持ちになった。


 スーパーマーケットからの帰り道、豚フィレ肉とレモンの入ったビニール袋を手に提げ、実乃理は常緑樹に囲まれた一軒家の前に立っていた。ふと思いついて入居者を募集しているのか確認しようと思っていただけだったのだが、コンクリートブロックからは張り紙がはがされていた。足を止めて中をうと、表札は無かったが、ドアの近くに新しいトタンのゴミバケツが置いてある。おそらく入居者が決まったのだろうと、実乃理は少しがっかりした気持ちでその光景を眺めていた。ふと気付くと、玄関のドアが動いている。実乃理は不審者に間違われては困ると一軒家に背を向けて歩き始めた。
「あ、」
 若い男性のものと思われる、何かに気付いたような声を聞き、実乃理は足を止めて振り返った。
「あ…」
 ドアから出てきた人物は、図書館で見かけた同じ高校の男子生徒だった。実乃理も気付いて思わず声を漏らしてしまったものの、相手の名前さえ分からず声をかけることもためらわれた。相手のほうも何かを逡巡しているのが分かり、焦った実乃理は三歩後ずさりをしてからもう一度彼に背を向けて早歩きで逃げた。








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