常緑樹の庭(2)




 パートから帰ってきた実乃理の母親は、キッチンのカウンターに置かれたレシピを見て「また変わった物を作るのね」と呆れ声を出した。レシピは図書館で借りてきた本をコピーしたもので、写真の中では豚フィレ肉のソテーが美しく並んでいる。
「まだそんなに慣れてるわけじゃないんだから、もう少し簡単なものを作ったら?」
 実乃理は高校二年の一年間、週に一回は夕食を作ると、パートに出ることを決めた母親と約束をしていた。母親がパートに出だした理由が、実乃理の大学進学のためだからだ。実乃理ははじめ家計を考えて国立文系を目指していた。現在も国立文系クラスだが、目指す学部が国立文系に少ないことから私立文系に転換するつもりだった。
「簡単なものって何?」
「カレーライスとか」
 カレーなんて小説に出てこないわよと思った実乃理は小学生の頃読んだ小説にカレーライスの描写が出てきた事に気付いて「やだ」と言おうとした口をつぐんだ。母親は返事の無い実乃理に別の話を始めた。
「それにしても疲れたわ。ちょっと聞いてよ実乃理、今日は自分でフラペチーノ頼んでおいていざ出したら『こんな冷たいもの寒い日に飲めないでしょう?』なんて言い出すお客さんがいたのよ? もう七月なんだから寒いも何もないわよね。だいたい意味が分からないなら最初から聞けばいいのよ。聞かぬは一生の恥だわ」
 チェーンのコーヒーショップで働き始めた母親は愚痴が増えたが、性に合っているのか生き生きしているように実乃理には思えた。
「んー友達がこっそりコンビニでバイトしてるんだけど、やっぱり変なお客さん居て大変みたいだよー」
 母親の愚痴は、適当に肯定して聞き流すに限る、とこれまでの経過で実乃理は学んでいた。
「まあ、どこも客商売はそんなものかもねえ」
 頷く母親を前に、実乃理は別の事を考えていた。
「…やっぱり、次はカレーにしようかな」
「なあに、カレー?」
「自分で言い出したんじゃない」
「聞こえてないのかと思ったのよ。そうね、カレーね、まずカレーを美味しく作れるようにならないとね」
 まあ、今はその前にフィレ肉のソテーだわ、と実乃理は豚肉を包丁の背で叩き始めた。


「あ、実乃ちゃんまだ居たの?一緒に帰る?」
 教室で友人から借りた漫画を読み耽っていた実乃理は、その声に顔を上げた。同じクラスで陸上部のマネージャーをしている遠野夕菜ゆうなが、制服で目の前に立っていた。彼女は実乃理のことを実乃ちゃんと呼ぶ唯一の人物だった。芸能人の司会者のようで最初は変えて欲しいと訴えていたのだが、こりることなく呼んできたので実乃理の方が慣れてしまい先に折れた。
「もう練習終わりなの? 早くない?」
「明日試合だから、疲れすぎないように早上がり。その代わりこの荷物だから」
 夕菜が抱えている革の箱のような鞄を見せた。中身は電気治療の機械で、見た目よりずっと重い。
「明日、試合なんだ」
「うん。見に来る?」
「行かない。合わせる顔ないし」
 実乃理は二ヶ月間休部していた陸上部を、正式に退部したばかりだった。腰骨の上右辺りの痛みが引かず、病院で検査をしても原因は不明。練習を控えるしかないと医者に言われた末の決断だった。
「何、それ漫画?面白い?」
 暗い表情になった実乃理を気遣ってか、夕菜は積み上げられた本を指差した。
「うん、面白いよ」
「漫画なら私も読めるかも。実乃ちゃんの?」
「ううん、内山さんの」
「あー、そうなんだ。私あんまり話したことないんだよね。まあいっか。今度実乃ちゃんが面白いの買ったら貸してよ」
「んー私は買うの小説ばっかりだからな。ユウ小説読まないんだもん」
 『ユウ』は夕菜の部活内の呼び名であり、最初は別の呼び方をしていた実乃理も周囲につられ結局彼女をそう呼んでいる。実乃理の言葉に、夕菜は眉を寄せて腕を組んだ。
「だって難しいよ」
「そんなことないって」
 実乃理はまだ読んでいない分を紙袋に詰め、鞄を肩に掛けて立ち上がった。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん」


 暗い廊下を夕菜と二人歩いていると、渡り廊下側から二人の男子生徒が姿を現した。
芳賀はが、今終わり? 早いじゃん」
 夕菜が男子生徒の一人に話しかけた。実乃理は顔を見て、夕菜と同じ中学出身で比較的仲の良い男子であることに気付いた。短く揃えられた髪が運動部のような印象を与えるが、確か運動部ではなかったな、と実乃理は記憶をたどる。
「あー、今日は気が乗らないから帰り」
「何そのいいかげんな部活?」
 陸上部の熱心なマネージャーである夕菜は芳賀の気だるい返事に納得が行かなかったのであろう、多少棘を含ませた声を上げた。
「俺らだけじゃなくて、パソコンも気が乗ってなかったんだよ」
「パソコンに気持ちなんて無いでしょうが」
「気持ちは無いけど気分屋なんだよ。どうにもフリーズが多くてさ。まあもうどれも古いからある程度は仕方ないんだけどな。とりあえずメンテナンスだけしてお開きにした」
「ふーん。ナンカ言い訳っぽいけど」
「お前だって今帰りなんだろ?」
「明日試合だもん。実力あるのに運動部全部蹴って訳のわかんない部活やってる芳賀と一緒にしないでよ」
 夕菜の声の響きはどこか痛ましく、実乃理は止めるタイミングを逸した。夕菜は中学校の頃エースと呼ばれるほどの短距離走者だったが、高校に入ってタイムが伸びずにマネージャーに転向している。一方の芳賀は噂話が苦手な実乃理ですら文化部なのに運動が出来るという評判を聞いたことがある。
 夕菜もしかしてこの人のこと好きなのかな、と何とはなしに実乃理は勘ぐっていた。突っかかる夕菜と、宥めつつも丸め込む芳賀という図式が出来ている。そしてお互いどこかしらに本音を隠しているという雰囲気を実乃理は感じた。
「訳わかんねーとか言うなよ。内容によっちゃ手に職な実益部活なんだからさ。まー俺は大した事やってないけど、仲舘はすごいぜ」
 さわやか芳賀少年(と今しがた実乃理は心の中で位置づけた)は後ろを振り返って体の位置を変えてから、もう一人の男子生徒を指差した。芳賀の後ろに居た男子生徒の顔を見上げた瞬間、実乃理は「あっ」と上げそうになった声を飲み込んだ。彼は、『図書館プログラム少年』だった。
「俺だって大したコトしてねーよ。余計な事言うな」
 ぼそぼそとした呟きだったが、見た目の印象より声が低いな、と実乃理は思った。良く見れば白い喉に喉仏が目立って突き出している。そうかマニアが集まっていると有名なパソコン部だったのか、と実乃理は図書館で彼が手に取っていた本を思い浮かべ一人納得していた。
「え、何? 何してるの? 手に職?」
 きっと芳賀少年のやっている事を知りたいのであろう夕菜が目を丸くしてプログラム少年に詰め寄ると、彼はあからさまに身体を引いた。
「いや、ほんとだって。エクセルって表計算のソフトを使ったりしてるだけだよ」
 夕菜が実乃理を振り返って考える仕草をした。解説してほしいんだな、と気付いた実乃理は口を出す事にした。
「ほら、この間うちのクラスも情報の授業でやったじゃない。セルに入力していって、合計を出したり。社会に出たら必要かもしれないからって、情報の小畠がゆってたやつ」
 夕菜は頷いて芳賀少年のほうに向き直った。
「ふーん。今から就職とか考えちゃうんだ」
「慣れりゃ誰でもできんだから、差にはならないけどな。ま、やらないよりマシっていう」
 夕菜は分かったような分からないような表情を浮かべつつ、「ま、いいや、帰ろ」と実乃理に向かって言った。さらにどこか面白くない表情で「芳賀、じゃあね」と手を振る。情報の授業中退屈そうに頬杖をついていた彼女を思い出し、実乃理は苦笑を浮かべつつ歩き出した彼女の後を追った。







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