常緑樹の庭(3)




 散々時間をかけて結果不味くは無いカレーを作った次の日、実乃理は高校からの帰宅途中常緑樹に囲まれた一軒家の前に立った。合成皮革で作られた紺色の鞄の中には両親から誕生日に贈られたデジタルコンパクトカメラが納まっている。
 その家からどころか周囲からも人の気配は感じられない。誰も居ないかもしれないな、と木々の隙間からなんとか覗き込もうとしていると、後ろから「何してんの?」と低い声が響いたため実乃理は心臓が痛いと思うほど驚いた。
「えっと、あ、あの、ごめんなさい、家を見てただけです」
 まるでショップの店員に対する言い訳のような言葉が口を滑り出た。不自然な横歩きでその場を立ち去ろうとすると、足がもつれて転びそうになり白いワイシャツの手が実乃理の腕をつかんで支えた。
「吉岡実乃理」
 低い声で小さく名前を呼ばれて、実乃理は勢い良く顔を上げた。芳賀に仲舘と呼ばれていたプログラム少年だった。
「この間もここに居たよね、図書館でも見かけたし。何で家の回りに居るのか気になって。芳賀に名字聞き出して、図書館にある校内名簿で下の名前も調べた。名簿持ち出しはできないけど、住所メモるくらいはできるし。この辺に住んでるんだよね?」
 声は小さいもののはっきりとした発音と畳み掛けるような内容に圧され、実乃理は怖々と頷いた。
「率直に聞くけどさ、何で、この家覗こうとしてんの?」
 怪しまれているのが、はっきりと分かった。実乃理は仲舘少年と目を合わせることができず、うつむいたまま口を開いた。
「こういう家っていうか、建物っていうか、が、好きで。写真も撮りたいなって、思ってて。前までここ入居者募集中になってたのに張り紙なくなっちゃったから、なんでだろう、人が入っちゃったのかな…って」
 腕をつかんでいた力が急に抜け、「なんだ、それだけ?」というひっくり返るような声が上から降ってきた。実乃理が上目遣いに仲舘を見つつ頷くと、彼は手を頭に当てた。
「挙動不審だしさ、てっきり……疑ってごめん」
「こ、こちらこそごめんなさい。人の家になってるんだったら覗くのは良くないって、思って逆に怪しい人になってしまいました」
「敬語はやめない?色々調べたりして悪かった」
「ど、泥棒だと思った?」
 実乃理が見上げると、仲舘は突然「あはははは」と笑いだした。性格冷たそう、と思っていた薄い唇の顔立ちが、ひどく近しいものに感じられた。
「女子高生泥棒なんて、そんな小説みたいな発想俺にはないない」
「じゃあ、何だと?」
 実乃理が眉をひそめると、仲舘は後頭部を掻きながら「ちょっとここじゃあなあ」とつぶやいた。
「どうせならさ、中に入る? 家の中の写真はちょっとカンベンだけど、庭から家撮るのはオッケーだよ」
「仲舘…君の家なの? お家の人は?」
 ほぼ初対面の相手を呼び捨てにするわけにもいかず、実乃理は彼を『君』付けで呼ぶ事にした。問いに対し、彼はまた困ったように頭を掻いた。
「兄貴が借りてる家なんだ。もう社会人だから、だいたい七時過ぎないと帰ってこない。俺はK駅の近くに両親と住んでる」
 K駅はこの辺りの最寄り駅であるS駅からさらに五駅下る場所だった。
「そうなんだ。家族が借りてるなんて、羨ましい」
「まあ、昼間は使い放題パソコン使わせてもらってるし、確かに助かってるけど。ただちょっと吉岡さんの羨ましいの内容とは違うかもね」
「あ、あのさ、ついでに相談したいことがあるんだけど、いい?」
 もう怯える必要は無いはずなのに、そわそわしたような気持ちが落ち着かなかった。仲舘は玄関を指差して、「ああ、入りなよ」と実乃理を促した。


 白くペンキで塗られたベニヤで組み上げられた壁面に、朱色に塗られたドア。まさか自分が中に入る日が来るとは、と期待して足を踏み入れた家の中は、想像していたより落ち着いた雰囲気だった。入ってすぐにダイニングキッチンがあり、真ん中には木製のダイニングテーブルがある。同じく木で作られた飾り棚の向こうにパソコンやテレビが見えているので、そちら側がリビングなのだろう、と実乃理は思った。一人暮らしにしては広い空間だった。
「ここが食事するとこで、向こうにパソコンがある。もう一つ、寝室があるけどそこはさすがに入れてあげらんないかな。とりあえず、そこ座りなよ」
 勧められて、実乃理は薄めのクッションが敷かれた木製の椅子に腰掛けた。仲舘は慣れた様子で戸棚の中のグラスを二つ手に取り、冷蔵庫を開けて緑茶のペットボトルを取り出して注いだ。
「写真、後で庭とか撮ってもいいから。カメラ持ってきてんの?」
 向かいの椅子に座りながら尋ねてきた仲舘に、実乃理は「うん」と答えて頷いた。
「あー、じゃあ、まず、吉岡さんの用件から聞こうかな」
「えっ?」
「相談したいことがあるって、言ってたじゃん」
 家の中の様子にすっかり舞い上がっていた実乃理はようやく仲舘の『用件』の意味を飲み込んだ。
「私から?」
「写真撮らせてあげるんだしさ、先に話してよ」
「んー。ええと、さ、パソコンに、詳しいの?」
「俺?」
「うん」
「いや、詳しい分野もあるし、詳しく無い分野もある。パソコンに疎い人ってさ、パソコンを他の機械と一緒くたにして考えてるけどさ。例えばソフト一つ取っても画像系に詳しい奴と音楽系に詳しい奴と、全然違ったりするんだよね。まず、何がしたいかが問題なんだよな…吉岡さん、何したいの?」
「ホームページ、つくりたいの」
「自分のサイト作りたいんだ?」
「ブログでもいいかなあ、って思ってはいるんだけど、炎上とかトラックバックとか、結構怖いところもあるって聞いたから。SNSも気になるけど、私のしたこととは少し違いそうだし」
「確かにブログはな…まあ、人気のある所じゃなかったら滅多に炎上なんてしないと思うけど、絶対にしないとも言えないしね。コメントとトラックバック不可にすればいいけど、それはそれでつまらないしな。じゃあ、HTMLから勉強したいんだ?」
「う、うーん、HTMLが何なのかも、良く分かってないけど」
「ウェブサイトってさ、たとえば…」
 仲舘はもう一つの椅子に置いてあった紺色のバックから筆箱とルーズリーフを一枚取り出した。
「画面上に、線を一本引きたいとする」
 彼はルーズリーフの上に、『<hr>』という記号と文字を書いた。
「これで線を引くっていう意味になるんだ。で、例えばこの線を、十五ピクセルっていう…ああ、ピクセルは画面上の長さの単位だと思って。で十五ピクセルの長さで、左揃えにしたいとする。そうするとこの線にwidth、これが長さの要素を現すんだけど、これがイコール十五、で、alignが文字揃えを現すからこれを左のleftに指定」
 言いながら、記号の一つを消して書き加え、『<hr width=”15” align=”left”>』という文字列になった。左揃え、という言葉は情報の授業でワードの使い方を教わった際に覚えさせられ、テストでも出たので知っていた。
「例えばこういうふうにウィンドウズのメモ帳で文字を打つと、ブラウザで見た時に左揃え十五ピクセルの線が現れる」
 ブラウザ、も以前授業で聞いて知っていた。三種類のブラウザで一つのページを見比べたことがある。
「この線の実体はこんな文字列。それをブラウザで解釈して線に見えてるんだ」
「……そ、そうなんだ」
「狐につままれたみたいな顔してるね」
「うん。いまひとつ実感が」
「じゃあ、見た方が早いかな」
 仲舘は一度リビングへ消えると、小さなノートパソコンを持ってきて実乃理の前に置き椅子を隣に移動して座った。
「小さいパソコンだね」
「兄貴が初期の頃に買ったネットブック。流行ってるからって買ったけど、今はあんまり使ってないらしい」
「仲舘君が貰えばいいんじゃない」
「俺が使うには性能がちょっとね」
「…ふーん」
 仲舘の言っていることの三割が理解できないまま、パソコンが起動した。ログインの画面があっという間に出て、これまた瞬きする間にパスワードが入力されて見慣れた画面が現れた。
「で、メモ帳を起動」
 メモ帳も高校の授業で使ったことがある。が、実乃理にとっては何に使うのかどうにも理解しにくいソフトだった。仲舘はルーズリーフに記されていた文字列を手早く打ち込むと、保存の画面を出した。
「これを、htmlっていう拡張子で保存する。あ、拡張子分かる?」
「授業でやったから、分かる」
「真面目に聞いてるね。俺はあの手の授業寝てる」
「それはもう知ってることばっかりだからでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「いいなあ、羨ましい」
「ま、ともかく、この拡張子で保存するとクリックすればブラウザで開けるんだ」
 エクスプローラーが立ち上がり、真っ白な背景の一番上に短い線が引かれていた。
「で、さっきのをまたメモ帳で編集し直してみる」
 “”の中の数値を大きくし、保存して再びそのファイルを開くと、今度は線が長くなった。
「…なんかちょっと、面白いかも」
 実乃理はパソコンから目を離せなかった。仲舘の作業が早い所為でもあるが、単純に興味を引かれたという理由もあった。
「ふーん。結構吉岡さんこういうの向いてるかもね。ウチの母親はこういう事話してもまったく理解しようとしない」
「ユウもこういうの駄目そう」
「ユウ…って?」
「あ、と、この間芳賀君と話してた…」
「ああ、この間の遠野さんか。確かにね、彼女は興味なさそうだよね」
「ねえ、仲舘君」
 実乃理はマウスを持ったままの仲舘に向き直った。ようやく本題に入れそうだった。
「私に、こういうのもっと教えてくれないかな?」
 仲舘はカチカチとマウスとキーボードをいじり実乃理の方を見ようとはしなかった。
「うーん…そうだなあ…教えるも何も、その手のサイトとか本とか読んだら、案外吉岡さんならすぐ覚えるかもよ。はっきり言えばパソコンって、教わるよりも自分で理解していじってナンボだからさ」
 突き放された、と実乃理は心の中でつぶやいた。だが、そういう突き放され方は嫌ではなかった。
「うん、そうかもしれないけど。ただ、私じゃどこのページを見たらいいのかも分からないし。何より、本を選ぶのが難しい。買うお金もないし」
「ああ、確かに図書館のその手の資料はちょっと古くて使い物にならないものもたくさんあるね」
「今日はここを読め、とかそういうのだけでもいいんだけどな」
「なるほどね。それならいいけど。でもこっちに見返りが欲しいな。さすがに同級生の女の子この家に入れたって兄貴にばれたら立ち入り禁止にされるかもしれないし。リスクに見合う見返りって必要だろ」
 何を言われたのか理解するまでに少し時間がかかった。頼む人を間違えたかな、と思ったが、彼はまだ実乃理の方を見ようとしない。強い印象の言葉とは裏腹に、彼も緊張しているように思えて実乃理は少し余裕を取り戻した。
「口が上手いね、詐欺師みたい」
 ようやく仲舘が実乃理の方を見た。笑おうとして失敗している、そんな表情を見せる。
「じゃあ、やめておく?」
「見返りの種類による。お金はないし」
「はじめ君の様子見た時、兄貴の恋人の一人かと思ったんだ」
 唐突な話の展開に実乃理が目を瞬かせると、仲舘はまたパソコンの画面に視線を戻した。言葉にしにくい話をするとき、画面を見る癖があるのかもしれない、と実乃理は思った。
「恋人の一人って…そんなに居るの?」
「ああ、もともと二股とか普通の駄目人間だったけど、ここに部屋借りてからは取っ替え引っ替え連れ込んでるみたいだね。修羅場もあったみたいだし。だから君がうろついてるの見た時、兄貴の恋人の一人が何か証拠押さえに来たのかと思った」
 いくら小説で様々な色恋沙汰や苦い展開を読んだことがあっても、あっけにとられる話だった。
「兄貴見てると女の子と付き合うなんてことしたいとは思わない。でもさ、俺もその血が流れてるとは思いたくないけど、やっぱり興味だけはある」
 仲舘がマウスを押す音がカチカチと響いた。いつまでも脳の中に残りそうな音だった。
「吉岡さんがページを完成させたら、抱きしめてキスさせてよ。それ以上はしない。付き合うなんてこともしない。ただそれだけ。それが見返り」
 キスを『ただそれだけ』と片付けられるほど実乃理は大人ではなかったが、頭ごなしに否定するほど子どもにもなりたくなかった。
「好きでもない女の子相手でも、いいの?」
「ただの好奇心だから」
 猫を殺す。という言葉が思い浮かぶと同時に打ちのめされている自分が居ることを実乃理は認めていた。彼に教えて欲しいという気持ちは淡い好意から生まれていたと、今後をすべて否定されたその瞬間に自覚した。
「いいよ、そのくらいなら。明日からよろしく」
 仲舘は意外、という表情をして実乃理を見た。「ああ」と小さく返事をした後で、「じゃあ放課後から兄貴が確実に帰ってこない六時半まで」と最後の条件を口にした。


 写真を撮らせてもらうのを忘れた、と実乃理が気付いたのは、家に着いた後だった。








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