常緑樹の庭(5)




「だいたい、出来上がったんじゃない?」
 サイダーを手に持って、仲舘はそう言った。コトリ、とテーブルにグラスを置く。
「そ、うだね」
 実乃理は身を固くした。交換条件を意識していた。
「じゃあ、いいかな。こっち来てよ」
 腕を引っ張られて、リビングのソファの前に立たされた。正面から向かい合っているが、仲舘の顔を見上げられない。仲舘は腕を広げて実乃理を引き寄せた。自分の心臓がおかしな動きをしているのではないかと思った。仲舘は実乃理を抱きしめてから顔を上向かせ、そっと唇を重ねた。
「好きだよ」

 ピピピピピピピピ
 目覚ましの音がうるさい。ガチリと叩いて音を止め、実乃理はゆるゆると枕から頭を上げた。毛布にくるまったままベッドの上にぺたりと座り込む。しばらくぼんやりと夢の余韻に浸っていたかった。
「実乃理、パン焼けたからねー起きなさーい」
 母親の大きな声がドア越しに聞こえ、実乃理はため息をついて床に足を付けた。



 実乃理はネットブックを前に「ウェブデザイン上級レイアウト」に目を通していた。仲舘が同じ部の友人から借りたという本である。実乃理は今トップページの余白の設定が思うようにいかず試行錯誤しているところだった。
「あ、こういうことかな?」
 ようやく解決の糸口を見付けボックスの設定をいじると、イメージに近いデザインがブラウザ上に現れた。
「なるほどねー」
 実乃理が独り言をつぶやいている向こうで仲舘は携帯ゲーム機に向かっていた。最近発売されたRPGにはまっているという。集中すると話しかけても反応が無くなる。どこまですれば反応するか、というラインを探るのが実乃理のちょっとした楽しみだった。明日からは仲舘の兄が休暇に入るらしく、しばらくこの一軒家には来られない。実乃理はUSBメモリを取り出してパソコンをシャットダウンすると、ネットブックを部屋の端にある棚の上の充電スペースに納めた。
「あれ、今日はもうおしまい?」
「あれ、戻って来ちゃったの?」
「いや、意味わかんないけど」
「ゲームしてる時ってどっかに行っちゃってるよね、仲舘君」
「ああ、そうかもね。でも動かれれば分かるよ」
「そうかなあ」
 実乃理が鞄のファスナーに手を伸ばし自分の水筒を取り出そうとすると、仲舘がゲームの電源を切って立ち上がり口の前に人差し指を立てた。ドアの向こうから、人の声がした。
「明日から休みなんでしょう? どこか行くの?」
「実家に戻るよ。近いけどね」
 声が近付いてくる。仲舘は慌てた様子で実乃理の持っていた鞄を持ち、もう片方の手で腕を引っ張ってリビングの奥へ導いた。庭に面した大きな窓の反対側にあるクローゼットを開いて洋服を端に寄せ、二人で狭いスペースに入り込んで扉を閉めた。中は暗いが、両開きの扉の隙間から光が差し込んでくる。鍵を開ける音が響き、キイ、と玄関のドアが開いたようだった。
「兄貴が昼間に帰るなんて初めてだな。俺もちょっと油断してた」
 仲舘はそう実乃理に耳打ちして、クロゼットの端に積み上げられている毛布を手に取り床に敷いた。二人でゆっくりとそこに座り込む。クロゼットの空間は縦にやや広く座り込むには十分なスペースがあったが、布団や衣装ケースが積まれていて横のスペースは狭かった。自然と、身を寄せ合うことになる。
 扉の向こうでは、しばらく手を洗ったり荷物を置いたりという気配がしていた。部屋に居るのは仲舘の兄と女性が一人という様子だった。
「ちょっと前まで弟が来てたみたいだな。サイダーがあるけど飲む?」
 仲舘によく似た声が聞こえてくる。弟、という言葉に仲舘が体を固くしたのが分かった。
「飲もうかな。カウチポテト、なんて言葉最近聞かないよね」
 女性の声はやや低めで落ち着いた雰囲気だった。やがてクロゼットを背にしたソファに二人が座る気配がした。サイダーのグラスをソファの前のテーブルに置く音がする。二人がソファに座ってなんらかの映画を見る、という状況は理解できた。扉の隙間をそっとのぞき込むと、ソファとテレビ、さらにその向こうの常緑樹の庭の景色がひどく縦長に見えた。人の姿は隙間から見えない。テレビのスイッチが入って音声が聞こえてきた。
「参ったな。これは長期戦になりそうだ」
 仲舘が実乃理の次に隙間をのぞき込んでそう耳打ちした。距離の近さに一瞬頬が熱くなる。テレビの音声が切れ、おそらくレンタルDVDであろうと思われる映画の再生が始まった。まずは他の映画のCMが流れ始めた。英語が聞こえる。
「えーと何だっけこれ?」
 仲舘の兄の声が尋ね、女性の声が実乃理の知らないタイトルを告げた。
「初めて聞くね。ふーん、『駆け引きに溢れた官能サスペンス』か…」
「脇役で出てくる女優さんが好きなの。退屈なら寝てていいから」
 その女性の声はまるで何かの覚悟を決めたような響きを含んでいた。自宅で恋人と映画を見る、という状況で出す声では無いようにも感じたが、もちろんその疑問を口にできるような立場でも状況でもなかった。
 やがて本編が始まると、しばらく悲鳴も流血らしき場面もない淡々とした会話が続いた。クロゼット越しの冷房は寒すぎず、床に敷かれた毛布は肌触りが良かった。実乃理はふわりふわりと意識を漂わせ始めた。

 暑い。
 首筋を汗が伝っている。実乃理は襟元のボタンを開け、手でそれを拭った。目を開けると、ひどく狭い場所でうずくまっている自分の膝が見えた。床に敷かれた物とは別の色の毛布が掛かっている。もたれかかっている存在が熱を持つものだと意識して顔を上げた頃、ようやく実乃理は自分が今置かれた状況を思い出した。身じろいだ実乃理に気付いた仲舘が見下ろしている。ずっと寄りかかったまま眠っていたのだと気付き、ごめん、と口の動きだけで伝えた。仲舘は実乃理から目を離さず、だが頷きもしなかった。
 扉の向こう側のDVDは官能と表現されたシーンに移ったのか、女性の艶っぽい声が小さく響いていた。だんだんと声が大きくなっていく。時折挟まれる男性のうめくような声。簡単な英語ならば、実乃理にも理解できた。濡れ場、と呼ばれるシーンなのだろう。
 意識してしまい仲舘の方を見ることはできなくなった。実乃理は床に敷かれた毛布の端を見つめ続けていたが、肩を抱き寄せられて声を出しそうになった。咄嗟の判断でなんとか飲み込んだ。
 シャツ越しに体温が伝わる。肩を抱き寄せた仲舘の手は実乃理のシャツのボタンをはずし始めた。私服のポロシャツは胸の下辺りまでボタンが開くデザインだった。仲舘はすべてのボタンをはずすとキャミソールの下へ手を突っ込んだ。
 そこまでは条件に入れてない!
と実乃理は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。怖いという気持ちもあったが、同時に仲舘なら許せるかもしれないという気持ちもあった。胸を触られるがまま抵抗せずにいると、もう片方の手がスカートの裾から入り込んで太腿を這い、実乃理は息をのんだ。顔を上げて睨み付けると、仲舘は何の感情も灯さない表情で実乃理を見ていた。失恋、という言葉が頭を過ぎり、けれど太腿を這っていた手が下着の中にまで伸ばされると頭で何かを考えるどころではなくなった。仲舘は感情を見せないまま実乃理にキスをした。銀縁の眼鏡が一瞬頬に当たって冷たかった。
 仲舘が緩く撫で始めた場所は自分で触ったことはあるけれど他人に触られたことは無い場所だった。指の入り込むぬるりという感触に声を出しそうになるのをこらえる。
 女優の甲高い声が扉越しに聞こえてくる。クロゼットの中で実乃理は「果てる」ということの意味を知った。その瞬間、仲舘は冷静にもう片方の手で実乃理の口を覆い声を抑えこんだ。

 どのくらい放心していたのか、ふと気付くと映画は終わっている様子だった。
「今日はどうする? 泊まっていくの?」
 仲舘と似た声が扉越しに聞こえてくる。
「この話、付き合ってる男の弟と密通する話だったでしょう? こういうのって、どう思う?」
 不自然な切り返しに実乃理の意識もようやくはっきりとしてきた。雲行きが怪しい、とでも表現するのだろうか。
「どう思うも何も、俺は弟と歳が離れてるから、あんまり考えたこと無いな」
「そうかしら。弟さんは、十分に男だったわよ」
 隣の仲舘がビク、と身体を反応させるのが分かった。
「どういう意味だよ?」
「会社でね、アナタの別の恋人である先輩から忠告されたの。修羅場を経験する覚悟はあるのかって。私だって全然気付いてなかった訳じゃない。さすがに何人恋人が居るかまでは知らないけど。でも、こんなのはやめたいの。もう来ないわ。今日はそれを言うためにきたの。あと、この家は好きだったから、一度ゆっくり映画を見たかったっていうのもあるけど」
「…確かに俺の恋人は一人じゃないし、それについては謝るしかない。ごめん。でも、だからって弟と、何したんだよ?」
「弟くん、アナタが居ない時ここに居ることがあるでしょう? アナタが他の女と寝てる間に、ここで弟くんと寝たわ。驚いた? でも、そういう女性は私が初めてじゃないみたいよ」
 汗が乾いた所為か実乃理は寒気がした。襟元のボタンをすべて留め直し、足首の辺りに固まっていた毛布を持ち上げる。仲舘とは、可能な限り距離を空けた。
「おいおい…マジかよ?」
「アナタに弟くんを責める権利は無いと思うわ。若くて拒めないからってそんな女とばっかり体の関係持つことになって、可哀想なくらい。こんな兄を持ったせいで」
「…」
「じゃあ、行くわね。さよなら。弟くんのためにも、もう少し身持ちを堅くしたら?」
 バタン、とドアが閉まる音が響く。しばらくして「ちっくしょ…」という声を残し仲舘の兄も家を出て行った。

 クロゼットの扉が開かれると、まぶしさに目が眩んだ。耐えられず目を閉じる。隣の仲舘も同じようで、しばらく二人動けずにその場でうずくまっていた。目が慣れてから立ち上がり、服装を整えると実乃理はまだ座ったままの仲舘を見下ろした。
「好奇心って言ったのは、嘘なの?」
 仲舘は視線を落としたままだった。膝の上に置かれた指がマウスをいじるように動いている。
「それは嘘じゃない。でも興味の内容が嘘だったね。興味があったのは、同い年の女の子の反応、かな」
「仲舘くんにとってはさっきのが抱きしめてキスをする、の範疇なんだね。そりゃあそうだよね。大人の女性と寝てるんだもんね」
 仲舘はうつむいて黙り込んだ。まだ指だけがかすかに動いている。
 顔をつきあわせて話をする時間はそれほど無くとも、仲舘の居る空間はこの一ヶ月半、実乃理にとって生きる意味に近いと思えるほど大切だった。仲舘と不意に距離が近くなるとそれだけで緊張した。彼の知識にはいつでも憧れた。けれどそれは実乃理にとってのものであって、仲舘にとってはすべて好奇心の範疇でしかなかったのだろう。そう思うと実乃理は声を上げて泣いてしまいたかった。家まで我慢、と子どものように頭に言い聞かせる。
「交換条件はもう済んだよね。私はもうここには来ないようにする。色々教えてくれたり貸してくれたり、ありがとう」
 仲舘は顔を上げなかった。実乃理はクロゼットの奥に押し込められていた自分の鞄を手に取ると、玄関へ向かった。背中に「ごめん」という声を聞きながら、実乃理はずっと好きだった一軒家を出て行った。








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