架空の十字(後)




 小野崎相手ならば幾度同じベッドの上で過ごそうとも情が移るなんてないと思っていたけれど、甘かった。最初に寝た時から後悔はしていたけれど、その度合いはまるで曲線を描くように深くなっていく。それでも、ギリギリのラインで保っていられたのは彼を私の家に入れないという掟を守っていられたからだろう。食事は外食か、ホテルに持ち込むかのどちらかだ。小野崎は案外食事にこだわりがあるようだった。ホテルで待ち合わせをする時は彼がデパートの地下やスタンド式の店で食べやすい食料を確保してくる。香りのいいケバブサンドやら、祭りの屋台とは比較にならない程いいキャベツを使ったお好み焼きやら、手作りのお総菜が品良く詰められたお弁当やら。
 小野崎には家庭があるから、共に過ごす時間は長くない。それでも呼び出しのメールを楽しみにしている自分に気付いた頃には、後悔の度合いが最底辺を突いた。同窓会の日に目にした、彼の妻と娘の写真。その存在は、いくら結婚願望が無い私にも影をもたらした。小野崎と過ごさない日の夜、食事を摂ることが難しくなった。
 子育てと仕事を両立して頑張っている職場の先輩の姿を見る度に、自分の罪の度合いは重くなってゆく気がした。民間の保育園が預かってくれる時間ギリギリまで仕事をこなし、その保育料に給料の半分を持って行かれ、家に帰ってからは子どもをあやしながら食事を作り、子どもを風呂に入れ、洗濯物を干し、さらに後から帰ってきた夫のために食事を温める、食器を片付ける。睡眠時間は私よりずっと短いのに、私より家で何倍も働かなくてはならない。そこまで努力して、だけど子どもの病気の度に会社を休まなければならないから、先輩は職場で重要なポストに就くことができないでいるのだ。確かに、重要なポストに就いてしまえば得意先が絡むイベントで突然子どもが病気だからと穴を開ける訳にはいかない。先輩のことは尊敬しているけれど、彼女の話を聞くだけで、自分には不可能だと首を横に振りたくなった。私は、おそらく結婚に向いていない。
 小野崎はそういう世界にいて、彼の妻もそういう世界にいるはずだった。その事実が、食欲を奪っていった。先輩に比べれば安い悩みだと分かってはいても。

 前提が崩れ落ちたきっかけは、偶然だった。連休中、電車で一時間半ほどかけて実家に戻り、母から頼まれた食材をスーパーまで買いに行った。そこで目にしたのは、彼の妻と娘であるはずの二人だった。もちろん一度見ただけの二人だから、片方だけなら他人の空似と片付けていたかもしれない。けれど二人並んだ姿は、否応なくずっと頭を離れない写真の二人と重なってしまった。そしてしばらく目で追った結果目撃することとなった「後ろから追いついた男性」は、小野崎ではなかった。小野崎については見間違わない自信がある。雰囲気は似ていたけれど、私の知る小野崎ではなかった。男女二人の指にお揃いの指輪があることを確認し、私は三人から離れた。
 次に、初めて自分のほうから小野崎を呼び出した。連休の中日の昼間。予想通り、小野崎は時間通りホテルの部屋にやってきた。どこか嬉しそうですらあった。両脚で男の身体を挟んで、思うがままに後頭部の髪をかき乱してやった後、私は尋ねた。
「独身を既婚者と偽るのは、女避け?」
 単刀直入に言うと、目を見開いてから唇の端を上げた。高校時代から憎たらしい男だと思っていたけれど、それでもこれほど憎たらしく感じたことはない。
「同窓会とか、友達に誘われての合コンまがいの飲み会だとか、そういう時だけしか使わない手だけどね。女は基本面倒だから」
 溜息と共に色々な荷物が肩から落ちていった。同時に、他の大切な何かまで落ちてしまった気がするのは何故だろう。
「あんたが結婚して子ども自慢だなんておかしいと思ったわ」
「いや、案外自慢は本音だよ。あの子は姪っ子なんだ。兄貴に似てなくてすげえ可愛いよ」
 目撃したのは小野崎の兄夫婦だったという訳か、と結びつき私はもう一度溜息を吐き出した。
「それでも、あなたにしては丸くなったってところなのかしらね」
 ベッドの中から服をたぐり寄せ、同じトーンで「でも、もう小野崎とは会わないわ」と告げた。
「何でだよ」
 あからさまにムッとした声色に、こちらの声も固くなる。
「たとえ架空の十字架でも、背負うには重かったわ」
 後ろから抱き寄せてくる手を振り払うと、強引に捉えられた。
「不倫前提で俺に会いに来てくれるのが嬉しかったんだよ、これでも。一番最後のラインで真面目ちゃんなのも変わってないんだな」
「真面目だったら不倫に手を染めたりしないわよ」
「そこが真面目なんだよな。恋に夢見てない女は不倫に躊躇なんかしないよ、普通。第一、不倫じゃないって分かった途端に会うのをやめるって意味が分からない。成川、二度も俺を振るなんて許されないから」
 この男にはきっと一生、私が背負っていたはずの重さが、そしてその重さが無意味なものだったという事実の空しさが理解できないのだろうと思った。
「振った記憶もないし、告白された記憶もない。もしあれを告白と表現するつもりならみぞおちに一発入れるから」
 最後で声を低くすると腕の力がやや緩んだ。その隙にベッドから抜け出して着替えを済ませる。
「また俺から連絡するから」
「残念ながら、返事は来ないわよ」
「成川…あの頃だって、本当は付き合いたかったんだよ、俺は」
 それでも私はあの頃からあなたにひとつだって勝てたことはなかった。結局、そのくらいあなたに惹かれていたのだ。今度は、せめてあなたに負けたくないのだと自分に言い聞かせて、私はホテルの部屋を後にした。



(Fin)





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