彼女の背中 (1)




 進藤は、いつも髪をまとめ上げてプラスチックの留め具(バレッタと呼ぶらしい)で留めている。髪の色は黒い。前髪は多め。黒い縁の眼鏡をかけている。実際目はかなり悪い。胸がつんと尖った形でそこそこ大きくふくらはぎの形も綺麗なので、一部の男子からは盗み見の対象となっている。ちなみに彼女は一見地味な外見なので、目立って騒がれるタイプではない。成績は学年の上位四分の一に入る程度。得意な教科は家庭科だが、家庭的と言われることは拒む、とは人づてに聞いた話だ。
 片っ端から進藤について友人知人から聞き出した話を思い浮かべても、菅原には結局分からなかった。なぜ、彼女が菅原に対していわゆるセックスという行為を何度も許すのか。
 菅原は進藤の背中を思い出す。夏服のポロシャツ越しに浮き出る下着の線。既に中身を知っていても、その線には男子高生を惹き付ける魔力がある、と菅原は思った。彼女は菅原を学校の敷地内でその時間一番人が来る確率の低い場所へと誘った。菅原は彼女の服の中身を知ると同時に、彼女が成績だけでは測れない頭の回転を持つことを知った。

 最初に彼女の背を追ったのは、六月のある日。梅雨の晴れ間で、三階の階段を上がる途中、汗ばむほどだったのを覚えている。階段を上がっていた進藤のスカートが風でふわりと膨らんで、たまたま真下に居た菅原の目の前に形の良い尻と想像より太めの腿が一瞬現れた。ああ、ラッキー。菅原が考えて顔を上げると、進藤と目があった。怒られるのかと想像していたのに、彼女はまるで哀れむような顔をしてふいと顔を逸らした。男子生徒に対してそういう「諦め方」をする女子生徒に、菅原は出会ったことがなかった。気になった、としか言いようが無い。進藤は目立つ存在ではないから、菅原もそれまではっきりと何組だったかを認識していなかった。彼女の背中を追いかけて、教室に入ったのならクラスを確認しよう、そう思った。
 進藤は確か四組か五組だったはずと菅原が見当をつけていた教室の前を素通りし、それどころか三階の教室すべてを通り越して、階段を下りると現在は部室棟となっている旧校舎へと足を向けた。そこでまた二階へと階段を上がり、突き当たりの教室手前のドアを開け、振り返った。
「この部屋、物置になってるんだけど、鍵が壊れてるのよね」
 不意に話しかけられて驚く菅原など気にかけず、進藤は部屋へと入っていく。菅原も後から部屋に入った。そこは物置と呼ぶに相応しい部屋だった。何も入っていない戸棚や古い清掃用具庫、端から綿がはみ出ている体操用のマット、さび付いた得点板などが収納されている。
「菅原くん、次の合同体育男女両方自習でしょ。うちもそう、私四組だから」
 菅原は三組だった。体育は三・四組が男女別に合同で授業が組まれている。
「進藤、お前…気持ち悪くないのかよ、ここまで男につけられて」
 ドアを閉めると、窓に薄いカーテンが引かれた狭い空間は妙に圧迫感があった。何もかも見通していたかのような進藤に怖じ気づいている自分を悟られたくなくて、菅原はそう尋ねた。
「きてるって分かったからここに来たのよ。気持ち悪いも何も。むしろ気持ち悪いと思ってるのは菅原くんじゃないの?」
 薄く笑われて頭に血が上った。女子生徒がするのは、見たことのない表情だった。
「まさか、えろい体してる女の子が気持ち悪いわけ無いだろ。俺男だぞ」
「私の顔は好みじゃないけど、体は好みってところ?」
 菅原は背中に汗が落ちていくのを感じた。気温の所為だけではなかった。進藤は胸ポケットから四角い包みを取り出すと、また薄く笑った。試されていると思った。同時に、進藤という女子生徒に対するイメージがどんどん塗り替えられていった。
「別にテクニックなんてさらさら期待してないから、乱暴にしないで」
 進藤は上履きを脱いでぼろぼろのマットレスの上に座った。パチンいう音と共に黒い髪が肩へ落ちた。ポロシャツのボタンを外して脱ぎ捨てると、ごくシンプルな薄桃色をしたブラジャーが姿を現す。眼鏡の奥から刺さる視線は痛いほどだった。
「彼氏ヅラしたりして、失望させないで」
 強がっても菅原にとっては初めての実践だった。成績だけが取り柄、中肉中背、外見はどこまでも凡庸だという自覚があるし、実際もてたことなどない。喉が固まってしまったかのように声が出なかった。ただし手招きされれば自然と足が動いた。進藤の前のマットレスに膝を着く。下着を着けていても、上向いた胸の形がはっきりと分かる。手を伸ばしてそっとつかむと、想像しなかったような弾力が返ってきた。震える手で肩の紐をおろし、肌を露わにさせる。想像していたとおり先端はツンと尖っていたけれど、想像していたより胸の谷間は深かった。
 夢中でしゃぶりついた。いつの間にか進藤をマットレスの上に押し倒していて、ふと見上げると彼女は息を乱しながらもただぼんやりと天井を見上げていた。菅原のことなど見ていない。彼氏ヅラという言葉が今更ながらに引っかかったが、魅惑的な体を前にして思考が奪われていく。ちくしょう、と胸の中で叫んでからスカートの中に手を伸ばした。

 別のクラスで同じ時間が自習になる、などということはそう何度も起こることではなく、次に菅原が進藤の背中を追ったのは放課後だった。菅原が所属していた卓球部は早々に三年の引退が済んでいる。進藤の所属は分からないが、観察している範囲で部活に行っている様子はなかった。
 二度目の放課後に進藤が向かった場所は、北校舎の屋上だった。三度目以降も、校内で場所を変えながらセックスを繰り返して、けれど結局誰かに見つかったことはない。進藤は最中も声を出さない。ただ菅原の首に手を回して腰を揺する瞬間、目を細めて大きく息を吐き出す。終わった後は息を整えて、さっさと身支度を調えると近くのガラス戸や何かの前で髪を器用にまとめ上げ、菅原の前から居なくなってしまう。



 進藤の背中を追う回数が片手で足りなくなった頃、彼女は下駄箱へ向かい学校から出て行ってしまった。菅原は自分も靴を履いて彼女の後を小走りでつけつつも、これはついに振られた…いや正確には体以外に受け入れてもらったことはないのだから『飽きられた』か、などと考えていた。彼女は最寄りの駅へ向かう途中一度だけ菅原を振り返り、持っている定期券の区間を聞いてきた。どこへ向かうのかと尋ねたい気持ちを抑えて自宅までの区間を答えると、「そう」とだけ口にして彼女はまた歩き出した。着いて行けばいいのかそれとも拒絶されているのか今ひとつつかみきれないままに菅原が彼女の後を歩いていくと、いつの間にか電車に乗り、二駅先の比較的大きな繁華街のある駅で降りていた。定期券をかざして駅を出ると、進藤は最初から細い路地へと入り込み、ある店の前で立ち止まった。そこは本来であれば男しか入らないと思われる、DVD鑑賞と黄色い看板が掲げられた進藤に似つかわしくない店だった。
「生徒手帳、持ってるでしょう?」
「まさか、入るのか?」
「入るわよ、もちろん。それで、持ってるの?」
「そりゃ持ち歩いてるけどね…入れるのか?」
「十八歳以上だもの。菅原くん、四月生まれでしょ。私は五月」
「そういうことじゃなくて、お前女だろ」
「男性限定なんて書いてないわ」
 付き合っていられないとばかりに肩をすくめて進藤は中へ入っていった。受付の男はやる気の無さそうな茶髪男で、「年齢分かるの、持ってんの?」と胡散臭そうな視線を向けてきた。だが、年齢を確認すると特に何事も無かったかのように部屋料金を請求してきた。ホテルで部屋に入る料金の五分の一程度だろうか。財布を取り出そうとする進藤の手を押さえて「頼む」と小さく懇願すると彼女も引き下がったので菅原が支払った。「DVDはそこ、部屋はドアが空いてるとこを使って」という最低限の説明を放った茶髪男の言葉を背に、進藤はまっすぐドアの開いている部屋に向かい中へ入った。菅原が中へ入ると後ろ手に鍵を閉める。窓は黒いシートのようなもので覆われていて、電気がついていなければ真っ暗になりそうだった。
 進藤は安そうなビニールに覆われたソファの前に立つと、鞄から白いウエットティッシュらしきものを取り出して表面を拭き始めた。
「それ、ウエットティッシュ?」
「トイレ用お掃除シート」
 用意がいいな、と口にするとまあね、と返事があった。進藤は座面と背面を拭き終えると、シートを丸めて部屋のゴミ箱へ放り込んだ。ソファに座って菅原を見上げ、首を傾げる。
「何? DVDの方がいいの?」
「いや」
 間髪入れずに答えてしまった自分が逆に恥ずかしいと考えつつ、菅原は彼女の上に覆い被さった。

 一応は正当な支払いをして密室を手に入れたからか、進藤は学校でするときのように黙ったままではなかった。時折声も上げるし、もっとして欲しいことを菅原に伝えてきた。だから終わった後で、菅原は彼女に声をかけてみた。
「進藤、お前こういう相手他にもいんの?」
 彼氏ヅラ、という言葉を忘れたわけではなかったが、焦れていることも確かだった。行為に慣れ始めて、最近自慰では満足できないときがあった。
「そんなこと知りたいの?」
 しかし案の定返ってきたのは彼女のイライラとした質問だった。
「俺、初めての女なんだよ、お前が。正直他の女知らないから、知りたいことだらけだね」
「初めて…? ふーん、傷物にされちゃったとか思ってる?」
 進藤のからかいを含んだ表情に、言わなければ良かったと後悔した。
「男に傷物とか使うなよ」
「あーあ、ちょっと期待はずれ。菅原くんなら女の子の経験もありそうだし恋愛なんて突き放して考えてそうだと思ったんだけどな」
「悪かったな、下手くそで」
 破れかぶれに言い捨てると、「別に下手じゃないと思うけど」とあっさりとした声で感想がつぶやかれた。
「ただ、私にこだわったり知りたがったりしない男の子を探してたっていうだけよ」
「普通女って付き合いたがらないか?」
「普通? あっはは、私にその言葉使わないで」
 乾いた笑いとまるで他人事のような声が、菅原の思考をざわつかせた。
「進藤、お前、何があったんだよ。付き合ってた男にひどいことでもされたのか?」
「私男と付き合ったことなんてないわ」
 馬鹿ねえ、と貶されているのに今度はからかわれている気がしなかった。進藤はスカートのフックを留めるとソファに座り膝に肘を付いていた菅原の肩を押して跨った。彼女の匂いが再び下半身を刺激してきて、気付かれてしまわないかと心配になった。
「菅原くん、もし父親が若い女と不倫したとしたら、どうする?」
 唐突な質問に戸惑ったが、発情してしまわないためにも必死になって彼女の告げた状況を想像した。
「やっちまったな親父…って思うだろうな。まあ、母親のことは俺がフォローしないとなんだろうけどな」
「菅原くんのお父さんは幸せね、私は許せない。しかも、相手は私の同級生だったのよ。普段門限だ勉強だまさか男と出歩いてないだろうなだ散々言っておいて、自分は娘と同い年の若い女とよろしくやってたのよ。笑えるわ」
 あー、そうだったのか、と菅原は思ったけれど口にはしなかった。ありがちな話だと感じるが、実際その家族にしてみれば、特に女性にしてみれば苦しい話だろう。
「確かに…俺も母親が同級生とそうなったらキツイかも」
 家に帰りたくなくなるだろうな、と口にすると今までに無く静かな表情の進藤と目が合った。散々あんなことやこんなこともした癖に妙に気恥ずかしくなって目を逸らすと、ひゅ、と小さな息の音が聞こえた。同時に離れていこうとする腰に、何とか手を回して引き留める。進藤は泣いていた。
「菅原…私、死にたい。男の子とこうやって遊ぶ以外に、もう復讐を思いつかない」
 進藤はまだ眼鏡をかけていなかったから、流れていく涙を直接見ることができた。自分は眼鏡をかけておいて良かったと菅原は単純にそう思った。
「復讐すんなとは言わないけど、死ぬなよ、進藤。俺死んだ女の子のこと想像して自分でヤんのは避けたい」
 進藤は菅原の言葉に泣き笑いの表情になって、馬鹿ねえ、と言った。

 それ以来、菅原は進藤の後を追いかけていない。進藤には根性無しと貶されそうだが、決まった男としていては彼女にとって復讐にならないだろうという気がした。ただ、進藤のことを想像して処理していると気付かせるために、菅原は毎日四組の前を通りかかっては彼女に勝手な念を送っている。今のところ、進藤は毎日学校へ来ている。






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