彼女の背中 (2)




 夏休みの予備校は人で溢れていて、良い意味で活気があり悪い意味ではどこか人を追い詰める雰囲気があった。人気講師が担当する英語の授業だけあって一番広い教室がほぼ満杯である。前の教室でのんびりしていないでもう少し早く来るべきだったなと菅原が座る場所を探していると、どこか冷たい雰囲気をした女子の隣が空いていた。贅沢は言えないので座らせてもらう。何だか視線が刺さるんだが迷惑も何も他に場所がないんだよ、と内心で毒づいていると「菅原?」という質問だかつぶやきだか分からない音量の声が聞こえた。顔をやや斜めに向けて驚いたような瞳で見上げてくる女子は、胸の形が好みだった。そこに目が行ってしまう上にその形から人物を特定する自分に菅原は心底うんざりした。
「あ…進藤?」
「菅原って、ここの予備校だったんだ」
 いつの間にか呼び捨てで呼ばれるようになっていたのだと菅原は気付いた。クラスメイトと同じくらいには、距離が縮まったような気分になった。
「夏期講習だけ受講してんだ」
「成績上位者は余裕ね」
「どうかな。それより、眼鏡やめたのか?」
 最初から進藤だと分からなかった理由は特徴的なフレームの眼鏡がなかったからだ。眼鏡のない進藤は泣き顔しか知らない。
「使い捨てのコンタクト。こっちの方が視力でるから、予備校の授業の時だけしてるの」
「一瞬、誰だか分からなかった」
「そう?」
「普段はコンタクトにしないのか?」
「目が疲れるから、毎日はしたくない」
「ふーん」
 人気の講師が姿を現し、教卓の前に立つ。雑談はそこで途切れた。眼鏡のない進藤の横顔を盗み見ていたら、いつかの涙を思い出してしまったが、今はとりあえず英語だと菅原は頭を振ってノートをめくった。

 英語の講師がホワイトボードの前で誰かの質問に答えている。菅原がノートとペンケースをカバンに仕舞っていると、進藤が半袖のTシャツの先を引っ張ってきた。トートバッグを膝の上に抱えた進藤は既にそこへノート類を納めたようだった。
「菅原。何で追いかけてこないの? もう飽きたわけ?」
 ふくれっ面とまではいかないもののかなり不機嫌そうな進藤の表情に菅原は苦笑した。少しだけ顔を近づけて声をひそめる。感情が動いてしまわない距離を取るのに気を使った。
「俺とばっかりしてたら復讐にならないんじゃないのか?」
「別に…そんなことない」
「だって俺が進藤のこと想像しながら一人でしておかないと、お前死ぬかもしれない」
「死なないわよ。だってあんな父親の為に死ぬなんて馬鹿らしい」
「死にたいって言ったのお前だろ」
「撤回する。あんなのの為に私が死ぬのは馬鹿らしい。あと、色んな男を引っかけるのは面倒くさい。菅原だけでいい」
 危うく『菅原だけでい』という言葉に舞いあがりそうになったが何とか心をたぐり寄せて地上に押しつけた。要約すれば、「面倒」に尽きるのだろう、と菅原は結論づける。復讐などと強がっていても父親の裏切りに傷を持て余しているはずで、手頃な男を探そうにも気力が不足しているのかもしれない。
「俺は嬉しいけどね…まあせいぜい利用してくれよ」
 男なんて単純で適当なものなんだと進藤が飲み込める日まで、付き合うしかないのだろうという程度の腹は括れていた。嬉しいのは本音で、そもそもいい思いをしているのは男の菅原の方である。菅原が三年になってから手に入れた携帯電話を取り出すと、進藤はにこりと笑った。屈託のない表情を見るのは初めてか、意外と幼いな、と菅原は舞いあがりそうな胸の内をもう一度抑えつけた。
「父親が高校生のうちは持たせるなってうるさかったんだけど、あんなことがあったから買ってもらったの。お小遣いは減らされたけど」
 トートバッグから取り出されたのはシンプルな携帯電話だった。メールアドレスを交換していると、まるで付き合っていと錯覚しそうだった。
 互いに次の授業はないことが分かり何となく連れ立って予備校の自動ドアをくぐると、薄暗い時間帯にもかかわらずうだるような熱気に襲われた。
「暑い」
「暑いな」
 進藤はトートバッグから下敷きを取り出すとパタパタと煽ぎ始めた。合間にふと菅原を見上げて何回か風を送ってくる。「暑すぎる」という言葉と共にすぐ自分の方へ向けてしまったけれど、その風は確かに菅原まで届いてしまった。ああ、これはもう、諦めるしかないんだろうなと菅原は額の汗を手の甲で拭いながら考えていた。進藤に惚れてしまった。これからも、振り回されるだけ振り回されるのだろう、受験生だというのに。
「ねえ菅原、今度の土曜日息抜きにプール行こ。うちの近くに市営の温水プールあるの。安いし浮き輪もオッケーなんだ」
「俺の都合は無視かよ」
「なあに、デートの予定でも入ってるの?」
 不機嫌な顔で咎められることすら、可愛らしいと思ってしまう。
「んな訳あるかよ。午前中授業とってる」
「あ、そうなんだ。じゃあ午後でいいから」
「はいはい、お姫様」
 最後の言葉に進藤は一瞬目を丸くして、けれど悪くはないと言わんばかりににこりと笑顔を見せた。






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