彼女の背中 (4)




 アルバイトが終わってメールをチェックすると一時間前にメール着信が入っていた。進藤からだった。菅原はバッグを肩に掛け、同じシフトに入っていた友人の誘いを断って走り出した。内容はごくシンプルで、いつも待ち合わせに使っている駅の改札近く、デパートのディスプレイ前で待っている、というものだった。
 進藤は第二志望の私立大学、菅原は第一志望の国立大学に合格した。お互い一年なので授業は詰まっているが、月に二回程度進藤は菅原を呼び出した。木曜の夜にメールが来て授業の終わった土曜の午後に会うというパターンが多かったので、菅原は土曜の午後に予定を入れないように努力していた。
 アルバイトは夏から始めてもうじき三ヶ月になる。時給が高いわけではないが、コーヒー好きの自分には合っているようだった。苦手の接客もコーヒーの香りがする空間ならばどうにかなる。進藤とホテルに入るお金にはそれほど苦労しなくなった。
 金曜夜の繁華街は酒の入った、もしくはこれから酒を入れたい人々で賑わっている。電車から降り、人の波をすり抜けて向かった目当てのディスプレイには早くも冬服が飾られていた。
 進藤はディスプレイ横の壁により掛かって本を読んでいた。足を組み替えているのは長く立っていた為だろう。急な呼び出しは前回を含めて二度目だった。菅原が進藤の前に立つと、彼女は本から顔を上げて「遅い」と言った。
「バイト中だったんだよ。いくら何でも急すぎるだろ」
 仕事中抜けるわけにはいかないと語気を強めると、進藤は顔を逸らして再び「遅い」と小さくつぶやいた。前回会った時も心ここにあらずだったが、今回もまたいつもと様子が違う。彼女が手に持っていた文庫本からしおりが抜け落ちた。拾って渡すと「ありがと」と受け取ってそのしおりを眺める。
「どのくらい、待ってたんだよ」
 進藤はしおりを文庫本の一番手前に差し込むと「一時間二十分」と答えた。
「バイト中は、携帯見られないんだよ。頼むから、もう少し余裕を持って呼び出してくれないか」
「大丈夫。呼び出すの、もう、これで最後だから」
 文庫本をトートバッグにしまいながら静かに告げられた言葉を理解するまでに数秒を要した。菅原は何か言おうとして口を開いたが、どうにかして飲み込んだ。

 ホテルの一室で進藤は服をベッドに投げ捨てて下着姿になり、バスルームへと歩き出した。その後ろ姿にようやく菅原は声をかけることができた。
「これで最後ってどういうことだよ」
 髪留めをはずした下着姿の進藤はどこから見ても大人の女に見えた。少なくとも菅原にはそう見えた。一方の菅原はまだ自分が子供っぽさを残す顔立ちであると自覚している。
「今日、お母さん職場の友達とお泊まりなの。温泉に二泊。菅原待ってる間『宿に着いた』ってメール来て返事した。私、今日はここに泊まるわ」
 質問とは全く関係ない言葉を残した進藤はバスルームへ消え、菅原は携帯を取り出した。自宅へ「友人とオールでカラオケ」と連絡を入れねばならない。まだ一度しかしたことない無茶だったが外泊の電話が初めてでなくて良かったと安堵していた。
 電話の後でガラス戸越しに「おい」と声をかけると進藤は「入れば」と言った。湯で温まった進藤の体は相変わらずしなやかな柔らかさで菅原に吸い付いた。首に手を回し、首に顔を埋め、やたらと甘えた仕草をする進藤とバスルームを出てベッドにもつれ込み行為を終えた頃、菅原はあの言葉は聞き間違いだったのではないかという気になっていた。

 進藤はヘッドボードに枕を立てて菅原を座らせると自身は脚の間に入り込んだ。菅原が後ろから抱き込むような格好になる。床に放ってあったトートバッグから文庫本を取り出して膝の上に広げ、「眠くなるまでこのままでいて」と要求した。菅原としても特に問題はない。自分が進藤を包みこんでいる感覚は思いのほかいいものだった。
 やがて菅原がうつらうつらし始めると、ぱたりと文庫本を綴じる音が部屋に響いた。
「菅原…寝てる?」
「…半ば寝てる」
「何とかして聞いて、今から言うこと」
 『これで最後』という単語を思い出し、菅原は意識して目を見開いた。
「お父さん、結婚するんだって。私と同い年の女と」
 意識して目を開く必要もなくなった。一気に意識が覚醒する。進藤は精一杯気にしていない振りをするが、彼女は父親の不倫とその結末にかなり傷ついている。少なくとも菅原はずっとそう感じていた。
「私、分からなかったの。家を出て行く時、お父さんはお母さんに『大切にしたかったのに済まない』って言って泣いたの。どうでもいいって訳じゃなかったのよ、お母さんのこと。だけどお父さんは裏切った。私と同い年の女のところへ行った。じゃあ裏切るってどういうことなんだろうって。どうして裏切って、どういう気持ちなんだろうって。だから、私、裏切ることにしたの」
 進藤は文庫本を横に置き、腹に回していた彼の手を取った。手の甲に、頬を当てる。
「私、菅原を裏切ったの。他の女の子と付き合っちゃ駄目って言っておいて、他の男と寝たのよ」
 進藤は菅原の手の甲に口付けた。
「結局、その男とセックスしてもああなんだこんなに味気ないんだって思うだけだった。私、お父さんがどうして裏切ったのかは分からない。ただ、どういう気持ちなのかは少し分かった。裏切った方も痛いのよ。もちろん、私お父さんを許す気はさらさらないけど」
 今度は指の先を口に含む。生温かい舌に包まれて下半身が反応し始めた。
「私、菅原が好きよ。だから、菅原は私を許したりなんかしないで。私、もう菅原のこと呼び出したりしない。もう会うことが無くても、ずっと裏切った女だと思っていて」
 もう会わないと告げられてもまだ腕の中の体を抱きたいと湧いて出る欲求に菅原は笑いたくなってしまった。本当に笑い声が漏れるかと思った途端に口から出たのは「ちっくしょ…」という格好の悪い言葉だった。
「何でだよ。何でだよ。何でだよ。何でなんだよ」
 繰り返しながら彼女の体を後ろから好きなようにまさぐって、猛っているものを押し当てた。進藤の瞳から雫が一つこぼれ落ちるのが見えた。
「進藤お前自分の事に興味を持たない詮索しない男を探してたんだろ。俺なんてお前にとってみたらチョロいもんだろ。確かに他の男と寝たなんて俺だっていい気持ちはしない、でも黙ってればどうってことない。お前にとって俺なんてそんなもんだっただろ」
 腰をつかんで乱暴に差し込むと、「う、あ」としゃくり上げるような声が聞こえた。
「仕方ない、でしょ。だって…好きになっちゃったから」
 俺だって好きだずっと好きだったという言葉は飲み込んだ。今更だと知っていた。菅原はこの瞬間だけ目の前の背中を手にしていた。

 朝方目を覚ますと、やはり進藤の姿はなかった。一瞬でも彼女の背中を手にしたことは幸運だったのだろうかと考えながら、菅原は目を閉じた。






COPYRIGHT (C) 2011 国里有簾. ALL RIGHTS RESERVED.