車の中の手袋(1)




 奏子かなこが幼稚園の頃に両親が所有していた車と同じ車種であるその車は、もうずいぶん前にモデルチェンジをして現在では生産されていない型である。使い古されたそれは、ポンコツという表現がしっくりくる、と彼女は思う。山北鋼平やまきたこうへいは父親から譲り受けたというその古い自家用自動車を愛車と言ってはばからないが、暖房効率の低い車に愛着を持てる彼の感覚は、いまひとつ奏子には理解できない。
 冬の岬へは容赦なく風が吹き付ける。
野木のぎさん、寒そうだね」
 『鋼平』という固い名前を裏切って、彼の声の調子は軽い、と奏子は思っている。
「寒そうなんじゃなくて、事実寒いのよ、山北君」
「よしよし、じゃあ、おいで」
 山北はそう言いながら手招きした。子供に使うような言葉に奏子がむっとしつつも近づくと、後ろから手を回されて抱き込まれた。確かに背中は暖かくなったが、車の中からずっと手袋を嵌めている指先は冷たい。奏子は冷え性だった。
「冬の海沿いって、結構寒いもんだな」
「だからこの時期は嫌って言ったじゃない」
「灯台が見たいって言ったのは野木さんでしょー?」
「私が行きたいって言ったのは十月。それがどうして一月になるの?」
「いやこの間買って放っておいた雑誌もったいないから読んでみたらさ、灯台が特集されてて、野木さんが前に行きたいって言ってたのを思い出したんだよね」
「それっていつの雑誌?」
「えー、確か九月号とか、そんなん」
「それ私が山北君の部屋で読んだ雑誌じゃない。今頃読まないでよそんなもん」
「いや、金出して買ったんだからもったいないし」
「だったら買ってすぐに読め」
「うおー、すげえ風。寒いなあ」
「私は冷え性だからもっと寒い」
「灯台の中はエレベーターないから、階段上れば暖かくなるよ」
「確か百段近くあるんじゃなかったっけ?上まで行くの?」
「上んなきゃ来た意味無いでしょ」
「いや別に私はいい」
 ささやかな抵抗に気付かない振りをした山北は奏子の手を取り灯台へと引っ張っていった。入り口には料金百五十円と表示されている。山北が三百円を支払っている間奏子はまあこのくらいならいいかと財布を出さなかった。途中で寄ったファミレスでの昼食代はすべて奏子が払っている。
 予備知識があるとはいえ、狭い上に果てしなく伸びているように感じられる螺旋階段を実際に見上げた奏子は思わず壁に手をついて溜息をついた。
「私には無理だわ」
「野木さん運動不足なんだからこういう時くらい体動かさないと」
「おぶってよ」
「何でそんなに我侭なのかね。行くよ」
 山北に背中を押され、奏子は渋々と階段を上がり始めた。最初から重い足取りの奏子とは違い、後ろの山北は軽々と足を進めている。彼は今でも時々週末に大学の陸上部へ顔を出しては一緒に練習している様子で、しかも日々の仕事でも比較的体を動かすことが多い。パソコンでの事務処理が仕事の九割を占める奏子は、普段もあまり運動をしないため、彼との体力の差は以前から感じていた。
「野木さんさあ、手足腰すべて細すぎるよ。運動して筋肉つけないと」
「仕事に必要ないからいいの」

 奏子は市役所の総務部庶務課で庁内の消耗品購入を担当している。奏子の勤める役所では近年消耗品購入の大規模なシステム変更があった。イントラネットで各課からの消耗品入力を可能とするシステムへの移行である。情報システム課で入力から情報の蓄積までは担当してくれたが、そこから先、CSVファイルを運用するシステムは全面的に庶務課に任される事になった。奏子が出先機関勤務から庶務課へ異動になった時、その処理はエクセルで行われていたが、業者宛の伝票作成や納品後の各課への配布作業にまだ課題が残っていた。出先機関でデータベースソフトであるアクセスを利用していた奏子は、業務の効率化を目指して通勤時間にアクセスの書籍をバラバラにして持ち歩いてまで勉強した。CSVファイルをデータベース化して一連の作業全てに利用できるよう整理すると、奏子は庶務課の中で一目置かれる存在となっていた。
 今奏子は課長から、三十歳という年齢にしては異例の『庶務課庁内庶務担当リーダー』という役職を打診されている。リーダーは役職手当などが付かないが、経験すれば昇進試験にはかなり有利になる。大概は三十五歳前後の男性が各課担当リーダーの役職に就いているが、最近役所では女性登用の『実績』が欲しいのか、来年のリーダーをと奏子に声がかかっているのである。
 一方の山北は、庶務課全体の雑務をこなすアルバイトの立場だった。年齢は奏子と同い年。主な仕事は庁内各所への消耗品配布、庁内全体の電球等消耗品のチェックと交換、文書受付配布。勤務時間は午前四時間。そして午後の四時間は、市内の保育園で非常勤の保育士として勤めている。山北は常勤の保育士を目指しており毎年試験を受けているが、市の試験は倍率も高く今年も落ちてしまった。
 奏子が納品された消耗品へプリントアウトした希望各課のラベルを貼りながら分類し、それを山北が庁内各課へ運ぶという作業上、また庁内電球の一覧と在庫数を奏子がデータベース化する作業上、二人は仕事の接点が多く同い年ということもあって気軽に会話をする関係になった。

 以前、消耗品倉庫の在庫確認のために二人で作業をしている最中、試験勉強のために庶務のアルバイトはやめたほうが良いのではないかと奏子は言ったことがある。
「いや、だって野木さんが心配だし」
 黒ボールペンの箱数を数えながら、山北はさも当然のようにそう返事をした。
「え、何で私を心配するの?」
 クリップボードに挟んだ用紙に中質紙の締数を書き込みながら、奏子はさも心外という声を出してやった。
「真面目すぎんだよな。仕事上ではすげー丁寧で感じもいいのに酒の席になると無表情でお酌も苦手そうだし。だいたい野木さん職場で本音を出したことって無いんじゃないの?」
 あまりにも図星だったので奏子は動きを止めてしまった。確かに、お酌という文化など日本から無くなってしまえば良いと本気で奏子は思っていた。
「他人に仕事頼むのも苦手でしょ?唯一ずけずけと物を言ってしまえて聞いてもらえる俺が居なくなったらどうすんの?」
 山北の指摘は鋭かった。彼は人間観察と考察に長けている。子供を相手にしていると視点が役所の人間とは違ってくるのかもしれないと奏子は思った。
「確かにそういうところはあるけど…大丈夫だもん。そもそも、山北君がそんな心配する必要なんて無いでしょ」
「まあ野木さんにとっては必要ないかもしんないけどね。俺が一方的に心配してるだけだから」
 一瞬胸が高まってしまった事に気付き、奏子の心の中には『不覚』という文字が浮かんでいた。
「野木さん、不倫するくらいだったらさ、俺と付き合おうよ」
 とっさに振り返った奏子を、山北は真っ直ぐに見詰めていた。それが、奏子と山北が付き合い始めるきっかけだった。

 息を切らして階段を上りきると、丸い空間がぽっかりと姿を現した。一箇所に扉があり、丸いベランダのような場所に出ることができる。扉を開くと、冷たい風が吹き付けてきた。
「さむーい」
「うお、さむいな」
 振り返ると、山北のジャケットが風に翻っている。ようやく彼も耐え切れなくなったのか、前のファスナーを閉めた。もちろん奏子は車の中からダウンジャケットをしっかりと着込んでいる。
 付き合い始めてからも、一度だけ勉強に専念したらと奏子が提案したことがある。しかし山北は、「後輩との飲み会にも金がかかるし」と言って結局二つのアルバイトを続けている。今彼が着ているジャケットも防寒性能には欠けそうだが実はきちんとした男性のブランドもので、彼が奏子よりずっと私服にお金を掛けていることを、奏子は付き合い始めてから知った。庁内での彼は、支給の作業着を着ていることがほとんどだった。
 大学の陸上部に顔を出しては先輩風を吹かせて飲み代を多めに負担し、ブランド物の衣服や鞄を揃え、そんな事をしているから新しい車を買うお金も貯まらないのだ、ともちろん奏子は何度も山北に言っている。けれど彼はそういう奏子の言葉に限っては半分も聞いていない様子だった。
 灯台の見晴らしは、とても良かった。紺色の海がうねる様子は、見ていて飽きない。ただ、寒さだけはどうにもならない。耐えられなくなった奏子が扉へ向かっていると、不意に眩暈のような感覚がおそった。足元がぐらつき、奏子はその場にうずくまった。

 まるで、社会の中で自分達が居る場所みたいだ、と、奏子はうずくまったままで考えていた。上手く波に乗ることもできず、それを遠くから眺めていながら、足元にも不安を覚え。
 お酌もまともにできない自分が、人間関係の調整役であるリーダーなどできるはずが無い。しかし断れば、仕事の上でだけは尊敬しているあの男をがっかりさせてしまうだろう。結婚や出産の予定があるわけでも無い。付き合っている男はアルバイトの立場で、しかももし正規任用されれば子供好きの可愛い女性の多いであろう職場で、自分よりずっと相応しい相手が見つかる確率も高い。

 『君さえよければ』と、仕事ができる、しかも端正な顔立ちをした、その男は言った。
「もっと色々な事を…役所の内部事情だとか、周囲に愛想を使うタイミングだとか…教えてあげられると思うんだ。もちろん、無料ただでは無いけれど」
 ドラマなどで良くある不倫のお誘いのように、いやらしい表情や含まれた笑みは一切無かった。どちらかと言えば無表情に近かった。出世頭と呼ばれ、議員の娘である妻と、二人の子も成しているその男は、ただ事実を述べるかのようにそう言った。
 部下として働いたことがあるわけではない。ただ、至急必要な物品があるからと、庶務課長に直談判しに来た際に、少し会話を交わしただけだった。しかしそのやり取りだけで、奏子は彼が自分に無いものを持っている尊敬に値する人物である事を判断したし、彼もまた奏子の対応に何かを感じてくれたようだった。
「多分ね、君はそういう男女の関係を経験すれば、ちょっと化けるような気もするんだよ。できれば教え込むのは僕でありたい」
 山北に付き合おうと言われなければ、奏子は男と不倫の関係を結んでいただろう。もしかしたら、自分のためにも山北のためにもその方が良かったのかもしれないと、しゃがみこんだままの姿勢で遠い波を眺めながら奏子は思った。そうしたら、上手く乗ることはできなくとも波の中でゆるゆると漂うことくらいはできるようになったかもしれない。

「おーい、野木さん、ちょ、大丈夫かよ?おいっ」
 後ろから山北に支えられて、奏子はようやく立ち上がった。彼に腕を預けたまま灯台の内部へと戻る。
「無理させた?ごめん」
 覗きこんでくる山北に、奏子は首を横に振った。
 灯台の資料が展示されている戸棚の陰でしばらく壁にもたれていた奏子は、落ち着いてきたところで目の前に居る山北に抱きついた。
「山北君、寒い」
「そうかそうか」
 山北は、奏子を温めるように背中をさすった。彼は女性にしては背の高い奏子とちょうど同じ身長で、あの男ほど顔立ちは整っていない。どうして同期会で一緒に笑い合う男性たちよりも山北にここまで心を許してしまったのか、どうして彼にはつい本音を漏らしてしまうのか、奏子にも良く分からない。ただ、しばらくは車の中でも手袋をはずせない日々が続くのだろうと奏子は思っていた。








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